第25話 違和感の輪郭
【蓮side】
一度、疑い始めると、点と点が線になっていった。
あの気弱なブースター、灰原葵。思い返せば、彼女はいつもそこにいた。テロの警報が鳴った日。混乱の中で、たった一人、逃げずに現場のほうへ歩いていく小さな背中。廃倉庫の夜。倒れる寸前に見た、狐の面。そして、いつも事件のあと。灰原葵は決まって、少し息を切らして、何気ない顔で教室に戻ってくる。
誰も気づかない。気づく理由がないからだ。あの気弱なブースターが、まさか、と。その「まさか」こそが、彼女のいちばんの鎧だった。蓮はノートの端に、思いつく限りの“一致”を書き出してみた。日付。場所。灰原葵が近くにいたかどうか。書き出すほどに、背筋が寒くなっていく。偶然で説明できる数を、とうに超えていた。書き出したノートを、蓮はしばらく見つめ、それからそっと閉じた。もし、これを誰かに見せれば、「妄想だ」と笑われるだろう。あの気弱な灰原が、と。だが蓮には、笑い飛ばせなかった。あの井戸の底のような目を、一度でも見てしまった者には。
だが、確信と証拠は違う。それに、もし本当に彼女が“あれ”なら――なぜ、こんなにも頑なに隠すのか。守ってくれているのに、礼を言わせてもくれない。その頑なさの奥に、蓮の知らない、深い事情が沈んでいる。そんな予感がした。踏み込めば、彼女の、いちばん触れられたくない場所を、暴くことになるのかもしれない。それでも、蓮は確かめずにはいられなかった。守られたまま知らんぷりを続けるほうが、蓮にはよほど耐えられなかったから。
放課後、蓮は図書室の奥で本を読む葵に、まっすぐ歩み寄った。「灰原。……単刀直入に訊く。この前、廃倉庫で、俺を助けたのは、君か」
「え……? 廃倉庫、ですか?」葵は心底戸惑ったように目を瞬かせた。「私、そんなところ行ったことないです。それに、私みたいなのが人助けなんて、できるわけないじゃないですか」
あまりに自然な、気弱な生徒の反応だった。声の震えも、伏せた視線も、演技には見えない。並の相手なら、ここで諦めただろう。だが蓮は引かなかった。「俺は、君に礼が言いたいだけなんだ。もし君が、俺の周りで危ない目に遭いかけた子たちを、ずっと陰で守ってくれてたんなら。俺は、その人に頭を下げなきゃいけない。何も気づかずに守られてた自分が、情けないから」
葵はしばらく黙っていた。伏せたまつげが、かすかに震えている。それから、ゆっくりと顔を上げた。その表情は、いつもの気弱な笑みに戻っていた。「……買いかぶりすぎですよ。天音くんを守れるほど、私、強くないです。本当に」。その声は優しくて、そして、どこか拒むように遠かった。
だが蓮はその一瞬、彼女の瞳の奥で、凪いだ水面が揺れたのを確かに見た。氷が、ほんのわずかに軋むように。その揺れを、蓮は見逃さなかった。ああ、やっぱり。確信が、胸の奥で静かに固まる。だが、ここで問い詰めても、彼女は貝のように閉じるだけだろう。蓮は逸る気持ちをぐっと抑えた。焦っては、いけない。この子は、脅して口を割らせるような相手じゃない。信じてもらうしか、ないのだ。時間をかけて。
「……もし」蓮は静かに言った。「もし、いつか君が、誰にも言えない重いものを、一人で抱えてるんだとしたら。その時は、俺を頼ってくれよ。俺は弱いけど。守られてるだけじゃ、嫌なんだ」
葵の肩が、ぴくりと動いた。ほんの一瞬、その気弱な仮面が剥がれかけた気がした。だが彼女はすぐに、いつもの困り顔で首を振り、逃げるように席を立った。その背中を、蓮は追わなかった。今は、まだ。だが、確信は深まるばかりだった。灰原葵は、何かを隠している。それも、たった一人で、押し潰されそうになりながら。蓮の中で、彼女は「守るべき弱者」から、「一人で戦っているかもしれない誰か」へと、静かに姿を変えていた。もし、そうなら。あの小さな体で、たった一人、この学園の闇の全部を引き受けているのだとしたら。想像しただけで、蓮は胸が苦しくなった。だったら、なおのこと放ってはおけない。守られる側から、隣に立つ側へ。蓮はそう願わずにいられなかった。たとえ、彼女がそれを望まなくても。
【詩織side】
――そこまでですわ。
翌日、また葵様に近づこうとする蓮の前に、わたくしは音もなく割って入った。「天音さん。灰原さんが迷惑しておりますわ」。氷のように微笑んでみせる。天音蓮の勘は、もう危険な領域に踏み込んでいる。次に二人きりになれば、あの子は確信を口にするだろう。そうさせるわけにはいかない。
「神楽。……君は、知ってるんだな。灰原が、何者なのか」
心臓がひやりとした。だが、顔には出さない。「何をおっしゃっているのか。灰原さんは、ただのCクラスの生徒ですわ。あなたが勝手に、都合のいい物語を作っているだけ。誰かを特別な存在に仕立て上げて、救った気になるのは、おやめになったら?」。わざと棘のある言い方をした。蓮の意識を、葵様から、わたくし自身への反発へと逸らすために。
「……そうか」蓮はそれ以上追及しなかった。だが、その目は確信の色を帯びていた。引き下がったのではない。ただ、今は退いただけ。そういう目だった。
去っていく蓮の背中を見送りながら、わたくしは小さく息を吐いた。近い。あの子は、もうすぐそこまで来ている。葵様が必死で隠してきた、その正体のすぐ隣まで。いっそ、わたくしがあの少年を消してしまえば。何度そう思ったか知れない。わたくしの手なら、いくらでも汚せるのに。……でも、それを葵様は望まない。「詩織に、そんなことはさせたくない」と、あの方は言う。ご自分は、あんなにも泥をかぶり続けているのに。わたくしを汚させまいとする。だから、わたくしはこの方に心を捧げたのだ。あの日、行き場のなかったわたくしを拾ってくれた、あの日から。その理由を、天音蓮は知らない。誰も知らなくていい。
ただ、これだけは分かる。あの少年は、いずれ必ず、葵様の核心に触れる。その時、葵様がどうなさるのか。正体を明かして、あの子を仲間にするのか。それとも、あの子の記憶ごと、この数か月を消してしまうのか。……どちらも、葵様を深く傷つける道だ。わたくしは、その日が来ないことを、ただ祈るしかなかった。祈ることしかできないのが、歯がゆかった。
――だからこそ、わたくしは決めていた。もし、あの少年が葵様に牙を剥くようなことがあれば。あるいは、葵様の重荷になるようなことがあれば。その時は、葵様の手を汚させる前に、わたくしが。たとえ、あの方に嫌われても。それが、拾われた者の役目だと、わたくしは信じていた。たとえ、それがわたくしの最後の役目に、なったとしても。
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次話は明日21時ごろ更新予定です。




