毒の幹部ネスラ
噂の真偽を確かめようと、三人は進路を変え、ヴァンダールとの国境沿いへ向かった。リゼルは道中、ほとんど口を開かなかった。彼女の故郷が滅びた原因は、今も分からないままだ。「病」という言葉に、思うところがないはずがなかった。
数日後、噂に聞いた小さな村にたどり着いた。村の入り口には人影がなく、戸を固く閉ざした家ばかりが並んでいる。ただ、修道院の前にだけ人だかりができていて、中から、か細い声が漏れ聞こえていた。
「……助けて」
倒れていたのは、まだ幼い子供だった。肌は土気色で、血管が薄紫に浮き上がっている。
「最近、こういう病が急に広がってるんです。原因が分からなくて」
看病する修道女が、疲れ切った声で言った。
「症状は? 詳しく教えてもらえますか」
リゼルの声が、いつになく硬かった。話を聞くうちに、彼女の顔から血の気が引いていく。
「……この症状。故郷が滅びた時と、同じだわ」
「まさか」
「間違いない。最初は原因不明の病、次第に村全体が力を失っていく。ヴァンダールも、こうやって静かに壊れていった」
村の古老が、声を潜めて付け加えた。
「――去年、隣村から来た傭兵が三人、地下水路を調べに行ったきり、誰も戻ってこなかった。それ以来、誰もあそこには近づかない」
リゼルとゼロは顔を見合わせた。修道院の裏手にある地下水路の入り口で、ゼロはかすかな違和感に気づいた。
「……ここだけ、空気が冷たいのに、氷が張らない」
まるで、何かが冷気そのものを拒んでいるかのようだった。水路を辿るにつれ、壁を這う紫色の染みが徐々に濃くなっていく。
リゼルは外套の裾を裂くと、懐から取り出した薬草の粉を振りかけ、二人に差し出した。
「口と鼻を覆って。毒草商人を追う中で手に入れた、解毒の薬草よ。気休め程度にしかならないけど、何もないよりはいい」
「この先に、何かがいる」
三人は顔を見合わせ、頷き合った。子供たちを、これ以上一人も死なせるわけにはいかない。
地下の奥、白い法衣を纏った蒼白い顔の女が、静かに待っていた。ゼロは、その顔を見た瞬間、息を呑んだ。
「――あんた、あの時の」
「客人は久しぶりね。ようこそ、私の庭へ」
女は、あの廃教会で見せたのと同じ、粘つくような笑みを浮かべた。
「あの時は、まだ見定めている最中だったのでね。少しは、育ったかしら」
品定めするように、ネスラの視線がゼロの全身を這った。まるで患者を検分する医者のような、抑揚のない観察の目だった。
「――脈は速いけど、呼吸は乱れていない。悪くない成長ね。まだ治療の余地はありそう」
「――何なんだ、その言い方」
「職業病よ。許して」
「……すぐに殺さないのは、何のつもりだ」
「殺すだけなら、いつでもできる。……でも、診断もせずに薬を打つ医者がどこにいるの? まずは、ちゃんと見極めないと」
「名前くらい、聞かせてもらうぞ」
「あら、名乗っていなかったかしら。……毒の幹部、ネスラよ」
その名を聞いた瞬間、周囲の空気そのものが変質した。石壁を這う紫色の靄が、じわじわと三人を包囲していく。
「毒の幹部、ネスラ……!」
リゼルが警戒の声を上げる。ネスラは嗤いながら、指先をひらりと動かした。
「――そういえば、ヴェレインで妙な噂を聞いた。S級のガイオスとやらを、指一本触れずに仕留めた女がいるとか」
ゼロが探るように口にすると、ネスラは面白がるように目を細めた。
「ああ、あれ。気まぐれに、ちょっと味見しただけよ。……大した歯応えもなかったけれど」
言いながら、ネスラの視線が、ゼロからリゼルへと移った。値踏みするような、粘つく目だった。
「知っているのね。なら話は早いわ――あなたの故国が、なぜ静かに朽ちていったか」
「……何?」
「教えてあげる。あれは病でも、時代の流れでもないの。私が、じっくりと時間をかけて腐らせたのよ」
リゼルの表情が凍りつく。ゼロは反射的に前へ出ようとしたが、足元の地面から噴き出した紫の霧に阻まれた。
「動かないで。そんな布切れで、いつまで防げるかしら。この霧を五分も吸えば、心の臓が止まるわよ」
冷静な声で言いながら、ネスラは指先で虚空に円を描いた。紫の靄が、意志を持ったように形を変え、幾重にも層をなしていく。
「――ああ、誤解しないでほしいのだけど、ただ殺すだけの毒じゃないの。眠らせる毒、正気を溶かす毒、じわじわと後悔だけを煮詰めていく毒……。この一杯に、七種類は仕込んである」
「あなたの父も、母も、弟も――皆、抗う術もないまま、静かに壊れていったわ。哀れなものね。……ふふ、良い味だったわよ」
「――黙れ!!」
リゼルの声が、初めて聞くほど低く、鋭かった。剣を抜き放つと同時に、纏っていた冷静さが剥がれ落ち、故郷の訛りが混じった荒々しい声で叫んだ。
「あんたが、うちの家族を……!」
激情に任せた一撃は、しかしネスラには容易く躱された。毒霧の中で、リゼルの息が乱れ始める。フィアが援護しようと踏み込んだ瞬間、指先を掠めた紫の霧に、小さく顔をしかめた。
「フィア!」
「大丈夫、掠っただけ……!」
そうは言うものの、フィアの足取りは明らかに鈍っていた。真正面から押し込む力押しでは、この毒霧の広さに勝てない。ゼロは唇を噛んだ。
(凍らせるにも、この空間は広すぎる。全部は防ぎきれない)
「――退くぞ! 一旦、通路の狭いところまで!」
三人は水路の細い一角まで後退した。広間で戦えば毒霧に包囲されるが、この幅なら、風の抜け道は一つしかない。
「ここなら、抜け道は俺が塞げます」
湿った布を口元に押し当てたまま、ゼロは狭い通路の壁と天井を凍結させようとして、思わず奥歯を噛んだ。いつもなら意識するだけで這うはずの氷が、まるで沼に足を取られるように重い。それでも力任せに押し通し、どうにか霧の通り道を極限まで狭めた。毒の濃度が薄まった空間で、リゼルとフィアが息を整える。
【新技能を習得しました:氷路封鎖】
(さっきの違和感は、これか。……この女の気配そのものが、氷を拒んでる)
「――あら、面白い」
ネスラが初めて、愉快そうに目を細めた。
「でも、その程度では――」
「――終わらせません」
一人で全てを抱え込まない。レイムでの失敗以来、ゼロの中で強く根付いた戒めだった。フィアが背後から矢継ぎ早に炎の投擲具を投げ込み、怯んだ隙にリゼルが体勢を立て直す。三人の連携が噛み合った瞬間、ネスラの纏う霧が薄れていく。
「――なるほど。追い詰められたようね」
ネスラの声色が、初めて硬くなった。次の瞬間、狭めていたはずの通路の壁際から、これまでとは比べ物にならない濃度の毒霧が、逆流するように噴き出した。
「――!? これは」
「最後くらい、派手にいかせてもらうわよ」
咳き込みながらも、ゼロはとっさに氷の壁を幾重にも展開し、リゼルとフィアを庇った。壁は瞬く間に紫に染まり、罅割れていく。保つのは、あと数秒が限界だった。
「――ここが、勝負所だ!」
ゼロが叫ぶと同時に、リゼルが崩れかけた氷壁の隙間を縫って踏み込んだ。フィアの援護で作られた、たった一瞬の隙。それを逃さず、リゼルの剣がネスラの喉元まで届く。
「――滅多にないことよ。この程度で崩されるなんて」
崩れ落ちる寸前、ネスラは薄く笑いながら呟いた。
「――昔は、これで人を治していたのだけどね」
「……何?」
「ヴァンダール郊外の、名もない村。水路の水を、一滴も分けてもらえない場所で、何十人も看取った。……だから、返しただけよ。あなたたちの城が吸い上げてきたものを」
皮肉の奥に、微かな自嘲が滲んでいた。
「ゾルグ様の悲願が果たされれば、あなたの家族も、全て意味を持つ。無駄死にではなかったと、知りなさい」
「――ふざけないで」
リゼルが、低く吐き捨てた。
「どんな理由があっても、弟や民が、あんたの毒で死んでいい理由にはならない。……同情はしない。絶対に」
ネスラは、わずかに目を細めた。反論はなかった。その姿は、紫の霧と共に崩れ、消えていった。
崩れ落ちるように膝をついたリゼルを、ゼロは支えた。彼女は何も言わず、ただ肩を震わせていた。故国を蝕んでいたものの正体を知った代償は、あまりにも重かった。
「……ありがとう」
長い沈黙の後、リゼルが絞り出すように言った。
「一人だったら、多分、我を忘れてやられていた」
「俺たち、一人じゃないので」
差し出した手を、リゼルは黙って握り返した。
ネスラが倒れると、地下に満ちていた毒霧は、少しずつ薄れていった。村へ戻ると、修道院で苦しんでいた子供たちの顔色も、夜明けまでには、ゆっくりと血の気を取り戻していった。
村人たちは涙ながらに礼を言ったが、リゼルは「まだ終わっていないわ」とだけ答えた。三人は二日ほど村に留まり、水路に残った毒の始末と、病人の看病を手伝った。
その片付けの最中、ネスラの寝所とおぼしき地下の一室から、一冊の手記が見つかった。《終環》の幹部たちの名――重力のゾウディア、幻覚のカイム、炎のイグナート、空間のヴェイル――が、走り書きで並んでいる。中でもヴェイルの名の横にだけ、潜伏先を匂わせる地名が一つ添えられていた。
「……まだ、四人もいるのね」
「一人ずつ、追いましょう」




