第28話 狐面と勇者
【蓮side】
濁った目の人形に、腕を掴まれた。振りほどけない。もう一体が、背後から。だめだ。囲まれる。蓮が覚悟した、その瞬間だった。
人形たちの動きが、いっせいに止まった。
糸を切られたように、その場に崩れ落ちる。紫色の血管が、すうっと引いていき、濁っていた目に、わずかに正気の色が戻る。眠るように、静かに倒れていく。壊されたのではない。ただ、暴走が、鎮められた。誰かの手によって。息はある。全員、生きている。
助かった。あの子たちが。蓮は、崩れ落ちるように、その場に膝をついた。安堵で、力が抜ける。同時に、思い知る。自分では、一人も助けられなかった。ただ、囲まれ、傷つき、殺されかけただけ。全部を覆したのは、あの小柄な影の、たった一振りの手だった。自分の無力さが、これほど骨身に染みたことはなかった。だが今は、それを噛みしめている場合じゃない。あの子は、まだ、戦っているのだから。
蓮は、荒い息のまま、顔を上げた。地下空間の奥。ぽつんと立つ、小柄な影。その手が、こちらへ向けて、そっと持ち上げられていた。
「……君は」
影が、一歩、踏み出す。薄明かりに、その顔が浮かんだ。サイズの合わない制服。後ろで束ねた黒髪。見間違えるはずがなかった。
「……灰原?」
灰原葵が、そこに立っていた。いつものおどおどとした気弱な表情は、どこにもない。凪いだ水面のような静かな目で、蓮を見ている。あの、図書室で一瞬だけ覗いた、井戸の底のような目。それが今、まっすぐ蓮に向けられていた。
蓮の思考が、一気に追いついた。いくつもの点が、一本の線に繋がっていく。事件の現場にいつもいた小柄な影。廃倉庫で自分を助けた誰か。周りの子たちを陰で守り続けた、見えない手。そのすべてが、今、目の前の、この気弱なはずの少女に、収束した。
「まさか……ずっと、君が……? 俺を助けてたのも、あの子たちを守ってたのも、全部……?」
葵は、答えなかった。ただ静かに、蓮のそばを通り過ぎ、倒れた生徒たちのほうへ歩いていく。一人ひとりの脈を確かめるように、そっと手をかざしながら。その手つきは、恐ろしいほど慣れていた。何度も、こうして後始末をしてきた者の手つきだった。
「な……なんだ、貴様! 掃除屋か!」上級生が叫んだ。黒装束たちが、いっせいに葵へ襲いかかる。葵は、振り向きもしなかった。ただ、軽く手を払う。それだけで、男たちは見えない壁に弾かれ、地下空間の壁へと叩きつけられた。声もなく。あっけなく。
蓮は、その光景を、ただ見ていた。理解が追いつかない。あの気弱な灰原が。上級生に頭を下げてばかりいた、あの子が。指一つで、大の男たちを薙ぎ払った。守るべき弱者だと思っていた。一緒に変えようと、手を差し伸べた。その相手が――最初から、自分など足元にも及ばない、隔絶した“何か”だったのだ。一緒に変えよう、なんて。俺は、なんて的外れなことを、この子に言っていたんだろう。恥ずかしさで、頬が熱くなる。だが同時に、猛烈に知りたくなった。この子が、なぜこんな力を隠して、あんな気弱な仮面を被っていたのか。その理由を。
「……嘘、だろ」蓮の口から、掠れた声が漏れた。だが、不思議と、恐怖はなかった。それよりも、胸を占めたのは、別の感情だった。この子は、こんな力を、ずっと一人で抱えて、あの気弱な笑顔の下に隠して。どんな気持ちで、毎日を過ごしてきたのだろう。上級生に使い走りにされ、頭を下げていた、あの姿。あれも全部、演技だった。指一つで、この地下ごと消せるほどの力を持ちながら、あえて、いちばん弱い者を演じて。……なぜ、そこまでして、隠す必要があったのか。蓮には、まだ、分からなかった。ただ、その“隠す”という選択の裏に、途方もなく重い理由があることだけは、痛いほど伝わってきた。そして、蓮は、もう一つのことに気づいていた。この子は、力を振るいながら、一度も笑っていない。楽しそうでも、誇らしそうでもない。ただ淡々と、義務のように、悪意を片づけていく。まるで、罰を受けているみたいに。あんな力を持っていて、なお、こんなにも苦しそうな人間を、蓮は見たことがなかった。
【葵side】
見られた。とうとう、この子に、見られてしまった。
狐面の下、いつもの仮面の下、そのさらに奥にある、私の“本当”を。いちばん見せたくなかった相手に、いちばん見せたくない形で。振り向かなくても、背中に、あの子の視線を感じる。裏切られたような目だろうか。化け物を見るような目だろうか。……それとも。想像するのが、怖かった。
でも、今は、それどころじゃない。私は、倒れた子どもたちの脈を確かめながら、意識を地下空間の奥へと研ぎ澄ませる。まだ、終わっていない。この施設。この人形たち。そして、その向こうにいる“本体”。今夜、ここに、あれがいる。ずっと尻尾を掴ませなかった、あの黒い手が。ようやく、同じ場所に。
この機を、逃すわけにはいかない。第1部のあの夜から、ずっと追い続けてきた。私に汚れ仕事をさせ、都合が悪くなれば証拠ごと消す、あの手を。今日こそ、その正体を暴いて、消す。たとえ、蓮の前で、どれだけの力を振るうことに、なっても。
蓮のことは、あとでいい。全部、片づいてから、ちゃんと向き合う。謝るなり、突き放すなり。……でも、本当は、分かっている。一度見られてしまったら、もう、元には戻れない。あの子の中の“気弱な灰原”は、今夜、死んだ。私が、この手で殺したのだ。また一つ、大切なものを。……ごめんね。心の中で、そう詫びる。
おかしなものだ。ずっと、この秘密を、重い鎧のように背負ってきたのに。いざ、あの子に見られてしまうと、少しだけ、体が軽くなった気がした。もう、あの子の前では、演じなくていい。気弱なふりも、無能のふりも、しなくていい。……その解放感が、かえって、怖かった。楽になってはいけない。私は、罰を受け続ける身なのだから。日陰にいることは、償いなのだから。
私は、面の奥で、静かに息を整えた。感傷は、ここまで。今から、この夜の、本当の相手と向き合う。あの子には見せたくない、私のいちばん醜い部分を、さらけ出すことになるとしても。子どもたちの脈を確かめ終え、私は、地下空間の奥へと、ゆっくり向き直った。あの、冷たい気配のするほうへ。
……本当は、少しだけ、期待していたのかもしれない。あの子が、私を見て「化け物」と叫んでくれることを。そうすれば、諦めがつくから。もう二度と、日向を羨まずに済むから。なのに、あの子は、心配そうな顔をした。それが、いちばん、こたえた。私の決意を、いちばん、揺さぶった。……だめだ。今は、雑念を消せ。私は、面の下で、頬を一度、強く張った。
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次話は明日21時ごろ更新予定です。




