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無能を演じる必要悪 〜正義の勇者が壊した世界を、私はまた黙って直す〜  作者: なち
第2部 交わらぬ正義

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第21話 狼煙、再び

【蓮side】


 その週の終わり、あの子が消えた。


 中庭で助けた、小柄なDクラスの下級生。いつも蓮の後ろをひよこみたいについて回っていた、あの子だ。別の下級生が、青ざめて駆け込んできた。あの子が“解放の輪”に連れて行かれた。天音蓮と仲良くしていると痛い目を見る、という見せしめに。


 「……俺のせいだ」


 血の気が引いた。あの子は、蓮の隣で笑っていただけだ。それが、こんなことになるなんて。次の瞬間には、もう駆け出していた。走りながら、頭には最悪の想像ばかりが浮かぶ。間に合わなかったら。あの子が、俺のせいで。足がもつれる。それでも止まれるわけがなかった。あの子の顔が、頭から離れない。俺を「天音さん」と呼んで、はにかんで笑った、あの顔が。俺が声をかけなければ。俺が、あの子を目立たせなければ。後悔が鉛のように足に絡みつく。それでも、走った。後悔している暇があるなら、一秒でも早く。


 旧校舎の裏手、あの廃倉庫の近く。数人の黒い影に囲まれて、下級生が震えてうずくまっていた。黒い装束。手には刃物。数は、五、六人。まともにやり合えば、勝ち目はない。頭では分かっていた。だが、あの子の涙で濡れた顔が見えた瞬間、勝算なんて、どうでもよくなった。こういう時、いつも体が先に動く。考えるより早く。それが蓮の長所であり、そして、いちばんの危うさだった。誰も、そんな蓮を止められない。止めようとした者は、みんな、その背中の眩しさに目を細めるだけだった。


 「離せ! その子を離せッ!」


 闇へ飛び込む。その瞬間、体の奥で熱が爆ぜた。全身から噴き出す、燃えるような力。踏み込んだ一歩で地面が割れ、振るった拳が黒い影を殴り飛ばす。横から殴りかかるもう一人を、金色の腕で受け止め、投げ飛ばした。背後から迫る影を、振り向きざまにかわす。人間離れした速さと重さ。倒れた下級生をかばうその感覚に、蓮は一瞬だけ、これならいける、と思った。行ける。このまま、全員を。守れる。そう思った、その矢先だった。


 その光は、数秒で消えた。潮が引くように、熱が体から抜けていく。膝ががくんと折れた。


 「なんで……力が……! さっきまで……!」


 呼び戻そうとしても、応えない。感情が極限まで高ぶった時だけ噴き出し、それを保つことも繰り返すこともできない。生まれたての、荒削りな力。蓮は歯を食いしばった。「頼む……今だけでいい、もう一度……!」。だが体は空っぽだった。立ち上がろうとして、無様に地面へ手をつく。


 背後で、下級生が泣いていた。「天音さん、天音さん」と、震える声で。その声が、蓮の胸を抉る。守ると言った。必ず守ると、その口で。なのに、また、この体は、肝心なときに動かない。――なんのための、力だ。なんのための、正義だ。守れなきゃ、意味がないじゃないか。悔しさで視界が滲む。それでも蓮は、下級生をかばう腕だけは緩めなかった。せめて、この体が盾になるなら、最後まで。視界の端が暗くなっていく。力を使い果たした反動だ。それでも蓮は、意識を手放すまいと爪を地面に立てた。ここで気を失えば、あの子が。せめて、あの子だけでも逃がす隙を。頭は、そのことだけでいっぱいだった。こんな時でも、蓮が考えるのは自分のことではなかった。あの子を。ただ、あの子を。その一途さだけは、力を失ってなお、少しも揺らがなかった。


 黒い影がじりと囲みを狭める。「威勢がよかったのは最初だけか。勇者ごっこも、ここまでだな」。刃が月光を照り返し、高く振り上げられる。蓮の肩へ向けて。


【双葉side】


 (――まずい! 双葉、蓮くんが殺される!)


 颯太の悲鳴が、双葉の頭のなかで弾けた。双子は夜の校庭を走っていた。蓮のあとを追って。


 (颯太、私が近道する! 蓮くんを見失わないで!)


 双葉は全力で駆けた。息が切れ、脇腹が痛む。それでも足を止めなかった。第1部のあの夜、指一本動かせず葵の背中を見送った、あの無力感がせり上がってくる。自分たちには何の力もない。それでも、見届けることだけはできる。それが、班の一員として、あの子たちのそばにいると決めた、自分の役目だから。走りながら、双葉は祈った。間に合って。誰も、欠けませんように。班のみんなが、また明日、あの食堂のテーブルに揃いますように。


 その時、双葉は見た。旧校舎の崩れかけた壁の暗がりに、ぽつんと佇む小さな影を。サイズの合わない制服。後ろで束ねた黒髪。その手に握られていたのは、あの忘れもしない漆黒の狐面だった。


 (……葵ちゃん)


 (双葉、あれ……蓮くんを助けに来たんだ。でも、たぶんそれだけじゃない)


 双葉にも分かった。狐面の少女は、蓮を助けると同時に、たった一人で、あの黒い連中の全部を、引き受けるつもりなのだ。


【葵side】


 (……関わるな、と頭では分かってる)


 私は狐面を握りしめる。ここで私が出れば、この子は見てしまう。「たいした力じゃない」と笑ったあのブースターの正体を。そうなれば、この子はもうまっすぐではいられない。私の見たあの地獄を、この子も覗くことになる。


 でも――このまま見捨てれば、この子は死ぬ。まっすぐなまま。誰かを救おうとした、そのままで。


 昔、先代に言われたことがある。おまえのその手は優しすぎる、優しさはいつかおまえ自身を殺すよ、と。……そうかもしれない。この手が優しさで動くたび、私はまた誰かを背負うことになる。背負った命の分だけ、私は日陰に沈んでいく。分かっている。それでも、目の前で子どもが殺されるのを、指をくわえて見ていられるほど、私は強くない。強くなんて、なれなかった。


 それでも、この子だけは。この眩しい子だけは、私みたいな道を歩ませたくない。……ごめんね。君に、見せたくなかった。でも、君を死なせるくらいなら、正体がばれるほうが、まだましだ。この一歩で、たぶん、何かが変わる。私と、あの子の間の、何かが。それでも、踏み出す。あの子を死なせるなんて、そんな結末、私が許せない。世界のどんな理屈より先に、私の手が、そう叫んでいた。


 (――しょうがない、なあ)


 私は暗がりから、一歩前へ踏み出した。


【双葉side】


 狐面の少女の、その一歩で、廃倉庫の空気がぴりっと張り詰めた。刃を振り上げた男が気配に気づいて振り返り、その小柄な影を見て、訝しげに眉をひそめる。「……なんだ、ガキが。もう一人か」


 男の声には、まだ余裕があった。無理もない。そこに立っているのは、どう見ても非力な女子生徒が一人。だが双葉だけは知っていた。あの小さな影が一歩踏み出しただけで、この夜が根こそぎ書き換えられてしまうことを。双葉は思わず、感覚共有の向こうで颯太の手を強く握った。怖い。でも、目を逸らしたくなかった。あの子が、これから何をするのか。そして、まっすぐな蓮くんが、それを見て、どうなってしまうのか。感覚共有の糸の向こうで、颯太も同じ気持ちでいるのが分かった。二人でひとつ。怖くても、目を逸らさない。それが、班の隅にいる双子にできる、たった一つのことだった。狐面の少女が、また一歩、前へ出る。その背中は小さいのに、双葉の目には、この学園の誰よりも大きく見えた。かつて第1部で見た、あの狐面の少女。怖くて、頼もしくて、そしてどうしようもなく哀しい、あの背中だ。双葉はまばたきも忘れて、その光景に見入っていた。何が起きても、目を逸らさない。それが、ここにいる意味だから。


 狼煙は上がった。まっすぐな勇者と、影の必要悪。決して交わらないはずだった二つの正義が、今、同じ夜の同じ闇のなかで、初めて交わろうとしていた。

お読みいただきありがとうございました。

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次話は明日21時ごろ更新予定です。

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