空間の幹部ヴェイルとゾルグの真意
砦跡を後にして数日目の夜、野営中のゼロは、ふと妙な視線を感じて目を覚ました。
焚き火はとうに消えかけ、辺りは静まり返っている。だが、闇の奥、木々の隙間に、酷薄な笑みを浮かべた男の顔が、一瞬だけ見えた気がした。
「――カイム……!」
飛び起きて剣を構えるが、そこには誰もいなかった。ただ、耳の奥に、嘲るような声だけが残った。
『まだ終わってないよ、坊や』
「――ゼロ? どうしたの」
物音に気づいたリゼルが起き上がる。ゼロは辺りを警戒しながら、小さく首を振った。
「……いえ。気のせい、かもしれません」
そう言いながらも、指先の震えは、しばらく治まらなかった。カイムは、まだどこかで、こちらを見ている。その予感だけが、拭いきれないまま胸に残った。
翌朝、イグナートが崩れ際に残した「ゾルグ様が待っている」という言葉を頼りに、一行は最後に見つけた古い地図を辿った。示されていたのは、地図上のどこにも記載のない、山間の窪地だった。近づくにつれ、景色の輪郭が微かに歪んで見えることに、ゼロは気づいた。遠くの木立の間隔が、一歩進むごとに詰まったり伸びたりする――まるで、この一帯の「距離」そのものが、誰かの意のままに書き換えられているかのような、落ち着かない感覚だった。
案内もなく辿り着いたその場所――《終環》の拠点の一つ、朽ちかけた古い礼拝所とおぼしき場所で、一行を待っていたのは、静謐な佇まいの女だった。指先で虚空に、ゆっくりと一本の線を引くような仕草をしている。ヴェイルだった。
「よくぞ、ここまで辿り着きました。長旅、お疲れ様です」
深々と、まるで客人を迎えるかのように一礼される。予想外の丁重な挨拶に、三人は思わず身構えたまま顔を見合わせた。
「――敵に礼儀を尽くすのか」
「敵であっても、ここまでの道のりを乗り越えてきた方には、敬意を払うべきでしょう。私はそう考えています」
「――エルデア刻」
短く呟いた瞬間、ヴェイルの姿が掻き消えた。リゼルが反射的に斬りつけた空間には、何もなかった。
「――後ろよ!」
フィアの叫びで振り向いた時にはもう遅く、背後に立っていたヴェイルの手刀が、リゼルの肩を打ち据えていた。距離を詰めたのではない。ヴェイル自身が言うところの「近さ」そのものを、書き換えていた。
「――失礼」
一言断りを入れてから繰り出されたその一撃に、リゼルは面食らったような顔をした。
「無駄よ。この空間では、私との距離はあってないようなもの」
ゼロが渾身の一撃を放っても、切っ先はヴェイルの数センチ手前で虚しく空を切った。まるで、彼女の周りにだけ、こちらの間合いが引き伸ばされているかのようだった。
「……本気を出せば、あなたたちを殺すことは容易い」
淡々とした声だった。だが、そこに殺意はなかった。
「けれど、それよりも、見せたいものがある」
言うが早いか、ヴェイルは指先で虚空に一本の線を引いた。空間そのものが、その線に沿って、紙を折り畳むように歪んだ。
「――!?」
気づけば、ゼロは一人、燃える町の中に立っていた。レイムだった。逃げ惑う人々の悲鳴、崩れ落ちる家々。あの日の光景が、寸分違わず再現されていた。
「また、間に合わないのか」
自分自身の声が、頭の中で反響する。分かっていた。これも、幻術か、記憶の再生か。それでも、目の前で燃え続ける町を前に、体が竦むのを止められなかった。
同じ頃、リゼルは、あの夜の自室にいた。毒に蝕まれていくフェリクスの手を握りしめ、何もできずにいた、あの夜。
「姉さん……」
弱々しい弟の声に、リゼルの喉から、声にならない悲鳴が漏れた。
フィアもまた、物心つく前のおぼろげな記憶の底で、去っていく両親の後ろ姿を、ただ見送ることしかできずにいた。
「ごめんね、フィア。……ごめんね」
振り返らない両親の背中に、幼い自分が手を伸ばしている。
三人それぞれの過去の中、ヴェイルの声だけが、静かに響いた。
「あなたたちは、まだ過去に勝っていない。今の強さは、ただ過去から目を逸らして積み上げただけのものでしょう」
その声に、ゼロは奥歯を噛みしめた。
(違う)
「――目を逸らしてなんかいない」
燃える町の中で、ゼロは声を絞り出した。
「レイムを守れなかったのは、本当だ。それでも、俺はそこから逃げずに、次に活かそうとしてきた。過去に勝つ必要なんてない。ただ、抱えたまま、前を向くだけでいい」
同じ瞬間、リゼルはフェリクスの手を強く握り返し、フィアは伸ばされた小さな手を、もう一度自分の意志で握りしめていた。
景色が揺らぎ、三人は元の礼拝所の一室に戻された。ヴェイルが、わずかに目を見開いていた。
「――思っていたより、脆くないのね」
「あんたの負けだ」
ゼロが構え直すと、ヴェイルは小さく首を振った。
「いいえ。今のは、確かめただけ。ゾルグ様のご命令です。私の試しを越えた者には、真実を告げよ、と。……あなたたちは、もう十分に近づいた。隠す意味もないでしょう」
戦意を失ったわけではないその余裕に、三人は警戒を解けないまま、それでも言葉に耳を傾けざるを得なかった。
「《終環》の目的は――」
「始祖様の復活。かつてこの世界を作り替えかけた御方を、再びこの世に呼び戻すこと」
ヴェイルの視線が、まっすぐゼロに向けられた。
「そして、そのための鍵が、あなた」
「……俺?」
「あなたの氷は、始祖様を封じた初代賢者の血の名残り。本来は封印を保つための力。だけど――同じ血は、正しい手順を踏めば、封印を『解く』ための鍵にもなる」
淡々と告げられる事実に、その場の空気が凍りついた。
「行方不明になった魔力の強い者たちの多くは、贄にされた。あなたの血と組み合わせることで、始祖様を降臨させる依代にする計画だった」
「……ふざけるな」
ゼロの声が、初めて低く尖った。ヴェイルは表情を変えずに続けた。
「――ただし、一つ、訂正しておくべきことがあるわ」
「……何?」
「あなたは、初代賢者の血を引く『器』の候補――その一人目ではない」
「……どういう、意味だ」
ヴェイルの声は、いつも通り平坦だったが、その内容だけが、場の空気を凍りつかせた。
「これまでにも、同じ血を引く器は、幾人も見つかっては、儀式に耐えきれず消えていった。あなたが時折見るという、あの白い夢――あれは、あなたの前に器となり、そして失敗した者たちの、残留思念よ」
「――なっ」
「『まだ早い』。そう告げているのは、始祖様ではなく、恐らく、あなたより先に、同じ役目を負わされて壊れていった誰かの声」
ゼロは、言葉を失った。あの夢が、ただの前兆ではなく、誰かの――何人もの、名も残らない誰かの、成れの果てだったという事実に、足元が崩れ落ちるような感覚を覚えた。
(俺は、初めてじゃない……? じゃあ、俺の前にいた奴らは、一体――)
「怒る資格はあなたにある。……でも、これだけは覚えておいて。ゾルグ様は、狂信者ではない。魔力の有無で人の値打ちが決まる世界を、終わらせたいだけ。手段は、間違っているけれど」
「あんたは、それでいいのか。分かっていて、従うのか」
ゼロの問いに、ヴェイルは初めて、わずかに視線を揺らした。
「――私にも、ゾルグ様に拾われた理由がある。それだけよ。正しいか間違っているかは、もう随分前に、考えるのをやめたの」
その声には、諦めとも、覚悟ともつかない、複雑な響きがあった。
その言葉を最後に、ヴェイルは戦うことなく静かに姿を消した。「続きは、ゾルグ様が直接話すでしょう。南の神殿で、あの方はあなたを待っています」とだけ言い残して。
残された三人は、しばらく声も出せなかった。
「――ゼロ」
リゼルが、震える声で名前を呼んだ。
「大丈夫です。俺は、俺のままです」
自分に言い聞かせるように、ゼロは静かにそう答えた。だが、胸の奥に生まれた不安の芯は、簡単には消えてくれなかった。
その夜、焚き火を挟んでも、誰も長くは口を開かなかった。ゼロは自分の両手を見つめ、拳を握ったり開いたりを繰り返していた。
(俺の前にも、何人も――みんな、壊れて、消えた)
抑えていたはずの震えが、指先から肩へ、全身へと広がっていく。
「――俺が、いなければ」
ぽつりと漏れた声は、自分でも驚くほど掠れていた。
「俺が存在すること自体が、始祖を呼び戻す鍵なんだろう。だったら、俺がここにいることで、また誰かが犠牲になるんじゃないか。それに、俺の前にいた奴らも、みんな……」
言葉が続かなかった。喉の奥が焼けるように熱く、視界が滲む。
「――嫌だ。俺は、あんな夢の中の声みたいに、消えたくない」
抑えきれなくなった感情が、堰を切ったように溢れ出した。声を上げて泣いたのは、この体になってから、初めてのことだった。
「――それは違う!」
フィアが、珍しく鋭い声で叫んだ。乱暴にゼロの両肩を掴み、正面から睨みつける。
「ゼロが悪いんじゃない! ゼロを利用しようとする奴らが悪いの! 生まれ持ったものを、勝手に悪用されただけでしょ!」
「でも、俺の前にいた奴らは……」
「知らないよ、そんなの! でも、少なくとも、あんたは今、ここで生きてる! 消えてなんかない!」
フィアの目にも、涙が浮かんでいた。
「あんたがいなくなったら、あたしも、リゼルも困る! それだけで、十分な理由でしょ! それ以上、何がいるの!」
叫ぶように言い切ると、フィアはそのままゼロの体に、力任せに抱きついた。
リゼルも、震える声で続けた。
「フィアの言う通りよ。……あなたの価値は、あなたが何かの鍵かどうかじゃない。ここにいる、あなた自身にある。それを、忘れないで」
普段の毅然とした声とは違う、抑えきれない感情の滲んだ声だった。
三人分の熱と、涙と、震えが、静かな夜の中で重なり合っていた。ゼロは何も言えず、ただ嗚咽を堪えながら、小さく頷いた。胸の奥の不安は消えなかったが、それでも、一人で抱え込まなくていいのだと、骨の髄まで思い知らされた夜だった。




