幻覚の幹部カイム
第十七章 幻覚の幹部カイムとガレオン
あれから数日、フィアは努めて明るく振る舞っていたが、ふとした拍子に、遠くを見つめて黙り込むことが増えた。ゼロもリゼルも、そのことには触れずにいた。
ネスラの手記に記されていた地名を頼りに、ヴェイルの手がかりを追って北西へ向かう。宿場町で聞き込みを重ねるうち、「ある朝、人の気配だけが消えた村がある」という噂に行き当たった。手記の地名とも、方角が重なっていた。
そうして一週間ほど歩いた先で、一行はその小さな村に辿り着いた。地図にも載っていない、妙に静かな村だった。
村の入り口をくぐった瞬間、白い霧が三人を包み込んだ。
「――リゼル? フィア?」
呼びかけた声は、誰にも届かなかった。気づけば、ゼロは一人、見覚えのある畑道に立っていた。
「ゼロ、お帰り」
振り返ると、木こりの父と機織りの母が、笑いながら手を振っていた。九つの年に、目の前で失ったはずの二人だった。
「お父さん……お母さん」
声が震えた。これは幻だ。白い霧に呑まれた自分が、こんな場所にいるはずがない。頭では、そう分かっていた。
「どうしたの、幽霊でも見たような顔をして」
母が可笑しそうに笑う。
「……だって、二人は。あの夜に」
「あの夜? 何の話だ。寝ぼけてるのか」
父が笑いながら肩を叩いた。掌の重みも、土と木の匂いも、記憶のままだった。
「魔物なんて、この村じゃもう何年も出てないよ。平和なもんだ」
母がそう言って笑う。ここには、あの夜がない。両親は死んでいない。氷魔法も暴走しない。ただの村の少年として、当たり前の生活が続いている。
「お前は、剣も魔法も知らなくていい。ただ、ここで生きていけばいい」
父の言葉に、体の力が抜けていくのが分かった。誰も傷つかない。誰も守らなくていい。これ以上、何かを失う心配もない。
(幻だ。分かってる。……分かってるのに)
それでも、ここにいたいと思ってしまう自分に、ゼロは驚かなかった。それくらい、この世界は優しかった。
同じ頃、リゼルは在りし日のヴァンダール城の回廊に立ち尽くしていた。滅びたはずの城だった。
「姉さん、こっちだよ」
駆け寄ってくる弟、フェリクスの手は温かかった。
「……フェリクス? どうして」
「どうしてって、何が? 変な姉さん」
笑う声は、記憶の中のそれと寸分違わなかった。霧が見せる幻のはずだ。そう思うのに、握られた手を振りほどけなかった。城下町には活気があり、没落の影はどこにもない。父も母も健在で、リゼルはただの城主の娘として、何の重荷も背負わずに笑っていられる、そんな世界だった。
「ずっと、こうしていられたらいいのに」
フェリクスの言葉に、リゼルは幻と知りながら、小さく頷いた。守れなかった罪悪感も、旅の目的も、ここにはいらなかった。
フィアは、温かい家の食卓についていた。いつ座ったのか、思い出せなかった。向かいには、両親が当たり前のようにそこにいた。
「……あれ。あたし、なんで」
戸惑うフィアに、父が不思議そうに首を傾げる。「光なき者」と蔑まれることもなく、家族三人で笑いながら夕食を囲んでいる。
「フィア、大きくなったね」
母の言葉に、フィアは涙をこぼした。幻だと、頭のどこかでは分かっていた。それでも、笑ってしまった。もう、誰かに引き取られる必要も、旅をする理由もない。
三人それぞれの世界に、どこからともなく声が響いた。
「――人間は、現実より、幸せな嘘を選ぶ。それの何が悪い?」
カイムの声だった。姿は見えない。ただ、それぞれの幸福な景色の中に、溶け込むように響いていた。
「失ったものを、もう一度取り戻せる。それを拒む理由が、どこにある」
ゼロの中で、何かが揺らいだ。両親と暮らす、この穏やかな時間。誰も守れなかった後悔も、レイムの失敗も、ここにはない。
(このまま……)
差し出された母の手を、ゼロは取りかけた。その時、指先に、微かな冷たさが走った。
――ネスラの地下で、黙って握り返してくれたリゼルの手の温かさ。
――「一人だったら、多分、我を忘れてやられていた」と震えていたリゼルの声。
――「大丈夫。大丈夫だから」と、震える声で繰り返していたフィア。
まだ何も失っていないはずのこの世界に、なぜかリゼルとフィアの姿だけが、どこにもなかった。
(――違う)
ゼロは、差し出された手を、静かに下ろした。
「俺は、失ったものを取り戻すために、今あるものを捨てるのは……違うと思う」
「――何?」
初めて、母の顔から表情が消えた。
「あんたたちがくれる幸せは、多分、本物に近い。でも、それを受け取るには、リゼルとフィアを置いていかなきゃいけない。それは、俺の望む幸せじゃない」
言い切った瞬間、目の前の景色が、音を立てて崩れ始めた。父と母の姿が、淡い霧となって解けていく。
「――リゼル! フィア!」
叫んだ声が、白い霧の向こうに届いた気がした。
村の景色が、陽炎のように揺らいだ。両親も、弟も、フィアの家族も、全てが淡い霧となって消えていった。後に残ったのは、灰色の廃墟と、酷薄な笑みを浮かべた一人の男だった。
「――どうだ、我ながら、会心の出来だと思わないか」
カイムは、崩れゆく幻影の残滓を、まるで自分の作品を鑑賞するように見渡し、ぱちぱちと芝居がかった拍手を送った。まるで舞台の幕が下りた劇場で、自作を称える演者のような仕草だった。
「三人分、三通りの『理想』を、寸分違わず同時に編み上げる。並の幻術士には、逆立ちしても真似できまい。……いい作品だった。誰にも見せられないのが、惜しいくらいにな」
男は恭しく胸に手を当て、芝居がかった一礼をしてみせた。
「名乗り遅れたな。《終環》の幹部、幻覚のカイム。以後、お見知りおきを」
「幻覚の幹部、カイム……! 手記にあった名前……」
リゼルが低く呟いた。フィアは崩れ落ちるように膝をつき、拳を地面に叩きつけた。
「……よくも」
その隣で、ゼロは今まで感じたことのない、真っ黒な感情が腹の底から込み上げてくるのを感じていた。誰かを傷つけたいと思ったのは、生まれて初めてだった。
「――お前」
声が、自分でも驚くほど低く出た。
「よくも、それを使ったな」
「ほう。存外、感情的になるものだな。……だが、惜しかったな。もう少しで、お前は永遠にあちら側だった――違うか?」
「人間は、幸せな嘘を選ぶんじゃない。今隣にいる奴を選ぶだけだ」
カイムが愉快そうに嗤った次の瞬間、霧を切り裂いて一人の男が割り込んできた。
「幻に呑まれるな! 目の前の景色を疑え!」
大剣を振るいながら現れたのは――ガレオンだった。
ゼロは反射的に剣を構え直した。リゼルもフィアも、警戒を解かないまま身構える。あの日、指一本届かなかった相手だった。
「お前……! なぜ、ここに」
「カイムの足取りを追ってきた。あの野郎が次に巣を張るならこの辺りだと踏んでな。……お前らが先に引っかかっているとは思わなかったが。勘違いするな、お前らを斬りに来たんじゃない」
「それを、信じろって言うの?」
リゼルが低く問う。
「信じなくていい。だが、幻の中で仲良く斬り合いたいなら止めはしない。……話は後だ。今はそいつを叩き斬るのが先だろう」
ガレオンの一喝で、カイムの気配が揺らいだ。
「――裏切り者が。まだこちら側の真似事をするのか、ガレオン」
「裏切ったつもりはない。見限っただけだ」
――終環の人間だったのか、この男は。ゼロは思わず、ガレオンの横顔を見た。
「その体、まだ幻術が効かないままか。始祖様の血を薄く引く者は、これだから厄介だ」
ガレオンは、その言葉には何も答えなかった。ただ、口元をわずかに歪めただけだった。ゼロはその一言に引っかかりを覚えたが、問いただす間もなく、二人は既に刃を交えていた。
二人の間に流れる空気は、単なる敵対関係以上の、何か重いものを孕んでいた。
戦いの最中、カイムが嘲るように言った。
「お前がミナを守れなかったのは、力が足りなかったからじゃない。組織を――俺たちを、信じすぎたからだ」
ガレオンの剣筋が、一瞬だけ乱れた。それでも止まらず、カイムの幻術を強引に斬り裂いていく。ゼロたちも加勢し、幾重にも重なった幻影を一つずつ打ち払った。最後は、リゼルの一撃がカイムの体を捉えかけたが、触れる寸前で、その姿は霧のように薄れて消えた。
「――今日のところは、これくらいにしておこう」
姿の見えないまま、声だけが霧の向こうから響いた。
「幸せな嘘は、まだいくらでも用意できる。……また会おう、心の柔らかい坊やたち」
嘲るような笑い声を最後に、気配そのものが消えていった。仕留め損ねた苦さと、また会うという言葉の不気味さが、その場に重く残った。
戦いの後、ガレオンはしばらく無言だった。焚き火の傍らで、ぽつりと語り出す。
「昔、俺の下についていた小娘がいた。ミナという。《終環》の任務でしくじって、俺の目の前で死んだ。……守ってやれなかった。その任務に、カイムも噛んでいた。あいつだけは、俺が決着をつけると決めている。今日来たのは、それだけの理由だ」
「それで、あの言葉」
「ああ。弱い奴は守れない――あれは、お前に言ったんじゃない。俺自身への呪いだ」
ガレオンはゼロをじっと見据えた。
「お前の目は、あの時の俺に似てる。だから、嫌いじゃないと言った。それだけだ」
言うだけ言うと、ガレオンは立ち上がった。
「ヴェイルの居場所を知りたければ、古代文明の遺跡を探れ。奴らの本拠地の位置は、当時の地図にしか残っていないはずだ」
ガレオンは背を向けたまま、付け足した。
「借りができたな。次はもう少し、マシに戦えるようになっておけ」
背を向けて去っていくその背中に、ゼロは深く頭を下げた。敵でも味方でもない、その距離感のまま、ガレオンはまた去っていった。
その夜、フィアは焚き火の前で膝を抱えたまま、長い間、口を開かなかった。
「……本物じゃなかったんだよね。お父さんも、お母さんも」
「ああ」
「分かってるのに、悔しい。あの温かさが偽物だったって、分かってるのに」
フィアの目から、堪えきれない涙がこぼれた。ゼロは何か言おうとして、口を開きかけ――結局、何も言えなかった。自分も同じ手を、あと一歩で取りかけていたからだった。
「――偽物でも」
黙っていたリゼルが、静かに口を開いた。
「そこで感じた温かさまで、嘘じゃないと思う。フェリクスの手の温度も、私が嬉しかった気持ちも、本物だった。ただ、それだけじゃ生きていけないというだけ」
「リゼル……」
「私たちは、幻の中の幸せじゃなくて、今ここにいる、お互いを選んだ。それでいいのよ」
フィアは、しばらく泣き続けた後、洟をすすりながら小さく笑った。
「……ありがと。二人とも」
その夜、三人は焚き火を囲んだまま、いつもよりずっと近い距離で眠りについた。
(誰かの一番弱いところを、平気で踏みにじる奴がいる)
ゼロは静かに、そう思った。カイムへの嫌悪は、単なる敵意とは違う、もっと生理的な、拭いがたいものとして胸に残り続けた。




