第15話 日常へ、しかし
一週間が過ぎた。
学園は何事もなかったように、回り続けていた。中央管理棟は、いつのまにか真新しい壁と、磨かれた窓ガラスに張り替えられている。あの地下への入り口があった旧校舎の資料室も、今はただの埃っぽい物置に戻っていた。誰もあの日の惨劇を口にしない。「設備点検の誤作動」それが公式のそして唯一の、記録だった。
双葉は登校の道すがら、そのあまりにも滑らかな日常を以前とは違う目で眺めていた。
同じ朝。同じ風景。けれど、もう双葉にはその「普通」がただの普通には、見えなかった。この平らな水面の下で、誰が何を消してきたのか。それを知ってしまったから。
(……颯太。私変わったのかな)
(うん。……僕も変わったと思う。前はこの日常が退屈だと思ってた。……今は怖いくらい大事に思えるんだ)
この何気ない朝が。誰かが泥をかぶって、守った結果なのだと、知ってしまえば。もう当たり前には、戻れなかった。
その日双葉はずっと気にかけていた、あの委員会の男子を久しぶりに廊下で見かけた。『解放の輪』に「やっと居場所が、見つかった」と澄んだ目で笑っていたあの子だ。彼は地下での一件のあと、しばらく寮に引きこもっていたらしい。すれ違いざま、双葉は勇気を出して、「おはよう」と声をかけた。彼は少し驚いた顔をして。それから、ぎこちなく「……おはよう」と返した。もうあの澄みすぎた目は、していなかった。憑き物が落ちたような。少し疲れたけれど、地に足のついた、普通の生徒の顔だった。
救われたのかもしれない。誰にも気づかれない、あの子の働きで。双葉はそっと胸のなかで葵に礼を言った。
◇
教室に陸が戻ってきた。
医務室を出て、初めての登校だった。以前より痩せて顔色もよくない。薬の後遺症で、あの自慢の速さは、まだ戻らないという。教室に入ってきた陸に、クラスメイトたちは、どう接していいか分からず、遠巻きに様子を窺っていた。かつてあれほど威張り散らしていた男だ。無理もなかった。
陸はまっすぐ自分の席へ向かった。その途中。
彼は颯太の席の前で、足を止めた。
「……小鳥遊」
教室がしんと静まる。颯太は身を硬くした。何を言われるのか。かつての陸なら、この状況で八つ当たりの一つも、してきそうなものだった。
だが、陸が口にしたのは。
「……この前はノートありがとな。それと」
陸は言葉を探すように一度口ごもった。それから、絞り出すように。
「……今まで悪かった。お前らのこと、散々こき使って。……感覚共有しか能がないとか。言ってたけど。あれ全部俺が自分に余裕がなかっただけだ。……ごめん」
颯太は目を丸くした。あの迅雷陸が。人に頭を下げている。誰よりもプライドの高かった男が。
「いいや……。もういいよそんなの」
颯太がしどろもどろに、言うと陸はふと口の端を上げた。少しだけ照れくさそうに。それから、自分の席へ腰を下ろした。もう周りを睨みつけることも、大声で武勇伝を語ることも、なかった。ただ、静かに窓の外を眺めている。
(……颯太。陸くん、変わったね)
(うん。……なんか憑き物が落ちたみたいだ。速さを失って。でも、代わりに別の何かを拾ったのかも、しれない)
速さがなくても。陸は陸だ。あの日颯太が言った言葉を。陸はたぶん少しずつ自分のものに、し始めていた。
放課後の訓練場。陸はもう狂ったように、走ることはなくなった。かわりにじっと下級生たちの、能力訓練を眺めていることが、増えた。ある時颯太は見た。陸がフォームの崩れた下級生に、そっと歩み寄って何か助言をしているのを。「そこ力み過ぎだ。……肩の力抜けよ。俺もそれでずっと失敗してた」と。下級生はきょとんとしていたが、やがて、嬉しそうに頷いた。
速さを失った男が。その無数の失敗の経験だけは。今誰かの役に立ち始めていた。かつてあれほど蔑んでいた「弱さ」を通り抜けて初めて手にした優しさだった。
◇
その日の昼休み。
いつもの食堂のいつものテーブル。そこには奇妙な四人が揃っていた。
隅で静かにポタージュを冷ます、葵。その隣で優雅に紅茶を淹れる、詩織。そして、少し離れて双子。──そこへトレーを持った、陸がやってきた。
一瞬テーブルに緊張が走った。詩織の視線が、すと鋭くなる。かつて葵を「おいブースター」と呼び使い走りにしようとした男。詩織にとって、陸はいつ消してもおかしくない「不純物」だったはずだ。
だが、葵がふわりと笑った。
「陸くん。……よかったら座って?」
陸はばつが悪そうに、頭を掻いてから、空いた席に腰を下ろした。詩織は露骨に眉を寄せたが、葵が小さく首を振ると、しぶしぶ矛を収めた。
「……なあ、灰原」陸がぽつりと言った。「お前本当はすごいやつなんだよな。……いや、いい。何も言わなくて。詮索もしねえよ。ただ……ありがとな。あの時俺を消さないでいてくれて」
葵は少し驚いたように、目を瞬かせた。それから、いつもの気弱な笑みで、答えた。
「私なんのことだか……」
「はは。……そういうことに、しとくよ」
陸は笑ってカレーを口に運んだ。双葉はその光景を不思議な気持ちで、見ていた。かつてバラバラだった、外れくじの班。イキる陸崇拝する詩織、地味な葵おまけの双子。それが今はぎこちないながらも、一つのテーブルを囲んでいる。
もちろん何もかもが解決したわけじゃ、ない。葵の正体も詩織の忠誠の理由も、学園の闇も何ひとつ分かっていない。それでも──
(……颯太。私たち決めたよね。あの子の味方になるって)
(うん。……何もできないかもしれない。でも、せめてあの子が一人ぼっちだって、思わなくて済むように。……この班でそれをやっていこう)
窓の外では穏やかな秋の陽が差していた。その光のなかで、四人と双子のささやかな昼食は、続いていく。嵐のあとの束の間の凪のなかで。
◇
その夜。双葉はまた屋上の気配に、気づいた。葵と詩織。今夜は風が凪いでいて。声が途切れ途切れに、届いた。
「……詩織。近いうちにまた大きなものが、動く気がする」葵の静かな声だった。「私の勘だけど。……この凪はたぶん次の嵐の前触れだ」
「では、いつもどおり。わたくしが露払いをいたします」
「ううん。……今度のはたぶん力でどうにかなるものじゃ、ない。もっと厄介な。……“正しさ”が、来る」
詩織はその言葉の意味を測りかねたように、しばらく沈黙した。双葉にも分からなかった。ただ、いつもはどこまでも凪いでいる葵の声に、かすかに滲んだ、その緊張だけが。妙に耳に残った。
だが──その凪は長くは続かなかった。
お読みいただきありがとうございました。
次回、いよいよ第1部完結です。
次話は明日21時ごろ更新予定です。




