第12話 迅雷、砕ける
陸の姿は変わり果てていた。
黒い装束の袖から覗く腕には、紫色の血管が、蛇のように浮き上がっている。目の下には濃い隈。瞳は薬のせいかぎらぎらと不自然な光を帯びていた。それでも、双子にはそれがあの陸だとすぐに分かった。
(……颯太。あれ本当に陸くんなの)
(うん。……でも、双葉。あいつ笑ってる。あんなにぼろぼろなのに。……たぶんもう痛みも感じてないんだ。薬で全部麻痺してる)
颯太の声には、同室で一年隣の呼吸を聞いてきた者だけの、痛みが滲んでいた。速さに縋り記録ノートを後生大事に隠していたあの男。そのなれの果てが、これだった。
「陸くん……!」
双葉が思わず身を乗り出しかけた。颯太が慌ててその腕を掴んで、引き戻す。
「双葉、駄目だ。……今は」
陸は双子には気づいていなかった。ただ、まっすぐに狐面の少女だけを睨みつけていた。
「……やっとだ」
陸の声は掠れていた。
「やっと追いついた。この力があれば……もうあの夜みたいに、無様に転がされることは、ない。今日こそ証明してやる。俺がお前より上だってことを」
「陸くん」
狐面の下から、平坦な声がした。
「その体もう限界を超えてる。……それ以上力を使えば二度と元には戻れないよ」
「……黙れよ」陸の声が震えた。「なんでお前がそれを心配するんだよ。俺を見下してたくせに。落ちこぼれだって、笑ってたくせに……!」
「私は君を笑ったことは、ないよ」
「うるさいっ!」
陸が地を蹴った。
速い。あの夜よりはるかに速い。双子の目には、もう白い残像しか、追えなかった。薬で底上げされた速度は、地下空間を稲妻のように、駆け抜ける。詩織が反応しかけた、その前に──陸はまっすぐ葵の懐へ飛び込んでいた。
拳がうなる。
だが。
その拳は狐面のすぐ手前で──止まっていた。
誰が止めたのでも、ない。詩織ですらない。陸の拳が見えない壁に触れたように、ぴたりと宙で静止していた。振り抜こうとしても、びくともしない。まるで時間だけがその一点で凍りついたかのように。
「……なっ」
「速いね。……前よりずっと」
葵の声には皮肉も嘲りもなかった。ただ、事実を確かめるような、響き。
「陸くん。君は本当に努力してきたんだね。……その速さは薬なんかじゃ、ない。ちゃんと君が積み上げたものだ。それだけは私にも分かるよ」
陸の動きが止まった。
「なにを……」
「机の引き出しの、記録ノート。何冊もあったでしょう。……あれを捨てちゃったんだね。もったいないな。あれは君が一番誇っていいものだったのに」
陸の顔がぐしゃりと歪んだ。なぜそれを。知っているのか。捨てたはずの、あのぼろぼろのノートたちを。
(……葵ちゃん)双葉の胸が締めつけられた。(陸くんのこと、ちゃんと見てたんだ。落ちこぼれだって、馬鹿にしてた、相手のことを。ずっとずっと)
「うるさい……うるさいうるさいっ!」
陸が絶叫した。憑かれたように、力を振り絞る。紫色の血管が、いっそう膨れ上がり口の端から、血が滲む。それでも、拳は狐面に届かない。あと十センチ。その距離がどうしても越えられない。
「同情かよ……っ! そういうのが、一番惨めなんだよ……! 俺はお前に勝ちたいんだっ……!」
「……知ってる」
葵は静かに言った。
「でも、私は君と勝ち負けをするつもりは、ないんだ。……ごめんね」
その言葉が陸の何かを決定的にへし折った。
詩織がすと前へ出ようとした。膝をつきかけた陸へ、とどめを刺すために。だが、葵がそれを片手で制した。
「いいよ詩織。……陸くんは敵じゃない」
「ですが葵様。この者はあなた様の情報を売ろうと──
「うん。知ってる。……でも、それでも、この子はこの学園の生徒だから」
詩織はしばらく葵の横顔を見つめていた。それから、静かに一歩退いた。不服そうにけれど、主の言葉には、決して逆らわずに。
陸の膝が震え出す。薬で強化された肉体が、限界を訴えて、悲鳴を上げていた。紫色の血管が、腕から、首筋へと這い上がってくる。皮膚の下で何かが脈打っていた。薬が陸の体を内側から、作り変えようと、している。人を辞めさせようと、している。颯太は思わず目を逸らしたくなった。あれはもう長くない。誰の目にも明らかだった。
(双葉。……このままだと、陸、死ぬよ。薬に殺される)
(葵ちゃん、なんとかしてくれないの……!?)
(分かんない。……でも、あの子まだ陸を消してない。きっと何か考えてる)
その崩れかけた均衡へ、幹部の男が暗がりから、ゆっくりと手を打った。
「いやはや見事なものだ。……だが、掃除屋さん。君は一つ間違えている」
男の声に初めて粘つくような、本性が滲んだ。
「君は優しすぎる。その少年を殺さない。この末端どもを殺さない。……手加減をしながら悪を消せるとでも? 甘いね。だから、君はいつまでも、汚れ仕事を押しつけられるんだ」
男は一歩また一歩と壁際の装置へ、近づいていく。
「悪を消すなら徹底的に消すべきだ。半端な情けは、より多くの犠牲を生む。……その少年だって、そうだ。君があの夜消していれば。彼はこんな化け物に、ならずに済んだ。楽に死ねたはずだ。君の優しさが彼をこんなにも苦しめている。──違うかい?」
狐面の下から、返事はなかった。ただ、その沈黙がほんの一瞬揺れた気がした。図星を突かれたように。
男が壁際の装置の、赤いレバーへ、手をかけた。
「見せてあげよう。本気の『解放』を。──この学園ごと、まとめてなかったことに、する力をね」
地の底で低い地鳴りのような駆動音が、響き始めた。壁のガラス筒のなかで、紫色の液体が、いっせいに泡立つように、沸き始める。
「この装置が満ちればこの一帯は消し飛ぶ。学園も生徒も君の可愛い同室の子たちも。……ああ、そこに隠れているんだろう? 小鳥遊の双子ちゃん」
双葉の心臓が凍りついた。気づかれていた。最初から。
「安心したまえ。君たちもまとめて『解放』してあげる。この理不尽な世界からね」
双子は悟った。何か取り返しのつかないものが、始まろうとしている。
狐面の少女が、ゆっくりと右手を持ち上げた。
その仕草を見た瞬間、双葉の背筋をあの忘れもしない、悪寒が駆け抜けた。あの夜。第一訓練区で。世界がごっそりと入れ替わった、あの瞬間の──悪寒だった。
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次話は明日21時ごろ更新予定です。




