旅立ち
出立の朝、マーサは何も言わずにゼロの荷物に干し肉の包みを押し込んだ。
「……世話になりました」 「二度と帰ってこないみたいな顔をするんじゃないよ。たまには顔を見せな」
ぶっきらぼうな言葉の裏にある温かさに、ゼロは思わず笑った。振り返ると、小さな子供たちが数人、門のところで手を振っていた。その光景を、目に焼き付けるように見つめてから、ゼロは歩き出した。
透き通るような水色の髪が、朝の風に揺れた。白を基調にした軽装は、動きやすさよりも、まだ定まらない氷魔法の扱いやすさを優先して選んだものだった。
町を出てしばらく歩くと、小高い丘の上に、木組みの発着場が見えてきた。係留された巨大な飛空艇が、朝日を受けて鈍く輝いている。
「――あれに乗るんですか」
「ちょうどヴェレインへ向かう定期便があるの。故国の窮状を思うと、悠長に街道を歩いている余裕はないから」
飛空艇の甲板に足を踏み入れた瞬間、下から突き上げるような浮遊感に、ゼロは思わずよろめいた。
「田舎者ね」
「田舎者は否定しませんけど、その言い方はひどくないですか」
軽口を叩き合ううちに、船体がゆっくりと浮き上がった。眼下に町が、畑が、街道が、みるみる小さくなっていく。地平線の彼方まで見渡せる光景に、ゼロはしばらく声も出せなかった。
(世界は、こんなに広かったのか)
生まれ変わってから十五年、井戸と孤児院と町の外れしか知らなかった自分の世界が、一瞬で塗り替えられていくような感覚だった。
「――弟がいたら、喜んで見ただろうな、こういう景色」
風になびく髪を押さえながら、リゼルがぽつりと呟いた。ゼロが何か言う前に、彼女はすぐにいつもの澄ました表情に戻ってしまった。
「そういえば、ヴェレインのこと、知ってる?」
「いえ、初めて聞きます」
「大きな浮遊石の力で空に浮いている都市よ。地上との物資輸送を巡って、商人たちが年中揉めている。ちょうど傭兵ギルドに用があるから、そこで一度足を止めるわ」
甲板の隅、係留具の根元に、朽ちかけた小さな護符が打ち付けられているのに、ゼロはふと目を留めた。蛇が己の尾を飲み込むような奇妙な紋様が、薄く刻まれている。指でなぞろうとすると、リゼルがその手をやんわりと止めた。
「触らない方がいいわ。……古い、良くない印だと聞くから」
「知ってるんですか、これ」
「知ってるってほどじゃない。父から一度だけ聞いたことがあるの。大昔の、良くない集団の印だとか何とか。……正直、ただの都市伝説だと思ってた」
それ以上は何も言わず、リゼルは船首の方へ歩き出した。ゼロはもう一度だけ振り返ってその紋様を見てから、追いかけるように足を速めた。
数日後、地平線の彼方に、雲を纏った巨大な岩の島が浮かんでいるのが見えた。
「――あれが、ヴェレイン」
リゼルの声に、ゼロは言葉を失った。まるで神話の中の光景だった。
(この世界には、まだこんな景色があるのか)
胸の奥で、何かが静かに高鳴っていた。
――同じ頃、ゼロたちが知る由もない場所で。
光の届かない石造りの間に、幾つかの気配が集まっていた。姿は影に沈み、声だけが響く。
「――始祖の器が、見つかったそうだな」
低く、年経た声だった。
「ええ。北方の田舎町で、妙な氷を操る少年が見つかりました。何年か前、あの辺りで、始祖の血に応える魔力の反応だけを捉えて見失っていましたが……ようやく、本人だと特定できました。反応は、これまで探してきたどの候補よりも強い」
「氷、か。……皮肉なものだ」
「まだ子供です。今すぐどうこうする必要はないでしょう。育つのを、気長に待てばいい」
「監視だけはつけておけ。逃げられても、消えられても困る」
「かしこまりました」
囁くようなやり取りが、しばらく続いた。
「――名は?」
「まだ、大した名でもありません。田舎の孤児院育ちの、しがない少年です」
「そうか。……なら、せいぜい――役に立つまでは死なずにいてもらいたいものだな」
くぐもった笑い声が、闇の中に溶けていった。それが誰のものかも、何のための会話だったのかも、まだ何一つ知らないまま――
その頃ゼロは、初めて見る浮遊都市の姿に、ただ純粋な感動だけを覚えていた。




