重力の幹部ゾウディア
村の人々に見送られ、三人は街道へ戻った。ネスラの手記に記されていた地名は、ここから遥か北西。旅の路銀も食料も心許なくなっていたため、途中にある大きな街で補給を済ませることにした。
歩くこと二日、川を跨ぐ大橋で知られた街が見えてきた。市場は人であふれ、荷馬車が絶えず橋を行き交っている。毒の村の静けさを見たばかりの目には、その賑わいが少し眩しかった。
「ちゃんとした宿で寝られるの、久しぶりじゃない? あたし、今日は絶対ベッドで寝る!」
「その前に、食料と薬草の補充よ」
「はいはい。リゼルは真面目だなあ」
軽口を叩くフィアにリゼルが呆れ顔で返し、ゼロは苦笑しながら二人の後ろを歩く。橋のたもとにさしかかった、その時だった。前触れもなく、街を貫く大橋が轟音と共に宙へ浮き上がった。
「――なっ」
橋の下敷きになった家々が、次々と押し潰されていく。悲鳴と土煙が街を覆った。
「閉じ込められてる人がいる! 急いで!」
フィアが真っ先に瓦礫の中へ飛び込んだ。ゼロとリゼルも後に続き、崩れた建物の隙間から、何百人もの住民を助け出していく。
「子供を助けて!」
フィアが叫んだ方向を見ると、崩れかけた屋根の下に、小さな影が取り残されていた。屋根はゆっくりと、しかし確実に沈み込んでいる。
「――俺が支える!」
ゼロは氷の柱を何本も屋根の下に打ち込み、崩落を食い止めた。その隙にフィアが子供を抱えて飛び出す。息をつく間もなく、次の瓦礫、また次の瓦礫へと向かう。
ようやく住民の避難が一段落した時、宙に浮いたままの橋の上に、感情の読めない、人形めいた顔をした女が立っているのが見えた。
「――あんたが、これを」
リゼルの声に、怒りが滲んでいた。重力の幹部、ゾウディアだった。
「無駄な足掻きを見せてもらった。次は、私の番――それだけ」
言うが早いか、周囲の重力が歪んだ。石畳が浮き上がり、木々が根こそぎ宙に持ち上げられる。ゼロたちの体も、まるで見えない手に押し潰されるように、地面に叩きつけられた。
「重い……!」
「これが、私の力。全てを『なかったこと』にする重さ」
淡々とした声には、憎しみも喜びもなかった。ただ、機械のように任務をこなしているだけ、というような。
「押し潰す力だけじゃない……! さっき、橋を持ち上げたのも同じ力のはずです」
ゼロは歯を食いしばりながら分析した。
「押すのも、浮かせるのも、同じ『重さの操作』。だとすれば、一点に力を集めた瞬間は、周りの重力が薄くなるはずです!」
「理屈はいいから、隙はいつ来るの!」
「――今だ!」
読み通り、ゾウディアが石畳を押し潰そうと力を収束させた刹那、その周辺だけ重力の縛りが緩んだ。リゼルとフィアが、その一瞬を逃さず距離を詰める。
「――ふ」
追い詰められているはずのゾウディアの口元が、微かに本当に微かに緩んだ。感情を失ったはずの人形のような顔に、場違いなほど生き生きとした光が差す。
「――久しぶりだ。この、噛み合っていく感覚」
「あんた、今、笑った?」
「さあ。……ただ、悪くないと思っただけ。全てを『なかったこと』にする毎日の中で、これだけは、確かに『何かがある』と感じられる」
戦いだけが、凍りついた感情の中で、唯一揺れる何かを連れてくるらしかった。ゾウディアは、それきりまた表情を消したが、動きだけは、明らかに先ほどより鋭くなっていた。
フィアがその声に、何かを感じ取ったように顔を上げた。
「――あんた、その声。まさか」
「知らない声のはずだが」
「ううん……なんでだろう、聞き覚えがある気がして」
戸惑うフィアに、ゾウディアはぴくりと眉を動かした。表情のない顔に、初めて小さな亀裂が入ったような一瞬だった。
戦いは苛烈を極めた。浮いたままの橋の残骸が、じわじわと落下を始めていた。まだ下敷きになったままの住民が残っていることを、ゼロは瓦礫の隙間から確認していた。
「あの橋、あと数分で完全に落ちます! ゾウディアを止めるか、橋を支えるか、同時にはできません!」
「――両方やるしかないでしょう」
リゼルが即座に言い切った。フィアが瓦礫の下から住民を引きずり出す間、ゼロは氷の柱で橋を仮に支え、リゼルが単身でゾウディアを引きつける。刻一刻と迫る崩落までの猶予の中、押し潰す重力を、ゼロは足場ごと凍らせて相殺し、隙を作る。リゼルとフィアが連携で距離を詰め、最後の住民が救出されたのと、ゾウディアが膝をついたのは、ほぼ同時だった。
「――ここまで、か」
追い詰められながらも、ゾウディアはフィアを見つめ、抑揚のない声で言った。
「お前の『光なき者』という体質……あれは、生まれつきではない。お前の一族の魔力が強すぎたゆえに、幼い頃、私たちが施した処置の副作用だ」
「――え」
「お前の家族は、今も《終環》の施設のどこかで生きている。お前を守るために、抵抗せず捕らわれることを選んだ」
「……あんたは、何でそんなに他人事みたいに話せるの。まるで、知り尽くしてるみたいに」
フィアの震える声に、ゾウディアはほんの一瞬だけ視線を落とした。だが、それだけだった。
「――さあ、な」
抑揚のない声のまま、それ以上は何も語らなかった。ただ、他人事のはずのその一言に、微かな翳りが差したのを、ゼロは見逃さなかった。
言い終えると同時に、ゾウディアの足元の石畳がふわりと浮き上がった。
「――逃がさない!」
リゼルが踏み込むが、届く寸前で、ゾウディアの姿ごと周囲の重力が渦を巻くように歪み、まるで景色そのものが呑み込まれるように、その場から消え去った。
「――あんの女、最後まで食えない……!」
フィアが悔しそうに拳を握る。ゼロも、手にした氷の刃を静かに下ろした。
「逃げられましたね」
「ええ。でも――」
リゼルが視線を上げ、消えたはずのゾウディアの姿があった辺りを見つめた。
「あの反応、絶対にただ逃げただけじゃない。何か、迷いがあった顔だったわ」
その言葉の意味を、その時はまだ誰も、はっきりとは掴めずにいた。
フィアはしばらく、その場から動けなかった。震える指先で、ゾウディアが消えた場所を掬おうとして、うまく掴めずに何度も取り落とした。声をかけようとした喉が、ひゅっと鳴っただけで、言葉にならなかった。
「……フィア」
「大丈夫。大丈夫だから」
震える声で繰り返しながら、フィアはゼロの袖を強く握りしめた。いつもの軽口も、冗談も出てこないまま、しばらくの間、三人は言葉もなく、傾きかけた西日の中に立ち尽くしていた。
翌日、救助した住民たちから、涙ながらの礼を言われた。中には、崩れた家を前に呆然と立ち尽くす老人もいて、ゼロたちはしばらく町の復旧を手伝ってから旅を再開することにした。
「あんたたちがいなかったら、もっと死人が出てた」
町長がそう言って深々と頭を下げるのに、フィアはいつものように軽口で返すことができず、ただぎこちなく笑うだけだった。
町を出て最初の野営で、フィアがようやく口を開いた。
「……家族、生きてるんだ」
「ああ」
「どこにいるかも分からない。助けに行く方法も分からない。それでも、生きてるって分かっただけで……なんか、変な感じ」
「嬉しい、じゃないのか」
「嬉しいよ。嬉しいに決まってる。でも、同じくらい、怖い。もし今度こそ本当に会えなかったらって考えると」
リゼルが静かに、フィアの背をさすった。
「怖くて当然よ。何も感じない方がおかしいわ」
「……ありがと。二人がいてくれて良かった」
フィアは洟をすすりながら、ようやくいつもの調子を取り戻し始めた。
「――さ、次はどこ行くの? 湿っぽいのは、もう終わり」
「手記の地名まで、まだ遠いわ。でもヴェイルに近づけば、フィアの家族の手がかりも掴めるかもしれない」
「……うん。行こう」
「守りたいものが、また増えましたね」
ゼロが静かにそう呟くと、リゼルが小さく頷いた。三人はそれぞれの荷物を担ぎ直し、また次の街道へと足を進めた。




