決戦前夜
ヴェイルの言葉を頼りに南下するにつれ、道行く先々で異変の噂を耳にするようになった。東の空が赤く染まったまま戻らない。井戸の水が突然沸き立った。夜になっても獣たちが眠らない。ヴェレインでは浮遊石の力が不安定になり、フロズグラードの氷海には季節外れの亀裂が走ったという。各国の王侯貴族は緊急の会合を開いているそうだが、誰も明確な答えを持っていないようだった。世界そのものが、何かの予兆に怯えているようだった。
神殿へと続く巡礼路に入る前、最後の町で一晩を過ごすことになった。宿の食堂で、フィアが奮発して頼んだ肉料理を三人で囲んだ。
「これが最後の飯、みたいな空気出すのやめてよね。験が悪い」
フィアが茶化すように言いながらも、いつもよりよく食べ、よく喋った。
「――昔のヴァンダールはね、こんな料理、貴族しか食べられなかったのよ」
リゼルが、珍しく懐かしそうに目を細めた。
「弟は、いつも私の皿から一切れくすねていったわ。行儀が悪いって叱っても、ちっとも直らなかった」
「フィアは、家族が見つかったら、何がしたい?」
ゼロが尋ねると、フィアは少し考えてから答えた。
「んー、まずは一緒にご飯食べたい。それだけでいい。あとは、ゆっくり話す時間があれば」
「ゼロは?」
「俺は……」
言いかけて、ゼロは少し考えた。
「帰る場所があるだけで、十分だと思ってます。孤児院でも、この旅の途中でも」
その言葉に、リゼルとフィアが、どちらからともなく顔を見合わせて笑った。
食堂を出て、宿の裏手で夜風に当たっていると、暗がりから聞き覚えのある声がした。
「――辛気臭い顔をしてると思えば、そんなことを話してたのか」
「――ガレオン!」
とっさに身構えるが、ガレオンは戦う様子もなく、壁に寄りかかったまま、腕を組んでいた。
「安心しろ。今日は、斬り合いに来たわけじゃない」
「珍しいですね。素直に会いに来てくれるなんて」
「礼のつもりだ。カイムの件、まだ礼を言ってなかったからな」
フィアが肩をすくめた。
「別に、あんたのためにやったわけでもないし」
「――それと、忠告だ」
ガレオンの声のトーンが、わずかに低くなった。
「神殿の奥、始祖の残滓は、想像以上に育っている。お前の氷が、まだ不完全なままなら――今夜のうちに、覚悟だけは決めておけ」
「覚悟なら、とっくにできてます」
「そうか」
ガレオンはそれだけ言うと、踵を返しかけて、ふと足を止めた。
「――もう一つ。俺も、俺のやり方で片をつけるべき相手がいる。お前らの決着とは、別の場所でな」
「カイムのことですか」
「さあな」
はぐらかすように言うと、ガレオンは今度こそ、闇の中へ姿を消していった。残された三人は、しばらく無言でその方向を見つめていた。
「――結局、味方なのか敵なのか」
「さあ。でも」
リゼルが小さく笑った。
「悪い夜の始まりには、悪くない前触れね」
翌朝、三人は特に気負うこともなく、いつも通りに荷物をまとめた。
「――行こう」
誰からともなく、その一言だけで、十分だった。
始祖の神殿へと続く道は、一本道だった。朽ちた石畳の両脇では、虚ろな目をした無数の信徒たちが跪き、祈りを捧げている。石畳の下には古代文明の罠が幾重にも張られ、リゼルの目がなければ、何度も踏み抜いていただろう。
やがて、神殿を囲むように空が赤く染まり始めた。太陽はまだ高いはずなのに、夕焼けのような、禍々しい赤だった。
「――いよいよ、なんだな」
ゼロは静かに呟いた。ここで決着をつけなければ、この赤い空は、いずれ世界中を覆い尽くすことになる。
最後の関門を抜け、神殿の手前で野営を張ることになった。誰の顔にも、緊張の色が濃く浮かんでいた。
「怖くないと言えば、嘘になる」
焚き火を挟んで、リゼルがぽつりと呟いた。
「弟を守れなかった時のことを、ずっと覚えてる。今度こそ、って何度も思ってきたけど……本当にその時が来たら、私はまた同じように、何もできないんじゃないかって」
「リゼルは十分強いです」
「強さの話じゃないの。……怖いのよ、大切な人を失うことが」
その言葉に、ゼロは何も気の利いたことを返せなかった。ただ、隣に座り直し、彼女の肩にそっと自分の肩を寄せた。
「俺も怖いです。自分の血が、始祖とかいうのを呼び戻す鍵だなんて言われて、平気なわけがないですよ」
「……それでも、行くの?」
「行きます。俺の力が、誰かを傷つける鍵になるとしても――誰かを守るための盾にもなれるはずですから」
リゼルは何も言わず、ただ隣にあったゼロの手に、自分の手を重ねた。冷たい指先が、じんわりと熱を分け合うように絡む。
「――生きて帰ったら、ちゃんと聞かせてもらうから。あなたの、これからのこと」
「はい……いや、うん。約束する」
柄にもなく声が上擦ったのに気づき、ゼロは慌てて咳払いをした。リゼルはそんな彼を見て、珍しくくすりと笑った。
「――そのままでいいわよ。もう、敬語なんて似合わないもの」
「……分かった。そうする」
頬がわずかに赤らんでいたのは、焚き火のせいだけではなかったのかもしれない。
フィアが、少し離れた場所から二人を眺めながら、小さく笑った。
「あんたたち、こんな時までそんな空気出すんだ」
三者三様の不安を抱えながら、それでも誰も、引き返すとは言わなかった。夜が更けるにつれ、焚き火の炎だけが静かに揺れていた。




