小国の依頼
羊飼いの国に入って早々、リゼルは商人が立ち寄ったという商館を訪ねて回った。だが手応えのないまま数日が過ぎたところへ、小さな国の領主から依頼が舞い込んだ。国境沿いの村で、住民が立て続けに姿を消しているという。奇しくも、それはリゼルが最後に商人の目撃情報を得た村と同じだった。牧畜が盛んなこの国では、道中の丘という丘に羊の群れが放たれていた。名物だという羊乳のチーズを土産に持たされ、フィアは早速つまみ食いをして怒られていた。
村に着くと、空気が張り詰めているのが分かった。誰もが目を伏せ、よそ者を警戒するように扉を固く閉ざしている。放牧のはずの羊小屋も、いくつか空のまま放置されていた。
「最初は魔物の仕業だと思っていたんです。でも……」
村長が震える手で差し出したのは、羊皮紙の切れ端だった。そこに描かれていたのは、蛇が己の尾を飲み込むような、奇妙な紋様だった。
「行方不明になった家の戸口に、決まってこれが残されていて」
リゼルの表情が、わずかに強張った。
「……この紋様、見たことがあるわ。何年か前、故国でも似た噂を聞いた」
「知ってるのか?」
「詳しくは分からない。ただ、良くない噂だったことだけは覚えている」
村はずれの老婆が、震える声で付け加えた。
「隣の谷の集落は、もう誰も住んでいないよ。ある朝、家という家の戸が開けっ放しで、人っ子一人いなかった。……あれも、同じ連中の仕業だって噂だ」
「同じ連中?」
「名前も知らないよ。ただ、旅の傭兵から聞いた話じゃ、単身でその手の連中の巣を叩き潰して回ってる、恐ろしく強い剣士がいるらしい。ガレオン、とかいったか」
その名前に、なぜか胸の奥がざわついた。まだ何者かも知らないその名前が、やけに耳に残った。
村人たちの証言を辿り、一行は谷向こうの廃教会に不審な人影が出入りしているという情報を掴んだ。
夜半、忍び込んだ礼拝堂の奥で、白い法衣を纏った女が、蒼白い顔でこちらを振り返った。
「――客人は、随分と早いお越しね」
粘つくような声だった。次の瞬間、女の指先から紫がかった靄が滲み出し、瞬く間に礼拝堂を満たしていく。
「毒……!?」
「触れなければ、大事には至らないわ。今はまだ」
ゼロは咄嗟に氷の壁を展開し、靄の広がりを堰き止めた。だが、女は戦う素振りも見せず、ただ愉快そうにこちらを眺めているだけだった。
「随分と若い氷ね。……でも、まだ育ちきっていない」
「あんたが、村人たちを?」
「さあ、どうかしら」
はぐらかすように言うと、女は靄の中に溶けるように後ずさった。
「今日のところは、顔を見に来ただけよ。またいずれ、ちゃんと相手をしてあげる。……ふふ、良い顔してるじゃない」
追おうとするが、靄が晴れた頃には、女の姿はどこにもなかった。残されたのは、床に落ちた、蛇が尾を飲み込む紋様の描かれた小さな護符だけだった。
「――今のは」
「分からない。でも、ただ者じゃなかったわね」
リゼルの声は硬かった。あの余裕、あの底知れなさは、これまで相手にしてきたどんな敵とも違う気配だった。
村を数日調べたが、それ以上の手がかりは掴めなかった。行方不明者も見つからないまま、一行は村を後にすることになった。後味の悪さだけが残った。
「全部を解決できるわけじゃない、か」
馬車の荷台で、ゼロはぽつりと呟いた。フィアが横から覗き込む。
「珍しく暗い顔してるじゃん」
「……いや。何でも解決できたら、それはそれで嘘くさいなと思って。それに」
脳裏に、あの蒼白い顔の女が焼き付いていた。
「あの女、また会う気がする」
フィアは笑ったが、リゼルは何も言わず、ただ懐から取り出した羊皮紙の切れ端を、じっと見つめていた。商人が最後に立ち寄った先として記されていたのは、遥か北――氷海の国、フロズグラードの名だった。
その予感は、思っていたよりもずっと早く、そして最悪な形で的中することになる。




