第18話 勇者の理屈
【蓮side】
放課後の屋上で、蓮はフェンスにもたれて、眼下の学園を眺めていた。高い塀。整然と区切られた棟。そのどこかに、大人たちがずっと目を逸らしてきた“何か”がある。蓮には、その確信があった。
「――また無茶をしたそうだな。天音」
声に振り向くと、担任の教師が気だるげに立っていた。腫れた腕をちらりと見て、ため息をつく。
「先生。なんでこの学園は、Dクラスの子があんなふうに扱われるのを放っておくんですか。見えてないわけじゃ、ないでしょう」
教師はしばらく黙り、それから目を逸らして言った。「世の中には、変えられないものがある。おまえもじきに分かる」
「分かりたくないです」蓮は即答した。「変えられないって諦めた人が、多いだけでしょう。誰かが最初に声を上げなきゃ、何も始まらない。先生だって本当は、おかしいと思ってるんじゃないですか」
教師の肩がぴくりと動いた。だが彼は何も答えず、背を向けて去っていく。その背中が、ひどく疲れて見えた。この学園の大人はみんな同じ顔をしている。生徒が理不尽な目に遭っても、見て見ぬふり。まるで、何かに怯えているように。蓮はその“何か”の輪郭を、まだ掴めずにいた。だが確信していた。この諦めきった空気の底に、この学園の本当の顔が沈んでいる、と。――だったら、俺がその蓋を、こじ開けてやる。たとえこの学園中を敵に回しても。まっすぐ進めば、いつか必ずたどり着ける。そう信じて疑わなかった。その無邪気なまでの確信こそが、蓮の最大の武器であり、同時に、最大の隙でもあった。
その“何か”を、必ず突き止めてやる。蓮はそう決めていた。放課後、一人で旧校舎の周りを歩き回る。色褪せた立ち入り禁止の札。錆びた鎖で封じられた地下への入り口。不自然に新しく塗り替えられた中央管理棟の壁。
一度だけ、地下へ続く鉄扉の隙間から、饐えた冷たい空気が漏れているのに気づいた。奥から、かすかに機械の駆動音のようなものが聞こえた気がして、蓮は耳を澄ませた。だが、確かめる術はない。鉄扉はびくともせず、蓮の力ではどうにもならなかった。この下に、何かがある。確信だけが、じりじりと胸を焦がした。
誰かに相談する、という選択肢は、蓮の頭になかった。この学園に、信じられる大人はいない。生徒を巻き込めば、あの子たちが危険になる。だから、一人でやるしかない。その思い込みが、蓮をますます孤立させていることに、本人は気づいていなかった。まっすぐさは、時に、視野を狭くする。
(……手がかりもなし、か)
その無力感は、蓮の知らないところで、彼を少しずつ危うい方向へ押しやっていた。焦る者ほど、罠にかかりやすい。それは、この学園の闇がいちばんよく知っていることだった。
その帰り道、蓮はあのDクラスの下級生に呼び止められた。中庭で助けた、小柄な子だ。「天音さん」と、はにかみながら駆け寄ってくる。「この前は、ありがとうございました。俺、ずっと、誰かにかばってもらえるなんて思ってなくて」。蓮は笑って、その頭を軽く叩いた。「気にすんな。困ったことがあったら、いつでも言えよ」。下級生の顔が、ぱっと明るくなる。その無邪気な笑顔を見て、蓮は改めて思った。こういう子が安心して笑える場所を作りたい。ただ、それだけなんだ。だがその願いが、この子を巻き込む火種になることを、蓮はまだ知らない。
◇
教室に戻ると、クラスメイトの女子が心配そうに声をかけてきた。編入したての蓮に、最初に話しかけてくれた子だ。
「天音くん、ほんと、やめといたほうがいいって。上級生に目をつけられたら、この学園、生きづらいよ。……あたしも、あなたの言ってること、正しいと思う。思うけど、正しいことがこの学園じゃ通らないの。みんな分かってて、黙ってる」
彼女は声を落とした。「ひとつだけ忠告。この学園ではね、目立ちすぎた子が、時々いなくなるの。『転校した』ことになってるけど、誰もその後を知らない。だから、無茶しないで。あなたに、いなくなってほしくないから」
その言葉に、蓮は少しだけ胸を突かれた。心配してくれる人がいる。それは、この学園に来て初めて感じるあたたかさだった。だが同時に思う。だったらなおさら、俺が声を上げなきゃいけない。友達がいなくなる心配なんて、誰もしなくていい学園に。
「忠告、ありがとな。でも、だからこそ、放っておけないんだ」
蓮が笑うと、彼女は困ったように眉を下げた。「あなた、その自信、どこから来るの。怖くないの、この学園全部を敵に回すみたいなこと」
蓮はすぐには答えられなかった。ただ、体の奥に燃えるような熱がある。俺ならできる、という根拠のない確信。それはたぶん、あの曖昧な“前の記憶”と繋がっている。俺はかつて、何かを成し遂げた。誰かをたくさん救った――いや、と蓮は思い直す。記憶の底には、もっとざらついた後味もある。守れなかった顔。届かなかった手。名前も思い出せない、誰かの泣き顔。それも蓮の確信の一部だった。だからこそ思う。今度こそ間違えたくない。今度こそ、誰もこぼさずに、全部救いたい。
その願いは、時々、蓮自身を怖くさせた。全部救いたい。誰も見捨てたくない。その気持ちが強すぎて、ブレーキの壊れた車みたいに、自分がどこまでも突っ走ってしまいそうになる。でも、止まり方なんて、蓮は知らなかった。守りたいものが目の前にあるなら、飛び込む。それ以外の生き方を、蓮は知らない。
その日の夕方、蓮は誰もいない訓練場で拳を握ってみた。中庭で一撃を受け止めた時、確かに体の奥から爆発するような熱が噴き出した。あれをもう一度、と念じる。だが、何も起きなかった。必要な時に出ない。制御できない。それが今の蓮の、いちばんの弱さだった。ただ、その熱が目を覚ますのは決まって、誰かを守ろうとした瞬間だった。それだけは、蓮もうすうす感じ始めている。だからこそ、焦っていた。守りたい時に守れない、この頼りない力。それが誰かの命に関わる前に、なんとかしなければ。だが焦りは、いつだって人の足元を掬う。蓮は、その落とし穴に自分から近づいていることに、まだ気づいていなかった。
それでも、蓮は諦めなかった。拳を握り、開き、また握る。出てこい、と念じる。応えのない沈黙に、何度も、何度も。傍から見れば滑稽だったかもしれない。だが蓮は本気だった。いつか必ず、この力を、守りたい時に振るえるものにしてみせる。その一心で。その執念だけは、誰にも負けない自信があった。才能でも格付けでも敵わなくても、諦めの悪さだけは、蓮のゆずれない誇りだった。いつか、この頑固さが何かを動かす日が来る。蓮は、そう信じていた。根拠のない自信だ。だが、その自信こそが、前世できっと、いくつもの奇跡を起こしてきたのかもしれない。
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次話は明日21時ごろ更新予定です。




