第24話 鏡
【蓮side】
結局、守れなかった子が、一人、出た。
蓮の味方をしていたDクラスの女子が、放課後、人気のない階段で背中を押され、足を折った。『解放の輪』の仕業だと、蓮にはすぐ分かった。今度ばかりは間に合わなかった。あの“見えない誰か”でさえ。悪意は時に、優しさの手が届かないほど素早く牙を剥く。
医務室のベッドで、その子はギプスに包まれた足を投げ出したまま、蓮に力なく笑ってみせた。「天音さんのせいじゃ、ないですよ。わたし、天音さんのこと、かっこいいって、今でも思ってますから」。痛みをこらえて、それでも笑おうとしていた。蓮を気遣って。「天音さんが来てから、みんな、ちょっとだけ勇気が出たんです。俯いてばっかりだったのが、顔を上げられるようになって。それって、すごいことですよね」。
蓮は、何も言えなかった。ただ、その細い手を握り返すことしか。ありがとうも、ごめんも、どちらもこの子の折れた足の前では、あまりにも軽すぎる気がして。病室を出るとき、その子は蓮の背に「また学校で」と声をかけた。まるで、蓮のほうを励ますみたいに。その明るさが、かえって蓮の胸を締めつけた。守られるべき子に、逆に気遣われている。自分は、いったい何をしているのか。
医務室を出ると、その子の親友だという女子が、廊下で蓮を睨んでいた。何も言わなかった。ただ、その目が語っていた。あなたのせいだ、と。蓮はその視線から逃げなかった。逃げる資格すら、ないと思った。受け止めるしかなかった。自分のまっすぐさが招いた結果を、正面から。
その夜、蓮は屋上の隅で膝を抱えていた。まっすぐ進めば変えられると思っていた。諦めなければ届くと思っていた。でも現実は、そんなに甘くなかった。まっすぐな刃は、振るうたびに守りたかったものを傷つけていく。正義は、振りかざすほどに弱い者を危険に晒す。
いっそ、やめてしまおうか。声を上げるのを。そうすれば、この子たちが巻き込まれることは、なくなる。……そこまで考えて、蓮は強く頭を振った。違う。それをやったら、この折れた足も、消えた子どもたちも、全部なかったことになる。それだけは、できない。だが、では、どうすればいい。まっすぐ進めば傷つけ、退けば見捨てる。その両方の間で、蓮は出口のない迷路に迷い込んでいた。
――根を、断つしかない。ふいに、その考えが浮かんだ。末端の悪意を一つずつ潰しても、きりがない。ならば、この“解放の輪”のいちばん奥。あるいは、それを泳がせているこの学園の、いちばん深いところ。そこを断てば、もう誰も巻き込まずに済むかもしれない。その考えは、蓮を、いっそう危うい場所へと静かに誘っていく。
――前世でも、俺は、こうだったんじゃないか。記憶の底にある、あの届かなかった手。守れなかった、誰かの泣き顔。あれも、きっと俺の“正しさ”が招いた結果だったんじゃないか。その問いは、答えの出ないまま、蓮の胸の底に重く沈んでいった。名前も、顔も、思い出せない。ただ、「守れなかった」という感触だけが、体の芯に焼きついている。俺はきっと、同じ過ちを繰り返している。だとしたら――今度こそ、やり方を変えなければ。同じ後悔を、三度も抱えるわけにはいかない。蓮は、冷たい夜風の中で、そう自分に言い聞かせた。やり方を変える。その具体策は、まだ見えない。ただ、蓮の視線は、いつのまにか旧校舎のほうへ向いていた。あの鉄扉の向こう。この学園の膿が溜まった、いちばん深い場所。そこを暴けば、何かが変わる。根拠のない確信が、また蓮の背中を押していた。危ういと、自分でも分かっている。それでも、止まれない。それが、天音蓮という人間だった。
【葵side】
男子寮の屋上に、ぽつんとうずくまる蓮の姿を、私は離れた校舎の窓から見ていた。
……ああ、その顔だ。自分の正しさが誰かを傷つけたと知った時の、あの顔。世界を救えると信じていた手が、実は何ひとつ守れていなかったと気づいた時の、あの、こわばった横顔。知っているよ。痛いくらい、知っている。
昔、私も同じ場所に立っていた。悪を消せば世界はきれいになると信じて、迷わず力を振るった。守るためだと、これは正義だと、露ほども疑わなかった。そして――気づいた時には、消さなくていいものまで消していた。私の正しさが、私のいちばん守りたかったものを、この手で跡形もなく消し去っていた。「なかったこと」にできるはずの私の力でさえ、一度失ったものだけは、二度と元には戻せなかった。
あれは、私がまだ「私」を正義だと信じていた頃。ある日、私は間違えた。悪だと思い込んだものの中に、守るべきものが混じっていた。気づいた時には、もう遅かった。先代は、その罪を黙って肩代わりしてくれた。「おまえは、まだやり直せる」と言い残して、私の前から消えた。あの人が今どこで、どうしているのか。生きているのかさえ、私は知らない。
あの日から、私は正義を名乗るのをやめた。ただの必要悪になった。英雄には、二度となってはいけないと、決めたから。英雄は、みんなに讃えられる。頼られる。期待される。そして、その期待に応えようとするほど、手を汚す範囲が、際限なく広がっていく。私は、それでいちばん大切なものを失った。だからもう、日向には立たない。讃えられも、頼られもしない、ただの影でいい。それが、私が学んだ、たった一つの教訓だった。
――君は、どうする。私は屋上の蓮に、心の中で問いかける。同じ壁の前で、同じ痛みを抱えて。君は、私と同じように正義を捨てて、日陰に降りるのか。それとも。
……いや。降りてほしくないな。君だけは。まっすぐなまま、日向でもがいてほしい。転んで、傷ついて、それでも立ち上がって。私が捨ててしまった、あの道の続きを、君に歩いてほしい。君の隣には、君を心配して追いかけてくる子たちがいる。私には、いなかったものが。だから、きっと君は、私みたいにはならない。
窓の桟に、そっと額を預ける。屋上の蓮は、まだ動かない。……大丈夫。君はまだ間に合う。だから、頼むから。どうか、私みたいな怪物には、ならないで。私はそう祈りながら、静かにその場を離れた。今夜も、消しに行かなければ。あの子の知らないところで。あの子が、明日もまっすぐ笑えるように。
その笑顔を守るためなら、私は何度でも影になる。誰にも気づかれなくていい。感謝されなくていい。ただ、あの子が、私みたいに、大切なものを自分の手で壊して、泣きながら日陰に降りてくる――そんな日が、来ませんように。それだけを、私は祈っていた。柄にもなく、祈ることしか、できずに。……そんな祈りが、どれほど無力かも、知りながら。それでも、祈らずにはいられなかった。
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次話は明日21時ごろ更新予定です。




