護衛の依頼
腕の中で、大切な人の体温が、少しずつ冷えていく。
誰も、間に合わないと思っていた。
ゼロは、ゆっくりと立ち上がった。
「――もう、失いたくない」
その一言と共に、背中から、氷の翼が生まれた。
空が、白く染まり始める。
物語は、そこから少し前――まだ何も知らない、一人の少年から始まる。
* * *
――白い、果てのない世界だった。
音もなく、温度もなく、ただ広がり続ける白の中で、誰かの声が響いた気がした。
『まだ早い。お前が辿り着くのは、まだ先だ』
意味も、正体も分からないまま、その声は白に溶けて消えた。
目を覚ますと、知らない天井があった。
木の梁がむき出しの天井、隙間から差し込む朝の光。ゼロは自分の手を見た。骨ばった、けれど確かに子供の手だった。
(ああ、死んだんだ、俺)
不思議と取り乱しはしなかった。ただ、増水した川に落ちた子供を助けようと飛び込み、岸に押し上げたところで意識が途切れた記憶だけが、消化しきれない澱のように胸の奥に残っていた。あの子は、助かったのだろうか。それを確かめる前に、全てが暗転した。
さっきまで見ていた、あの白い世界の夢のことは、なぜかもう、うまく思い出せなかった。
覚えているのはそこまでで、その後の記憶は、ひどく曖昧なまま繋がっていった。
物心ついた頃には、この世界の小さな村で、ごく普通の子供として暮らしていた。赤ん坊の頃の記憶は霞のように薄く、前世の自分をはっきり思い出したのは、言葉を覚え始めた頃だった。父は木こり、母は機織り。裕福ではなかったが、笑い声の絶えない家だった。前世の記憶は時折、夢のように顔を出すだけで、日々は穏やかに過ぎていった。
その日常が壊れたのは、ゼロが九つの年だった。
その日の夕食は、母が張り切って作った兎肉の煮込みだった。父が仕事の合間に仕留めてきたのだと自慢げに話し、母がそれをからかう、いつも通りの食卓だった。ゼロは眠気に負けて早々に布団に入り、両親の穏やかな話し声を子守唄代わりに、ゆっくりと眠りに落ちていった。それが、覚えている最後の平穏だった。
夜更け、村の外れから獣の唸り声が響いたかと思うと、次の瞬間には、松明を掲げた大人たちの怒号と、逃げ惑う悲鳴が入り混じった。普段は近づきもしない魔物の群れが、まるで何かに引き寄せられるように、次々と村へなだれ込んできていた。後になって、村はずれで見慣れない紋様の描かれた札が見つかったと噂されたが、幼いゼロには知る由もなかった。
「ゼロ、こっちへ!」
母が震える手で抱き寄せ、家の裏口から外へ押し出した。頬に触れた手のひらは、いつもと変わらず温かかった。それが、ゼロの覚えている母の最後の温度だった。
「逃げて……! お願い、走って!」
「父さん、母さんも一緒に――」
「いいから、走れ!」
父の声には、これまで聞いたことのない鋭さがあった。振り返ると、父は納屋から持ち出した斧を握りしめ、迫る魔物の群れの前に、震える両足で踏みとどまっていた。木こりの腕であって、戦士の腕ではない。それでもその背中は、決して退かなかった。
「ゼロだけは生きろ!」
その一言を最後に、ゼロの足は勝手に動いていた。何度も振り返りそうになる自分を、母の手が背中から押した。
やがて、家の裏の茂みに転がり込んだところで、ゼロは一度だけ振り返った。見た光景を、ゼロはその後、二度と言葉にしようとしなかった。ただ、覚えているのは、自分を守るように最後まで手を伸ばしていた母の指先が、届かないまま力を失っていく、その一部始終だった。
叫んだつもりだった。だが、声にならなかった。代わりに、体の奥底から何かが弾けるように溢れ出した。制御などできるはずもない、ただ恐怖と絶望だけに突き動かされた冷気が、視界を白く塗りつぶしていく。指先から、腕から、体中の輪郭が凍りついていくような感覚と共に、辺り一帯が氷結していった。凍りついた魔物たちが、次々と砕け散っていく音を、ゼロはどこか遠い場所の出来事のように聞いていた。
どれくらいの時間が経ったのか、分からなかった。気づいた時には、辺りは静まり返っていた。燃え落ちた家々の中心で、ゼロだけが、傷一つなく立ち尽くしていた。あれほど周りにあったはずの熱――炎も、悲鳴も、両親の温もりも――何もかもが、この手が生み出した白さの中に、静かに閉じ込められていた。
自分だけが、無傷だった。その事実が、何よりも重く、幼いゼロの上にのしかかった。
後に駆けつけた隣村の大人たちに保護され、遠く離れた町の孤児院に引き取られた。院長のマーサは多くを聞かず、静かにゼロを迎え入れた。
それから六年の月日が流れた。
「起きたかい、ゼロ」
気だるげな声に振り向くと、着崩したシャツに寝癖のついた髪という、およそ院長らしくないラフな格好の女が、戸口に寄りかかっていた。孤児院の院長、マーサ。年齢のわりに貫禄があり、子供たちからは姉のように慕われている。
この体で重ねた十五年の記憶と、前世の記憶は、今も境目なく、まだらに混ざり合っている。
「今日は町へ買い出しだ。手伝っておくれ」
有無を言わさぬ調子だった。身支度をして井戸で顔を洗おうとした瞬間、指先から漏れた冷気が水面を覆った。氷は平らに張らず、尖った奇妙な形を保ったまま固まっている。あの夜以来、時折こうして勝手に溢れ出す力を、ゼロは半ば持て余していた。
「また、それかい。相変わらず変わった魔法だね」
呆れながらも面白がるマーサに苦笑いを返し、ゼロは買い出しに出た。この町で世話になって六年。よく喋る割に子供の面倒見がよく、すっかり「お兄ちゃん」として懐かれている。
その帰り道、町の外れで悲鳴が上がった。
「魔物だ! 森から出てきたぞ!」
人々が逃げ惑う中、ゼロは荷物を放り出して声のした方へ走った。心臓が痛いくらいに早鐘を打っている。怖くないわけがなかった。それでも、考えるより先に足が動いていた。背後で「馬鹿、待ちな!」というマーサの怒鳴り声が追いかけてきたが、それすらも、耳の奥を素通りしていった。
路地を抜けた先、行き止まりの壁際に、一人の女性が追い詰められていた。旅装束に身を包み、腰に剣を差してはいるが、足を負傷しているのか抜く様子がない。彼女の前には、体高二メートルはあろうかという狼型の魔物――牙から涎を垂らし、爛々と赤い目を光らせている。
女性がゼロに気づき、鋭く叫んだ。
「来るな! 逃げろ!」
命令するような、しかしどこか他人を案じる響きのある声だった。だがゼロの足は止まらなかった。
(また、目の前で……)
考えるより先に、右手が動いていた。地面に落ちていた木の棒を拾い上げると同時に、魔物が跳んだ。牙が女性の喉笛に届く、その寸前。
ゼロは棒を突き出しながら、体の奥から何かが溢れ出すのを感じた。あの夜と同じ、指先が痺れるような冷気。だが今度は、恐怖に呑まれてはいなかった。まるで意志を持っているかのように、冷気は木の棒を包み込んでいく。
木の棒が、白く輝きながら形を変えた。
節くれだった枝ではなく、鋭く尖った――剣の刃に。
「うおっ……!?」
自分の声にすら驚きながら、ゼロはその氷の剣を魔物の顎の下から突き上げた。手応えは確かにあった。魔物は甲高い悲鳴を上げてのけぞり、そのまま地面に倒れて動かなくなった。
勝った、その安堵で頭がいっぱいになった瞬間だった。
「――後ろ!」
女性の鋭い声に、はっと我に返る。倒した魔物の陰から、一回り小さな個体がもう一頭、牙を剥いて飛びかかってきていた。目の前のことだけに没頭すると、他が一切見えなくなる――そういう性分だった。とっさに身をひねって最悪の一撃こそ避けたものの、肩口を鋭い爪が掠め、じわりと血が滲んだ。
「っ……!」
女性が片足を引きずりながらも駆け寄り、短剣で小さな魔物にとどめを刺した。
静寂が戻る。心臓はまだ激しく脈打っていた。ゼロは自分の手の中にある、透き通った氷の剣を呆然と見つめた。柄も、刃も、切っ先の角度まで、まるで最初から剣として鍛えられたかのような完璧な形をしている。
指先が震えていた。恐怖のせいなのか、それとも別の何かのせいなのか、自分でも区別がつかなかった。ただ一つだけ確かなことがあった――今度は、目の前で誰かが死ぬのを黙って見ていなくて済んだ。あの夜、何も守れなかった自分とは、違う。それだけで、胸の奥が熱くなった。
(これは……何だ? ただの氷、じゃない)
困惑したまま、ふと右手を見つめた瞬間、視界の端に、見覚えのない文字の羅列が浮かび上がった。
【氷結適性を検知しました】
【スキル『氷結魔法』が発現しました(Lv.1)】
誰にも見えていないはずのそれは、ゼロの目にだけ映る、半透明の板のようなものだった。この世界の魔法使いたちが口にする理屈のどれとも、似ていなかった。もしかしたら、これも、前世から持ち越してしまった何かなのかもしれない――そんな、根拠のない直感だけがあった。慌てて瞬きをすると、文字は静かに溶けるように消えていった。
(今の、何だ……)
幻覚だと思いたかった。だが、指先に残る冷気の感触は、紛れもなく現実のものだった。
普通、氷魔法で作れるのはせいぜい鋭い氷柱程度だと聞いていた。剣の形を保ったまま固まるなど、聞いたことがない。
「……あなた、今、何をしたの?」
女性は肩の傷を一瞥してから、警戒と驚きの入り混じった目でゼロを見た。整った顔立ちに、ピンク色の髪を一つに束ね、動きやすさを重視した女剣士めいた服装を纏っている。腰には使い込まれた剣、背には短弓。北方の訛りがわずかに滲む言葉遣い。
「わ、分かりません……氷魔法、だとは思うんですが」
答えながら、手の中の剣はすでに解け始め、さらさらとした粉雪になって崩れていった。まるで最初から存在しなかったかのように。
女性はしばらくゼロを値踏みするように見つめていたが、ふとゼロの肩口の傷に気づいて眉をひそめた。
「――血が出てるじゃない。動かないで」
「え、あ、大丈夫です、これくらい」
「大丈夫そうに見えないから言ってるの」
有無を言わさず、女性は懐から取り出した布で傷口を手早く縛った。手つきは慣れていたが、力加減を間違えたのか、思わずゼロが「痛っ」と声を漏らすと、彼女は珍しく慌てた顔を見せた。
「――ご、ごめんなさい。強すぎた?」
「……いえ、大丈夫です」
「そう、ならいいのだけど……」
しどろもどろに言い訳するその姿は、先ほどまでの毅然とした様子とは少し違って見えた。ゼロが思わず小さく笑うと、女性は咳払いをして、また表情を引き締めた。
「――笑うところじゃないでしょう」
「すみません」
短く礼を言うと、女性は足を庇いながら、それ以上は何も聞かずに雑踏の中へ姿を消した。ゼロはその背中を見送りながら、手のひらに残る冷たい感触と、肩に巻かれた布の感触を、両方握りしめた。
(今のは、何だったんだ)
普通の氷が、剣の形になるはずがない。誰かに聞くべきかとも思ったが、うまく言葉にできる自信もなく、その日は結局マーサにも話さずじまいだった。
数日後、孤児院の戸を叩く音がした。出てみると、あの日の女性が立っていた。
「あなたが、ここの子だったのね。捜すのに苦労したわ」
マーサが怪訝そうに顔を出すのを横目に、女性は名乗った。
「リゼル・ヴァンダール。改めて、この前は助かった」
「あ、いえ……その、何か御用ですか」
「お願いがあるの。私の故郷まで、一緒に来てくれない?」
唐突な申し出に、ゼロは言葉に詰まった。
「護衛、ってことですか」
「ええ。……正直に言うわね。道中で雇った護衛は、あの魔物の群れを見て、荷物を置いて逃げたの。だから私は、あの路地で一人で追い詰められていた」
リゼルは自嘲するように、小さく息を吐いた。
「でも、あなたは逃げなかった。見ず知らずの私の前に、迷わず飛び出した。腕の良し悪しの前に、そういう人を、私は探していたの」
「でも、俺はただの孤児院の……」
「それに、あなたのあの氷。普通の氷魔法じゃない。最初に向かうヴェレインには、大きな図書塔がある。あなたの力が何なのか、手がかりが見つかるかもしれない」
ゼロは、手のひらに残るあの日の冷たさを、無意識になぞっていた。九つの夜に溢れ出して以来、持て余し続けてきた、自分でも正体の分からない力。それが何なのか、知れるのなら。
「報酬は、きちんと出す。旅費も、全部私が持つわ。……ただ、時間がないの。故国の再建に力を貸してくれるはずだった人が、この先の街を発つ間際でね。飛空艇に乗り遅れたら、次の機会がいつになるか分からない」
リゼルは、そこで少しだけ言葉を切った。
「買い被りかもしれないけど、あなたに賭けてみたい」
沈黙が落ちた。
「どうする、ゼロ」
いつの間にか背後に立っていたマーサが、静かに声をかけた。
「行きたいなら、行きな。ここはいつでも帰ってこられる場所だ。お前が動かなきゃ始まらないことも、世の中にはあるんだよ」
門のところで、小さな子供たちが不安げにこちらを見ていた。ゼロは一人一人の顔を見て、それから小さく笑った。
「――分かりました。行きます」
自分でも驚くほど、迷いのない声だった。
「決まりね」
リゼルは、初めて見せる柔らかさで、小さく笑った。
(あの氷は、ただの魔法とは何かが違う。……この出会いが、旅の全てを変えるかもしれない)




