8.
エルドリックたちが地上へ戻ったころには、空はすでに夕暮れの色に染まりはじめていた。
迷宮のなかでは、時刻はひどく頼りないものになる。たいまつの燃え方や水袋の減りぐあいなどから、おおよその時間を推しはかることはできても、頭上の空が青いのか赤いのか、それともすっかり黒くなっているのかまでは判然としないのだ。
アラリオンのように懐中時計を持っているような冒険者などほとんどいない。だから、石段を登り切り、ひさしぶりに茜いろの光を浴びたとき、エルドリックは自分が思っていたよりもずっと長いあいだ地下にもぐっていたことに気づいた。
目の奥が痛んだ。からだを冷やす風に、初めて自分がどれだけ汗をかいていたのか悟った。
迷宮の入口では、地上に残っていた者たちがもう宿へ帰る準備を始めていた。荷運びたちは背負っていた木箱を決められた場所へとならべ、使用したたいまつと未使用のものを分けている。また、治療師は薬箱のふたをひらいて残量をたしかめていた。
だれも命令されて動いているわけではない。それぞれが自分の持ち場でやるべきことをやっているだけだった。
冒険者だけでもぐっていた頃なら、地上へ帰りついた瞬間が、その日の終わりだった。武器の血を落とし、酒場へ行って一杯やり、翌朝になってから初めて戦利品を勘定する。それがあたりまえだったのだ。しかし、この一行の場合、地上へ帰還してもまだ仕事は終わりではない。
「ちょっとそこ! 牙と皮はべつの箱だから。血がついたものを薬草の横へ置かないでね。あとで値が落ちるから」
そう権高に命令していたのはあのもと地主の娘のロザリンドだった。彼女は天幕のまえに机をだし、例の帳面をひらいて、朝よりもいくらか乱れている様子の黄金の髪を耳へかけながら、エルドリックたちの名前を呼んでいった。
「ジョヒア。ゼスフィ。エネオラ。クレオルン。エルドリック」
机のうえに、ちいさな布袋が五つならべられた。それぞれ口を絞るひもの色が違っている。
「契約通りよ、ひとり銀貨十枚。数えてちょうだい」
「ほんとうにもらえるのか」
ジョヒアが疑わしそうに袋を持ち上げた。てのひらのなかで軽く振り、音をたしかめる。
「いらないようなら返してもらっても良いのよ」
「とんでもない。ありがたくもらうよ」
エルドリックも袋を受け取り、中身を三回数えた。てのひらのうえの銀貨は冷たく、その厚みも、重さも、あまり覚えがないものだった。まちがいなく十枚ある。五人なら五十枚だ。きのうまでの全財産より多い額を、たった一日だけの仕事で稼いでしまった。
これだけあれば、しばらくは宿代を気にせずに済むだろう。エネオラは触媒を買うことができるし、ジョヒアは剣を研ぎなおせる。薬も、食料も、いままでならひとつずつさいふの底をのぞきながら買うかどうか迷っていたものを、とりあえずは気にせず買うことができる。
「触媒を十個買える」
エルドリックのかたわらでエネオラがつぶやいた。
「いや、ぜんぶ触媒に使う気なのかよ」
ジョヒアが呆れたようすで指摘する。
「だめ?」
「だめだとはいわないが、洋服とか食い物とか宿代とか、いろいろいるだろ」
「わたしは素材がいいからこの服で十分に可愛い」
「ああ、そうかよ。食い物は?」
「美味しくいただく」
「じゃあ、少しは残しておけ」
エルドリックは笑った。
そう、そこまでは純粋に気分の良い話だったのだ。ロザリンドがさらに帳面のページをめくりだすまでは。その紙がこすれる音が、なぜかやけに大きく聞こえた。
「さて、次よ。きょうの収支」
ジョヒアがろこつにイヤそうな表情を作った。
「おれたちはいいだろ。もう報酬をもらったんだから、それでめでたしめでたし、だ」
「この事業はめでたいことばかりじゃないのよ」
ロザリンドは冷たくいい切った。じっさい、エルドリックも彼女の正しさを認めないわけにはいかない。地上へ帰還した一行が持ち帰ったものは、魔物たちの牙や皮、甲殻、途中で採取したいくらかの薬草、それにありふれた鉱石が少々、それですべてだった。
机の横に並べられた木箱をのぞけば、それなりの量には見えた。どれも冒険者としては見慣れた戦利品である。もし五人で山分けするのだとしたら、それなりに悪くない一日だ。
「売値の見込みは、合計でこれだけ」
ロザリンドが数字を読み上げた。ジョヒアはちいさくうなずく。
「悪くないじゃねえか」
「それじゃ、支出ね。荷運び六人、警備ふたり、それに治療師、測量士、五人の冒険者への報酬。さらに加えって馬、荷車、たいまつ、油、食料、工具、薬品」
その綺麗な指がさまざまな項目の上を滑っていった。ひとつを読み上げるたび、ほんの短いあいだだけペン先が止まる。
「いやいやいやいや、待て待て、まだあるのかよ」
「あるわよ」
ロザリンドがただただ淡々と数字を足していくうちに、エルドリックも頭のなかで同じ計算を始めた。桁が繰り上がるたび、胃のあたりが重くなる。途中でやめたくなってしまった。どう数え直しても、持ち帰った品々の価値より、出ていった金のほうがはるかに大きい。
「差し引き」
ロザリンドはいらだたしそうに帳面を指さきで叩いた。
「大赤字」
ゼスフィが吹き出しかけて、途中で止めた。
「どのくらい赤字なの?」
「そうね。あなたたち五人を、もうひと組やとえるくらいかな」
「一日で?」
「一日で」
その場の全員の視線がアラリオンへと向いた。隻脚の男はそこから少し離れた場所で地図をのぞき込んでいた。たそがれの太陽があたる角度に紙を傾け、片手で押さえながら、もう片方の手には測量士の書き込みを持っている。
「おい、聞いてるのか、おっさん。儲かるっていったよな。これのどこが儲かってるんだよ」
「最初の何日かは投資だ」
ジョヒアの言葉に、アラリオンは顔を上げることさえしなかった。
「道を測る。記録を作る。人と荷が安全に通れる範囲を増やす。そのために金を使う」
「で、それがいつ金になる」
「そうね。四十日以内に」
ロザリンドがアラリオンより先に答えた。その場が静まり返った。彼女は帳面を閉じることもしないまま続けた。
「もしこの規模で人を動かし続けた場合、運営資金が尽きるまでだいたい四十日くらいになるわ。土地そのものはもうこの人の名義だけれど、のこった代金は借金だし、運営費が尽きれば人が離れる。荷運びも治療師も測量士もいなくなる」
ゼスフィが眉を寄せた。
「じゃあ、そのあとに何が残るの?」
「世にも貧しいダンジョン・オーナー」
そのとき、アラリオンがようやく地図から顔を上げた。
「四十日もあれば十分、この迷宮が金を生むことを証明できる」
ロザリンドは深々とため息をついた。羽根ペンを机のうえに置き、美しい指さきでこめかみのあたりを押さえる。
「その自信の根拠を、いつかきちんと帳面に書ける形で教えてほしいわ」
エルドリックは自分の銀貨をにぎり締めた。皮袋の生地ごしに、貨幣の角が指さきへ食い込んだ。さきほどまではありがたいとしか思えなかった十枚が、とつぜん、まったくべつの重さを帯びた気がした。これはただの報酬ではなく、アラリオンが負ったリスクのかけらなのだ。
と、そのとき、かれの視界の端でクレオルンが腕をまわした。その袖口の内側に、ほんのわずか、赤黒い染みが見えた。布の裏側からにじみ、表面まで達している。彼女が帰路で負った傷だ。
負傷したなら隠さず報告すること。アラリオンが酒場で並べた条件のひとつが、頭のなかによみがえった。いま報告すればいい。たったひとこと口にすればそれだけで済む。だが、もしそうしたならクレオルンは次の探索から外されるかもしれない。そんな思いが心をよぎった。
神官の少女がかれを見つめていた。長い前髪の向こう側の目が真剣な表情を浮かべている。彼女は汚れた袖口をそっと反対のてのひらで覆った。
「エル?」
「いや、何でもない」
クレオルンはほんの少しだけ困ったように笑った。エルドリックは、結局、何もいえなかった。




