第13話 全能解放
その光景を双子は生涯忘れなかった。
いや──「光景」と呼んでいいのかも、分からない。目が見たものと、頭が理解したことが、まるで噛み合わなかった。感覚共有で繋がった二つの脳が、同時に理解を拒んだ。
葵が右手を持ち上げた。ただ、それだけだった。
次の瞬間。
沸き立っていた、壁一面のガラス筒が──「なかった」。
割れたのでは、ない。砕けたのでも、ない。爆発したのでも、溶けたのでも、ない。ただ、そこに「あった」はずのものが、次の瞬きには、「はじめから無かった」ことになっていた。紫色の液体も、ガラスもそれを満たしていた無数の装置も。過去に遡ってその存在ごと、そっと消しゴムでこすり消されたように。
(……え)
双葉の思考が、途切れた。
地鳴りが止んでいた。
双葉は自分がまだ生きていることに、気づいた。消し飛ぶはずだった。この身も颯太もまとめて。なのに、葵は装置だけを正確に消した。まるで隅に隠れた双子の存在を初めから、勘定に入れていたかのように。守られたのだ。名前も呼ばれず、目も合わせないまま。ただ、確かに。
赤いレバーに手をかけていた幹部の男の、そのレバーが、無い。装置が無い。男は何もない空を掴んでいた。
「な……なんだこれは……っ! 私の計画が……!」
男が後ずさる。そして、初めてその顔に本物の恐怖が、走った。
◆
葵side
(──さようなら)
私は心のなかでそう、呟く。誰にも聞こえない、いつもの独り言。
この男は末端じゃない。頭だ。だから、消す。この地下ごと。ここで作られたものが、外へ出ればもっと多くの子が、陸くんのように、なる。それは駄目だ。それだけはさせない。
力を使うのは、いつも怖い。……こんなにも簡単だから。指一本で世界の一部を書き換えられる。「あった」を「なかった」に変えられる。人も物も事件も。あの日から、ずっと。この力にこの簡単さに、呑まれないように、私はいつも両手で必死に手綱を握っている。
だって、知っているから。この力で私が昔何を消してしまったのかを。
だから、私は演じる。無能を。10%のただのブースターを。この力を誰にも悟らせないように。畏れられれば、人は離れていく。頼られれば際限がなくなる。……どちらももう知っている。だから、私は日陰にいる。日向はいつか来る誰か──もっとまっすぐで青くて眩しい誰かに譲るために。
◆
葵の右手がゆっくりと宙を撫でた。
双子の視界が、ぐにゃりと歪んだ。
地下空間そのものが、端から、消えていく。剥き出しのコンクリートの壁が。無数の医療機器が。倒れていた黒装束の男たちが。天井を這っていた配線が。まるで描きかけの絵が、水に浸されて、輪郭から、溶けていくように。
消えていくものたちは、悲鳴すら上げなかった。悲鳴を上げる「時間」ごと消えていたからだ。恐怖も痛みも抵抗も何もかもはじめから「無かった」ことにされて。ただ、静かに。あまりにも静かに世界から、間引かれていく。
音がなかった。破壊には音があるはずだった。崩れる轟音。爆ぜる衝撃。断末魔。なのに、ここにはそれが一切なかった。ただ、世界が少しずつ静かになっていく。存在が一つ消えるたびに、その分の音と熱と気配がそっと引き算されていく。双葉はその静けさが、どんな爆発よりも、恐ろしかった。破壊ですらないのだ。これは。ただの削除だった。
双葉は理解を諦めた。これは人間の業ではない。時間が巻き戻ったのか。空間が削られたのか。それともこの世界の書き手が都合の悪い一段落をまるごと消したのか。どの言葉も目の前の出来事に、届かなかった。ただ、心臓だけが痛いほど鳴っていた。
「ややめ……やめてくれ……!」
幹部の男が崩れ落ちながら、叫んだ。だが、その声も途中で途切れた。
消えたのでは、ない。──消される寸前で止められたのだ。
男の体は腰から下がすでに「無い」。だが、上半身はまだそこにあった。葵があえて残したのだ。とどめのその一歩手前で。
「……最後に教えて」
狐面の下から、静かな声が落ちた。
「あなたたちの、上。この学園にこの“薬”を卸していた大人は、誰? ……それを言えば、痛くないように、してあげる」
男は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。そして、掠れた声で何かを口にしようとして──
その言葉が音になる前に、男の姿は静かに空気へと溶けた。
誰かに消されたのだ。葵ではない。もっと上の誰かに。口を封じられたように。あまりにも鮮やかに。
(……颯太。今の見た? 葵ちゃんじゃ、ないよね。あの男勝手に消えた)
(うん。……もっと怖いものが。この学園には、まだいる。あの葵ちゃんですら、油断できない何かが)
双葉はぞっとした。あれほどの力を持つ葵が、警戒するような「誰か」。それがこの学園のどこかに平然と紛れている。そう思うと足元のがらんとした空洞よりも、もっと深い暗がりを覗き込んだ気が、した。
葵の狐面がその消えた空間をしばらく見つめていた。
◆
葵side
(……やっぱりいたか)
私じゃない。詩織でも、ない。この学園のどこかに。私と同じかそれ以上のことが、できる誰かが、いる。ずっと気配だけは感じていた。私に汚れ仕事をさせて。都合が悪くなればこうして口を塞ぐ。
……もしかしたら。先代を消したのも。あの日を仕組んだのも。あの誰かなのかも、しれない。
まだだ。まだ動くには早い。今は泳がされてやろう。何も知らない無能なブースターの、ふりをして。この狐面の下で静かに牙を研ぎながら。
◆
地下空間のほとんどが消え去っていた。傷ひとつない、がらんとした、空洞だけが残っている。ついさっきまで、そこにあった、悪意も狂気も紫色の泡も何ひとつ残さずに。
その空洞の中心。
崩れ落ちた陸だけが、ぽつんと取り残されて、いた。あの底の見えない力の、ただ中にいながら。指一本触れられることなく。葵が彼だけは消さなかったからだ。
陸は腰を抜かしたまま、目の前の光景をただ、見ていた。理解を拒みながら。かつて自分が「落ちこぼれ」と嘲笑った少女が、いま世界そのものを書き換えていた。彼が命を懸けて薬にまで手を出して、追いつこうとした「強さ」が──最初から、次元の違うところに、あったのだと、否応なく思い知らされて。
「……はは」
陸の口から、乾いた笑いが、漏れた。
「なんだよそれ……。俺はいったい……何をもって強さだと思ってたんだ……」
その声にはもう憎しみも悔しさもなかった。ただ、空っぽの放心だけがあった。長いあいだ彼を突き動かしてきた、あの灼けるような渇きが。あまりにも圧倒的な力の前に晒されて。あっけなく燃え尽きて灰になっていた。
狐面の少女は、ゆっくりと陸のほうへ歩み寄った。
そして、その場にしゃがみ込む。倒れた陸と目線を合わせるように。
「陸くん。……もういいんだよ」
面越しの声は、あの平坦な声では、なかった。屋上で双葉が盗み聞いた、あのひどく疲れた、けれど、優しい素の声だった。
「証明なんてしなくていい。誰かに勝たなくても、いい。……君はじゅうぶん走ったよ。もう休んでいい」
陸の目から、ぼろぼろと涙がこぼれた。
薬に蝕まれた体を痙攣させながら。子どものように、声を上げて泣いた。誰かに認められたくて。誰かと繋がりたくて。その願いの伝え方だけを間違え続けた男が。人生で初めて。自分を打ち負かしたはずの相手の、そのたった一言に、救われて。
詩織が音もなく陸の傍らに膝をついた。あれほど不純物と切り捨てていた相手の、その震える背中に。彼女はそっと自分の上着をかけた。何も言わずに。ただ、主が生かすと決めた者を粗末にはしないというように。
双子は遠い物陰から、それを見ていた。
(……葵ちゃん)双葉の頬にも、いつのまにか、涙が伝っていた。(あの子あんな化け物みたいな力を持ってるのに。……こんな時にするのが敵を消すことじゃ、なくて。陸くんを慰めることなんだ)
(……うん)颯太の思考も、濡れていた。(強いってこういうことなのかな。……力の大きさじゃなくて)
地の底のがらんとした空洞に。少女の優しい声だけが、ひそやかに響いていた。
あの日震えながら見上げた、理解不能な「現象」。その本当の姿は──こんなにも静かでこんなにも孤独でそして、こんなにも優しいものだったのだと。双子は生まれて初めて、知った。
お読みいただきありがとうございました。第1部の山場をお届けしました。
物語は残り3話、第1部完結へ向かいます。
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次話は明日21時ごろ更新予定です。




