第22話 裏目
【葵side】
狐面の内側で、私は静かに息を吸った。
振り上げられた刃。倒れかけた蓮。もう間に合わない距離。それでも、私の手にとっては、遠くも近くもなかった。指先を、そっと持ち上げる。
刃を握っていた男の手から、ナイフがぽろりと滑り落ちた。金属が地面を打つ、間の抜けた音。続いて、蓮を囲んでいた黒い影たちが、糸を切られたように、いっせいにその場へ崩れ落ちる。声もなく、抵抗もなく。ただ、深い眠りへ。殺しはしない。壊しもしない。この程度で、十分だ。
膝をついた蓮が、かすむ目で、こちらを見上げていた。
「……君、は……」
その声が、途切れる。数秒だけ噴き出した力を使い果たして、体が限界を迎えたのだ。前のめりに倒れる蓮を、私は見えない手で、そっと支えた。壊れ物を扱うように、静かに地面へ横たえる。
――間に合った。安堵と、それを上回る焦りが、胸で同時に鳴った。見られた。ほんの一瞬でも、この子は私の“何か”を見てしまった。倒れる間際の、あの目。あれを、覚えているだろうか。覚えていませんように。祈るように、そう思う自分が、ひどく身勝手に思えた。
この子が、私の正体に気づけば。きっと、あの澄んだ目で、私を見るだろう。掃除屋。人を消す化け物。……いや、この子は、そういう言い方はしないかもしれない。むしろ、「一人で抱えてたのか」と、悲しそうな顔をするかもしれない。それが、いちばん怖かった。責められるより、憐れまれるより、あの子にだけは、悲しい顔をさせたくなかった。
私はうずくまって泣いている下級生のところへ歩み寄り、膝を折って目線を合わせた。「もう大丈夫だよ。怖かったね。……よく、頑張ったね」。面越しの声は、いつもの気弱な葵の声でも、冷たく凪いだ声でもなかった。ただ、疲れて、優しいだけの、素の声だった。下級生はしゃくり上げながら、こくこくと頷く。その頭を、私はぽんぽんと撫でた。
やがて詩織が、音もなく暗がりから現れた。倒れた男たちを冷たく一瞥し、私に向かって恭しく頭を垂れる。
「葵様。あとは、わたくしが。この者たちの記憶と痕跡は、いつものように処理いたします」
「うん。……お願い、詩織。あの子は家まで送ってあげて。でも、怖かった記憶は消さないであげて。忘れさせるのは簡単だけど、それをすると、この子が自分の頑張りごと、なかったことになっちゃうから」
「……かしこまりました」
私は、倒れた蓮をもう一度見下ろした。この子は、助かった。それだけで、今夜は十分だ。……だが、十分ではないことも、私は知っていた。今夜また一つこの学園の澱を消しても、明日にはまた別の澱が湧く。きりがない。根が、どこかに残っているからだ。その根を、私はまだ掴めずにいる。指先一つで世界を書き換えられる私が、たった一つ、その黒幕の尻尾だけは、いつも直前で見失う。まるで、私と同じ力を持つ誰かが、向こうにもいるみたいに。
「この子のことは、寮の前まで。誰にも見られないように、そっとね」
目が覚めたら、どうか今夜のことは、悪い夢だと思ってほしい。私という影のことは、どうか忘れてしまってほしい。狐面の下で、私は小さく、そう願った。
【蓮side】
目を覚ますと、見慣れた男子寮の天井があった。
蓮はしばらく、自分が生きていることが、うまく飲み込めなかった。あの廃倉庫。振り上げられた刃。力の切れた体。もう終わりだと思った、あの瞬間。それが、なぜかこうして布団の中にいる。体のあちこちが痛むのに、致命的な傷はどこにもない。
「気がついたか」同室の男子が覗き込んでいた。「昨日の夜、寮の前で倒れてたんだぞ。誰かが運んできたみたいだけど、俺が気づいた時には、もう誰もいなかった」
「……誰かが、運んできた」倒れる直前に見た、あの小柄な影。狐の面をつけた誰か。あれは夢だったのか。思い出そうとすると、頭の芯が鈍く痛んだ。ただ、助けられた。それだけは確かだった。
「そうだ、あの子は……!」蓮は跳ね起きた。焦って飛び出そうとする蓮を、同室の男子が止める。「落ち着けって。あのDクラスの子なら、無事に帰ってきてる。今朝、見かけたよ」
助かった。少なくとも、命は。蓮は深く息を吐いた。だが、安堵はすぐに、別の重いものへと塗り替えられていく。
その日、教室に行くと、蓮を慕っていた下級生たちの姿が、めっきり減っていた。いつも周りに集まっていた、あの明るい輪が、嘘のように消えている。廊下ですれ違っても、目を合わせず、逃げるように去っていく子さえいた。
残っていた一人が、蓮を廊下の隅へ呼び、青ざめた顔で囁いた。「天音さん……もう、俺たちに構わないでください。昨日連れて行かれた子、あれ、見せしめなんです。天音蓮と仲良くしてると、次はお前だぞって。……せっかく、ちょっとだけ、学校が楽しくなってたのに」
最後の一言が、蓮の喉に深く刺さった。「待ってくれ。俺が、必ず守る。だから――」「守れるんですか?」下級生の声は震えていた。責めているのではない。ただ怯えていた。「天音さんが強いのは知ってます。でも、あいつら、もっと汚いんです。天音さんがいくら正しくても、俺たちは、天音さんみたいに強くないんです」
蓮は、言葉を失った。守りたかった。あの子たちが安心して笑える場所を作りたかった。それだけだったのに。自分が正しさを振りかざせば振りかざすほど、その子たちが危険に晒されていく。蓮の善意が、あの子たちの頭上に、いつのまにか鋭い刃を吊り下げていたのだ。
「……そうだよな。ごめん」絞り出したその一言が、喉に貼りついて苦かった。
その夜、蓮は眠れなかった。俺のやり方は、間違っていたのか。声を上げるのを、やめるべきなのか。……いや。それでも、見て見ぬふりをする大人にだけは、なりたくない。ただ、守り方を変えなきゃいけない。もっと賢く、誰も巻き込まないやり方を。だが、それがどんなやり方なのか、蓮にはまだ見えなかった。
それに、と蓮は暗い天井を見つめる。あの狐面の誰かは、なぜ姿を見せない。なぜ、俺を助けておきながら、名乗りもせず消えるのか。守られている。その事実が、蓮の胸に、感謝と、それ以上の焦りを残した。守られるだけの自分が、情けなかった。次は、自分の力で。次こそは。まっすぐ進むしか知らない自分が、生まれて初めて立ち止まったまま、蓮は朝までそう繰り返していた。窓の外が白み始めても、答えは出なかった。ただ一つだけ、蓮の中で確かになったことがある。このまま末端の連中と小競り合いを続けても、何も変わらない。もっと奥へ。この学園が隠している、いちばん深いところへ。そこへ行かなければ。その思いだけが、夜明けの光の中で、静かに輪郭を持ち始めていた。
お読みいただきありがとうございました。
続きが気になった方は、ブックマーク・★評価で応援いただけると、とても励みになります。
次話は明日21時ごろ更新予定です。




