覚醒
腕の中で、リゼルの体温が少しずつ下がっていくのが分かった。
(また、か)
脳裏に、レイムの燃える町並みが蘇った。助けられなかった人々の、焼け跡に横たわる影。
(また、間に合わないのか)
「弱い奴は守れない」
ガレオンの声が、耳の奥で反響した。分かっていたはずだった。分かっていたのに、また同じ場所に立っている。
――九つの年、燃え落ちる家の裏で、伸ばされた母の指先が、届かないまま力を失っていった、あの夜。
あの時は、ただ恐怖と絶望だけに呑まれて、何も考えられないまま力が溢れ出した。何を凍らせたのかも、何を壊したのかも、覚えていない。気づいた時には、全てが終わっていた。
(今度は、あの時とは違う)
――焚き火の夜、重ねられた冷たい指先の温度。
――「もう、敬語なんて似合わないもの」と笑った、リゼルの横顔。
――「今度は、ちゃんと守れた」と笑った、血の滲む唇。
守れた、はずだった。それなのに、腕の中の重みはみるみる軽くなっていくようだった。
喉の奥から、声にならない音が漏れた。怒りだった。ゾルグへの、始祖への、そして何より、また同じ過ちを繰り返しかけている自分自身への、行き場のない怒り。それが一瞬で、耐えがたいほどの悲しみに変わった。
視界が滲む。歯を食いしばっても、嗚咽が漏れた。
その瞬間、世界から音が消えた。
胸の奥で、何かの箍が外れる感覚があった。指先から溢れた冷気は、これまでとは比べ物にならない密度で、辺り一帯を白く染め上げていく。地面が軋み、空気そのものが凍りつく。広間の柱や燭台が、悲鳴のような音を立てて凍結し、砕け散った。
「――なっ……!」
カイムの幻術が、押し寄せる冷気に呑まれるように崩れ去った。その拍子に、フィアを捕らえていた幻影も同時に霧散し、彼女はハッと我に返った。イグナートの炎は瞬く間に凍りつき、蒸気すら上げられずに消える。ヴェイルでさえ、この規模の力の奔流の前では、空間を歪める余裕もなく、幹部の三人はほとんど同時に後方へ飛び退いた。
「――退くぞ! この化け物じみた力に、深追いする理由はない」
イグナートの声を最後に、三人の幹部は神殿の暗がりへと姿を消していった。残されたのは、ゾルグと、なおも猛る始祖の残滓だけだった。
制御しきれていない。分かっていた。溢れ出る力は、まるで堤防を破った奔流のように、行き先を持たないまま辺りに荒れ狂っていた。フィアが思わず後ずさるほどの冷気だった。
「ゼロ……!?」
呼びかける声すら、白い霧に呑まれて届かない。
それでも、暴走しかけたその力の中心で、ゼロはリゼルの体をそっと地面に横たえた。ただ、それだけの動作に、途方もない集中が注がれていた。何もかもを凍てつかせそうな力の奔流の中で、たった一つ――彼女を傷つけないことだけを、体の芯で強く握りしめていた。
(あの時は、何も選べなかった。今度は――俺が、選ぶ)
九つの年、ただ恐怖に突き動かされるだけだった力に、今、初めて意志が通った。
背中から、氷の翼が生まれた。
【スキル『氷結魔法』が『氷翼』へと進化しました(Lv.1 → Lv.9)】
【新スキル『ABSOLUTE ZERO』が解放されました(未習熟)】
視界の端に浮かんだその文字列を、ゼロは気にも留めなかった。今は、そんなものに構っている余裕はなかった。
暴れる冷気が、その二枚の翼に吸い込まれるように収束していく。だが、完全に治まったわけではなかった。翼の輪郭は絶えず揺らぎ、時折ぱきりと音を立てて表面に罅が入っては、すぐに新たな氷で覆い直される。危ういほど不安定な均衡の上に、かろうじて成り立っている力だった。
ゼロはゆっくりと立ち上がった。表情はない。ただ、涙の跡だけが、頬に静かに残っていた。
(保って、数分――それだけだ)
自分でも分かっていた。この均衡は長くは続かない。今のうちに、決着をつけるしかない。
始祖の残滓が、咆哮にも似た力の奔流を放つ。ゼロは無言のまま右手を掲げた。周囲に漂う冷気が、意志を持ったように収束し、氷の刃となって形を成す。
剣。
一撃を薙ぎ払うと同時に、その刃は形を変え、槍となって残滓の中心を貫いた。だが槍を生み出した瞬間、翼の片方が大きく罅割れ、体勢が僅かに崩れる。
(――くそ、まだ、足りない)
それでも止まらず、次には弓が現れ、無数の氷の矢が閃光のように降り注いだ。狙いは半分ほどしか定まらなかったが、それでも十分な牽制になった。
鎖が始祖の残滓に絡みつき、その動きを縛り上げる。最後に、ゼロは自らの前に大きな盾を展開し、放たれた一撃を、両膝を突きながらも辛うじて受け止めた。
危なげのない完成された力、では決してなかった。何度も崩れかけ、何度も繋ぎ直しながら、綱渡りのように武器を切り替えていくその姿は、それでも、もはや人の域を超えた何かのように映った。
最後に、ゼロは震える腕で氷の剣を一振り、ゾルグの得物を弾き飛ばした。とどめは刺さなかった。ただ、静かにその場に崩れ落ちるゾルグを見下ろし、初めて口を開いた。
「――もう、誰も犠牲にするな」
低く、掠れた声だった。だが、その一言では、何も終わらなかった。
「――遅い」
崩れ落ちたはずのゾルグが、笑った。
「儀式は、とうに最終段階に入っている。お前が私を止めても、もう止まらん。……あの日、村を守れなかった私に、これ以上失うものなどない」
祭壇の中心、封じられていたはずの残滓が、耳をつんざくような音と共に、一際強い光を放った。
「――!?」
ゼロが最後の力を振り絞って盾を展開するが、翼はもう限界だった。罅割れた氷が音を立てて砕け散り、力の防壁は一瞬で吹き飛ばされる。
視界が真っ白に染まった。
意識が飛ぶ寸前、ゼロが見たのは、神殿の天井を突き破って空へと昇っていく、巨大な光の柱だった。それは、まるで世界そのものに罅を入れるように、遠くまで、どこまでも伸びていった。
「――ゼロ! しっかりして!」
フィアの声を最後に、ゼロの意識は完全に途切れた。




