第14話 泥をかぶる者
事件はその日のうちに、収束した。
中央管理棟を占拠していた『解放の輪』はいつのまにか、姿を消していた。拘束されていた生徒や教師は、誰一人命を落とさなかった。地下の巣もそこで作られていた「薬」も跡形もなく消え去った。
翌朝学園が全生徒に出した通知は、たった二行だった。
『昨日の騒動は、設備点検に伴う、一部システムの誤作動によるものです。ご不便をおかけしました』
誤作動。またその言葉だった。
双葉は配られた端末を見つめて、ため息をついた。あれほどの惨劇が。あれほどの理不尽が。またなかったことに、されていく。誰も傷つかなかったことにされ、誰も戦わなかったことにされて。
(……颯太。私たちまた嘘の朝に戻ってきちゃったね)
(うん。……でも、今度は前とは違うよ。僕たちは知ってるから。あの地下で何があったか。誰があれを終わらせたのか)
◇
地下の一件から、三日が過ぎた。
陸は医務室で目を覚ました。薬の後遺症で、しばらくは能力がまともに使えないという。速さを失ったのだ。あれほど縋っていたたった一つの、誇りを。
颯太は見舞いに行った。何を話せばいいのか、分からないまま。ベッドの上の陸は、痩せてずいぶん小さく見えた。
「……よう」陸が先に口を開いた。「わざわざ来たのかよ。俺なんかのところに」
「……うん。同室だから」
颯太がぽつりと言うと、陸はふっと笑った。かつての人を見下す笑いとは、まるで違う力の抜けた素直な笑みだった。
「なあ、小鳥遊。……俺さずっと間違えてたよ」
陸は天井を見上げた。
「速けりゃ偉いと思ってた。強けりゃ認められると、思ってた。だから、必死で走った。努力してない奴らや周りを見下して。……でも、違ったんだ。あいつを見て、分かった。本当に強いやつは──強さなんか誇らないんだ。誰にも気づかれない、ところで。一人で泥をかぶってる」
「……陸」
「俺は何を自慢気にしてたんだろうな」
陸の声が少し湿った。
「なあ、小鳥遊。俺能力しばらく使えないんだって。……速さなくなった。俺から、速さを取ったら。何が残るんだろうな」
颯太は少し考えて答えた。
「……分かんない。でも、速さがなくても。陸は陸、だろ。……たぶんそういうのは、これから、探せばいいんじゃないかな。ゆっくり」
陸は目を丸くした。それから、ふと笑って「……お前意外といいこと言うんだな」と呟いた。少しだけ昔の憎まれ口の名残を乗せて。
帰り際颯太は鞄から、一冊のノートを取り出した。ぼろぼろの陸上競技の記録ノート。捨てられたはずの、あれを。一冊だけ颯太がこっそり拾って取っておいた、ものだった。
「これ……ゴミ捨て場で、見つけて。……なんか捨てちゃ駄目な気がして」
陸はそれを受け取ってしばらく表紙を撫でていた。何度も何度も。それから、小さく「……ありがとな」と呟いた。今まで颯太が一度も聞いたことのない、言葉だった。
◇
その日の放課後。
双葉はいつもの教室で、いつものように、隅の席で本を読んでいる葵を見ていた。
サイズの合わない制服。後ろで束ねた黒髪。前の席の子が、プリントを配れば、「あ、はい、すみません」と慌てて受け取り、なぜか自分のほうが、頭を下げる。
どこにでもいる、気弱なCクラスの少女。
三日前この子が世界を書き換えたなんて。この細い指が地下空間をまるごと消し去ったなんて。誰も知らない。誰も感謝しない。この子はまた何食わぬ顔で、この平穏な「嘘」の片隅に戻ってきた。泥を一人でかぶったまま。
双葉は意を決してその席に近づいた。
「葵ちゃん」
葵が顔を上げる。おどおどとした、いつもの表情で。
「双葉、さん……? どうかしました?」
双葉は何を言うか決めていなかった。ただ、言いたかった。あの地下で見たことを。感じたことを。全部は言えなくても。せめてひとことだけ。
「……えっとね」双葉の声が少し震えた。「大変な時いつもありがとう。……なんかうまく言えないんだけど。あなたがいてくれてよかったって。私思ってるから」
葵の瞳が揺れた。
ほんの一瞬。おどおどとした仮面の、その下で。何か驚いたような、戸惑ったような、そして──泣きそうな色がよぎった気がした。
誰かにまっすぐ礼を言われることなど。きっとこの子には長いあいだなかったのだ。いつも消す側で。いつも泥をかぶる側で。感謝されるどころか、その存在すら、なかったことに、され続けて。
「……ありがとう双葉さん」
葵はそう言ってふっと笑った。
いつもの頼りない笑みでも、冷たく凪いだ、あの静けさでも、なかった。もっとあたたかくて、もっと脆い。素の笑顔だった。
「その言葉……ちょっとだけ、大事にするね」
双葉はそれ以上何も言えなかった。ただ、こくりと頷いて自分の席へ戻った。
(颯太……見てた?)
(うん。……見てたよ)
(私たちたぶんあの子の味方になりたいんだね)
(……うん。何もできないかもしれないけど。せめてあの子が一人ぼっちだって、思わなくて済むように)
その時双葉はふと廊下の窓の外に、詩織の姿を見た。彼女はこちらを見ていた。いつもの刃のような冷たい眼差しで。だが、双葉と目が合うと──ほんのわずかに頷いた。認めるとでも、いうように。あるいは託すとでも。葵の知らないところで。同じものを見守る者として。双葉はどきりとして、慌てて目を逸らした。でも、悪い気はしなかった。
窓の外では傾いた西日が、教室をあかね色に染めていた。その光のなかで、葵はまた静かに文庫本のページをめくっている。
誰にも讃えられない、掃除屋と呼ばれた彼女。その細い背中を。今は二人だけがそっと見守っていた。
嵐は去った。だが、双子はまだ知らない。
地下の巣が消えたそのがらんとした空洞の、隅に。焼け残った一枚の紙があったことを。誰かがあえて残していったように。そこにはこの学園の名と、見覚えのない、大人たちの署名。そして──「暗部育成計画」という冷たい文字が刻まれていた。
その一枚が次の嵐を呼ぶことに、双子が気づくのは。そして、この「嵐」が本当はもっと大きな、次の嵐の──ほんの序章に過ぎなかったと知るのは。もう少しだけ先の話だ。
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次話は明日21時ごろ更新予定です。




