束の間の休息
商人の足取りを追って北上した先、氷海の国フロズグラードは、噂に違わず幻想的な土地だった。一年の大半を凍った海に閉ざされ、人々は氷上に築かれた街で暮らしている。何より目を引いたのは、澄み渡った氷の底、遥か下層に、朧げに沈んだ都市の輪郭が透けて見えることだった。尖塔や柱廊らしきものが、青白い光の中に静かに横たわっている。
観光客向けの東屋には、案内板が立てられていた。曰く「沈黙都市」――大昔、海面が今よりずっと低かった頃の遺跡で、誰も底まで辿り着いたことはないという。ゼロはしばらく、氷越しに揺らめくその光景から目を離せずにいた。この国では「氷の女神」を祀る信仰が篤く、凍った海そのものが神域とされていた。名物の「氷下漬け」――海に穴を開けて獲れたばかりの魚をその場で氷締めにした料理――を振る舞われ、フィアが涙目になりながらも完食していた。
ゼロが何気なく手をかざして氷細工を作って見せると、市場の老婆が目を輝かせた。
「あんた、いい氷を使うね。この国じゃ、氷魔法は祝福の証だ。歓迎するよ」
生まれて初めて、自分の魔法を「異物」ではなく「祝福」と呼ばれ、ゼロは戸惑いながらも、どこか胸が温かくなるのを感じた。
街の中心にある氷の神殿を見学した際、柱の一本に、他の意匠に紛れるようにして、蛇が尾を飲み込む紋様が刻まれているのに気づいた。案内人に尋ねても、「古い時代の意匠で、今では意味は伝わっていない」とだけ返ってきた。リゼルと目が合う。何も言わなかったが、二人とも同じことを考えていた。
その夜、街では小さな祭りが開かれていた。凍った海の上に灯りが並び、氷像がきらきらと反射する。フィアは一座仕込みの芸で観客を沸かせ、屋台でふるまわれた甘い果実酒に、頬を赤くしていた。フィアが歌を披露すると、澄んだ声に合わせて、ゼロの手のひらの氷細工がほんの僅かに淡く輝いた気がした。気のせいだろうと、その時は深く考えなかった。
賑わいから少し離れた岸壁で、ゼロはリゼルと二人になった。
「珍しいですね、リゼルがこんな場所でのんびりしてるの」
「たまにはね」
しばらくの沈黙の後、リゼルが静かに口を開いた。
「――昔、弟がいたの」
初めて聞く話だった。ゼロは何も言わず、続きを待った。
「体が弱くてね。私が守らなきゃって、ずっと思っていた。でも、毒に倒れて、家が崩れていく混乱の中で……守れなかった」
「……」
「だから、あなたが魔物の前に飛び出した時、正直、腹が立ったの。何も持たない子供が、命を懸けるものじゃないって」
リゼルはそこで、初めてまっすぐにゼロを見た。
「でも、あなたはあの時、迷わなかった。私にはもう、そんな風に迷わずにいられる強さはないと思ってた」
「俺だって、怖かった。今でも」
「それでも、動いた」
「体が勝手に動いただけだ。格好いいもんじゃない」
「――ええ、知ってる。だから、いいのよ」
言葉少なに、けれど確かな響きでそう言うと、リゼルは小さく笑った。凍った海に反射する灯りが、その横顔を淡く照らしていた。
「――ゼロ」
不意に名前だけを呼ばれ、ゼロは思わず顔を上げた。これまでずっと「あなた」としか呼ばれてこなかったことに、その時初めて気づいた。
「ん、何すか」
「ううん、何でも。……ただ、呼んでみただけ」
そう言って、リゼルはまた海の方に視線を戻した。ゼロは、自分の胸の奥で何かが静かに形を変えていくのを感じていた。




