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無能を演じる必要悪 〜正義の勇者が壊した世界を、私はまた黙って直す〜  作者: なち
第2部 交わらぬ正義

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第26話 黒い手

【蓮side】


 その日、蓮は一通のメモを下駄箱の中に見つけた。


 折り畳まれた白い紙。差出人は書かれていない。開くと、ただ一行、こうあった。『この学園の"本当の顔"を知りたければ、今夜、旧校舎の地下へ。君の探しているものは、そこにある』。


 誰が、なんのために。心当たりは、ありすぎた。あの粘つく笑みの上級生。その背後にいる、“解放の輪”の本体。蓮の首を、ずっと狙っていた連中。罠でないはずが、なかった。まっすぐな正義を「へし折るのが楽しい」と言った、あの男たちの招待状。のこのこ行けば、どうなるかなど分かりきっている。


 蓮はそのメモを何度も読み返した。指先が少し冷たくなっている。行けば、死ぬかもしれない。あの、力の切れる頼りない体で。だが――もし、ここに書かれていることが本当なら。消えていった子どもたちの、その行き先が。大人たちが隠してきた、その“本当の顔”が。それを知る、たった一度の機会かもしれない。逃せば、二度と辿り着けないかもしれない。恐怖と使命感が、激しくせめぎ合った。


 脳裏に、いくつもの顔が浮かんだ。連れ去られた下級生。足を折った女子。転校したことにされて消えた、名前も知らない子どもたち。空っぽの椅子。あの子たちの行き先が、この地下にあるのなら。確かめなければならない。たとえ、この身がどうなろうと。蓮の中で、恐怖は少しずつ、決意に塗り替えられていった。


 それでも――行かなければ、何も変わらない。ここで逃げれば、俺は俺でなくなる。蓮はメモをポケットにしまった。誰にも言わずに。あの子たちを、これ以上巻き込まないために。今度こそ、たった一人で。膝を折った、あの下級生の顔がちらついた。だからこそ、行くのだ。


 ――それに、と蓮は思う。もし、あの“見えない誰か”が本当にいるなら。俺が一人で危ない場所に飛び込めば、きっとまた来てくれる。今度こそ、その正体をこの目で確かめられる。守られてばかりは、もう嫌だった。せめて一度くらい、その人に面と向かって礼が言いたい。……それが罠に飛び込む言い訳だと、蓮自身、どこかで分かっていた。それでも、足はもう止まらなかった。制服のポケットの中で、蓮はもう一度メモを握りしめる。冷たい紙の感触が、これから飛び込む闇の冷たさを予感させた。それでも、行く。誰かが最初に、この学園の底を覗かなければ、何も変わらないのだから。蓮は、旧校舎へと続く暗い廊下へ、足を踏み出した。一歩ごとに、空気が冷たく、重くなっていく。饐えたにおい。この先に、この学園が隠してきた“本当の顔”がある。恐怖はあった。だが、それ以上に、確かめたいという思いが勝っていた。ずっと目を逸らされてきた真実に、今夜こそ、たどり着く。その先に、どんな地獄が待っていようと。蓮は、暗い階段を、一段ずつ降りていった。


【葵side】


 (……嫌な風が、吹いてる)


 その夜、私は窓の外の闇を見ていた。空気が重い。第1部の、あの地下の夜と同じ匂い。"あの人"が動いている。私に汚れ仕事をさせて、都合が悪くなれば口を封じる、あの黒い手が。学園の“本体”。私が一度も正体を掴めていない、いちばん深いところの誰か。


 そして、その気配はまっすぐ、旧校舎の地下へと伸びていた。蓮の向かう先へ。あの子は、招かれたのだ。いちばん危ない場所へ。まっすぐすぎて退くことを知らないあの子は、きっと迷わず飛び込む。それを、あの黒い手は見越している。あの子を餌に、私を釣るつもりなのか。それとも、あの子ごと消すつもりなのか。どちらにせよ――。


 (……行かせるわけ、ないでしょ)


 私は机の引き出しから、狐の面を取り出した。指先が迷いなく動く。あの子を、あの場所へ、一人では行かせない。たとえ、私の正体があの子に知られることになっても。もう、隠している場合じゃない。今夜、私は、あの子の前で面を外すことになるかもしれない。それでも構わない。あの子が生きてさえいれば。


 狐面を顔に当てる。冷たい漆黒の感触が、私を“灰原葵”から、あの掃除屋へと切り替えていく。気弱な仮面の下の、もう一つの顔。……今夜は、そのどちらでもない顔を、あの子に見せることになるのかもしれない。素の、ただの私を。それが、少しだけ、怖かった。ごめんね、双葉さん、颯太くん。あなたたちには、もうこれ以上、危ないものを見せたくなかったのに。でも、たぶん、あなたたちも来るんでしょうね。あの、優しい子たちだから。せめて、あなたたちだけは巻き込まないように。私は面を握りしめ、静かに部屋を出た。


 闇の廊下を、私は迷わず進む。この足取りに、迷いはない。ただ、胸の奥だけが、少しだけざわついていた。今夜、あの子の前で、私はどんな顔をすればいいのだろう。掃除屋の顔。気弱な灰原の顔。それとも――誰にも見せたことのない、素の顔。分からないまま、私は夜の底へと降りていった。


【双葉side】


 その朝から、学園の空気は、明らかに張り詰めていた。三年のSクラスの先輩が、昨夜から姿を消したという。今度は「転校」でさえない。ただ、消えた。部屋も荷物もそのままに。双葉の背筋が冷えた。嗅ぎ回った者が、消される。それは第1部の、あの地下の光景とまったく同じやり方だった。“本体”が、動き出したのだ。


 (颯太。なんか、すごく嫌な予感がする)(うん。第1部の時より、ずっと大きい何かが来る気がするんだ)


 その夜。颯太の感覚共有が、廊下を一人歩いていく蓮の背中を捉えた。旧校舎のほうへ。迷いのない、けれど思い詰めた足取りで。


 (双葉! 蓮くんが、旧校舎に向かってる。一人だ。……あれ、絶対、罠だよ)(追って、颯太! 私も、すぐ行く!)


 双子はまた走り出す。まっすぐで危なっかしい、あの背中を追って。第1部のあの夜、狐面の葵を追いかけた時と同じように。


 (颯太、葵ちゃんも動いてる。……たぶん、同じ場所へ)(うん。二人が、同じ夜に、同じ地下へ。……双葉、今夜は今までと違う気がする)


 双葉は走りながら唇を噛んだ。まっすぐな光と、それを陰で支えてきた影。二つが、ついに正面から出会う。その瞬間を、この目に焼きつけよう。班の一員として。何の力もなくても、見届けることだけは、できるから。学園の地下で、二つの正義が――まっすぐな勇者と、影の必要悪が、とうとう真正面からぶつかる。双子はまだ知らない。この夜が、第2部のすべての歯車を、一気に回し始める引き金になることを。


 夜の校庭を駆けながら、双葉は祈った。間に合って。誰も欠けないで。班のみんなが、また明日、あの食堂のテーブルに揃いますように。届くはずのない祈りを、それでも双葉は握りしめていた。今夜、すべてが動き出す。双葉には、それが痛いほど分かっていた。

お読みいただきありがとうございました。

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次話は明日21時ごろ更新予定です。

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