第19話 噛み合わない手
【蓮side】
その少女に声をかけたのは、ほんの偶然だった。
図書室のいちばん奥。誰も寄りつかない書架の陰で、灰原葵は背中を丸めて本を読んでいた。サイズの合わない制服。地味で、気弱そうな、目立たない生徒。上級生に使い走りにされているのを、蓮は何度か見かけていた。抵抗もせず、へらへらと頭を下げて。その姿を見るたび、蓮は胸が痛んだ。あんなふうに自分を守ることを諦めた子を、この学園はいくらでも生み出していく。だから蓮は、放っておけなかった。
――この子も、この仕組みの被害者だ。
「なあ、君」
声をかけると、葵はびくりと肩を震わせて顔を上げた。「は、はい……?」
「灰原、だよな。君、いつも上級生にこき使われてるだろ。あれ、おかしいと思わないか」
「え、えっと……私は、大丈夫です。慣れてますし。私、力も弱いので、あれくらいしないと……」
「慣れちゃだめだ」蓮はまっすぐ言った。「そういうのに慣れると、心が死ぬ。力が弱いのは罪じゃない。君みたいな子が我慢しなきゃいけない仕組みのほうが、間違ってるんだ。……なあ、俺と一緒に変えないか。君みたいな子が、頭を下げなくていい場所に」
葵はしばらくぽかんと蓮を見ていた。その言葉があまりにまっすぐで、裏も打算もないと分かってしまうくらいに。それから困ったように眉を下げて、小さく笑う。「天音くんは……優しいんですね。でも、私なんかが、そんな大それたこと。足を引っ張るだけですから」
「そんなことない。君にもちゃんと力がある」
「……いえ。本当に、たいした力じゃないんです」
その一瞬だった。葵が「たいした力じゃない」と口にした時、蓮は彼女の目を見てしまった。伏せたまつげの奥。ぞくりとするほど静かで、底の知れない、凪いだ光。まるで、深い井戸の底を覗き込んだような。
蓮が言葉に詰まった隙に、葵はぺこりと頭を下げ、本を抱えて図書室を出ていった。逃げるように。それ以上、見られたくないとでもいうように。
「……気のせいか」蓮は頭を振った。だが、胸のざわつきは消えなかった。人混みを避け、影を選ぶように歩く、あの小さな背中。守られるべき弱者にしては、その足取りには迷いがなかった。まるで、この学園のどこに何があるか、隅々まで知り尽くしているように。蓮は、その背中が見えなくなるまで、目で追っていた。理由もなく。ただ、放っておいてはいけない気がして。守りたい、という気持ちとは少し違った。もっと切実で、もっと個人的な何か。あの井戸の底のような目を、一人にしてはいけない。理屈ではなく、そう感じた。蓮は、自分でも戸惑いながら、その感情に名前をつけられずにいた。
【葵side】
(……ああ、まただ)
廊下の角を曲がってから、私は小さく息を吐く。
あの子は私を“被害者”だと思っている。かわいそうで、無能で、守るべき誰か。昔の私も、きっとそういう目で世界を見ていた。守るべき弱者と、倒すべき悪。世界はそんなに単純に、二つへ分けられるのだと信じて疑わなかった。
一緒に変えよう、か。眩しいな。目が痛いくらいに。
でも君は、まだ知らない。この学園のいちばん底に何が沈んでいるのかを。君が「変える」と言ったその仕組みが、どれだけの血の上に建っているのかを。そして、それを誰が毎晩、黙って掃除して回っているのかを。
知らないままでいてほしい。私が日陰で泥をかぶっているのは、君みたいな子が日向をまっすぐ歩けるようにするためだ。だから君は、私の正体に気づかなくていい。私と同じ場所には、来なくていい。
私は本を胸に抱えて、足を速めた。もう振り返らない。あの子の目を、これ以上見ていたら、うっかり手を伸ばしてしまいそうだった。「一緒に変えよう」なんて眩しい言葉に、ほだされてしまいそうだった。……だめだ。私はもう、そちら側の人間じゃない。日向は、あの子のもの。私は、日陰で十分。それが、いいんだ。
――そう思っているのに。どうして君を見ていると、こんなにも胸が痛むのだろう。まるで、置いてきたはずの昔の自分に、道の向こうから手を振られているみたいで。
……もし、あの子が私と出会わなければ。もっと平和な学園で、まっすぐなまま、誰かを救う英雄になれたのかもしれない。そう思うと、胸が痛んだ。私のいるこの場所は、あの子の眩しさを、少しずつ曇らせてしまう気がして。だから、近づいてはいけない。分かっているのに。
【蓮side】
その翌日、また葵に声をかけようとした蓮の前に、すっと一人の少女が割って入った。神楽詩織。学年トップの特待生だ。
「天音、蓮さん。灰原さんに、あまり近づかないでくださいます? あなたのような目立つ方のそばにいると、あの子まで要らぬ火の粉を浴びますの」
氷のように冷たい声だった。微笑んでいるのに、目は笑っていない。
「君は灰原の友達か。だったら君も一緒に――」
「けっこうですわ」詩織は遮った。「あなたのような方は、いちばん危うい。正しさを疑わないから、迷わず突き進む。そして突き進んだ先で、大切なものを踏み潰していることに、最後まで気づかない。あなたのその眩しさは、誰かの影の上に成り立っているのだと……いずれ嫌でも知ることになりますわ」
それだけ言うと、詩織は優雅に一礼して去っていった。蓮はしばらく動けなかった。
(誰かの影の上に、成り立っている……?)蓮はその言葉を胸のなかで繰り返した。意味は分からない。だが、なぜか聞き流せなかった。灰原葵と、神楽詩織。あの気弱なブースターと、氷のような特待生。不釣り合いな二人が、なぜ、いつも一緒にいるのか。その違和感が、蓮の胸に、また一つ小さな棘を増やした。
【双葉side】
その一部始終を、双葉と颯太は少し離れた書架から見ていた。
(……ねえ颯太。あれ、見てて、なんか切ないね)
(うん。蓮は葵ちゃんを助けようとしてる。助けられる側が、本当はいちばん強いなんて、知らないで)
(葵ちゃんと蓮くん、なんだか鏡みたいだね)双葉がぽつりと言うと、颯太が(うん)と静かに頷いた。(片方は影で、片方は光で。真逆なのに、根っこは同じ気がする)。
どっちも大事な、班の仲間だ。ぶつかってほしくない。でも、もしその日が来てしまったら、せめて二人の間で、誰かがちゃんと覚えていよう。何が正しくて、何が哀しかったのかを。それが、力のない自分たちにできる、たった一つの誠実さだと、双葉は思った。感覚共有の糸の上を、その静かな決意が、颯太のもとへも伝わっていった。
二人にはその理由まで分からない。ただ、葵が蓮を見るあの目の奥の痛みだけが、感覚共有の糸の上を、静かに行き来していた。差し出される救いの手を、救われる必要のない者がそっと押し返す。その光景は、班の隅から見守る双子の目に、どこまでも哀しく映った。
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次話は明日21時ごろ更新予定です。




