7.
一行があらかじめ指定されていた場所へとたどり着いたのは、それから一刻ほどあとだった。
道中は初めに思っていたよりも静かだった。まったく会話がないわけではない。ただ、これほどの人数が同じ速度で歩いていると、個々の声よりも、荷車の車輪が石を噛む音や、たいまつの脂がはぜる音のほうが大きくなってしまう。それらがさほど高くもない天井にあたって返ってくるので、いつももうひとつのべつの隊列が背後を歩いているように思えた。
そこはこの迷宮の第一層のなかでは、いままで幾たびも冒険者たちによって踏破されてきた既知領域の、ほとんど端にあたる場所だった。天上がほかと比べいくらか高くなっている円形の広間で、正面の壁だけがなかば崩れ、その向こうにさらに奥へと続く細い通路が見えている。
床は例によって長年の往来で踏み固められ、壁ぎわには過去の探索者たちが積み上げてきた石の目印がいくつも残っていた。いずれも古い。付着した苔さえも乾いているようだ。
アラリオンが片手を上げると、隊列はそこで止まった。最前列を歩いていた者の背中が止まり、そのひとつ後ろが止まり、最後尾まで順番に停止する。荷車のきしみの音が消え、初めてその広間の広さが音響によって理解できた。
「きょうは、ここまでだ」
「は?」
アラリオンの言葉に、ジョヒアが反応した。
「ここまでってのは、どういうことだ?」
「言葉の意味通りだ。ここでひき返す」
「ちょっと待てよ」
かれは崩れかけた壁のほうへと歩み寄った。その靴が床の埃を蹴り上げ、たいまつの光のなかでこまかい塵がさながら妖精のように舞う。その壁の先は、あきらかにいままでの通路とは様子が違っていた。
床にいかにも古そうな埃が厚く積もっていて、足跡らしきものもほとんど見あたらない。ひとが通らない場所の埃は積もり方が違っている。角が丸くならず、そのままの形で厚くなるのだ。そして、その道のさらに奥、たいまつの光がどうにかとどくあたりに青白くひかるものが何か見えていた。
「鉱石かな?」
「たぶん」
ゼスフィが目を細め、エネオラも立ち上がった。荷車のふちにあたりまえのように腰かけていた小柄なからだが、めずらしくも自分から前へ出ようとした。
岩肌の裂け目に細い光の筋がいくつも走っている。たいまつのオレンジ色の炎とは色合いが異なっている。もっと冷たく、もっと均一で、こちら側が動いても揺れることがないのだ。
あきらかにただの石ころではなかった。その正体が何なのかははっきりとは断定できないが、売り物になる可能性が高いといっても良さそうに思われた。
ジョヒアの顔つきが真剣さを帯びる。わずかに眉を吊り上げ、剣のつかへと置いた指を一本ずつ握りなおした。エルドリックはかれのその表情に見覚えがあった。ジョヒアがカネの匂いを嗅ぎ取ったときの顔だ。
「なあ、いいだろ? 見ろよ。あそこまでたどり着くだけさ。五分、いや、三分もかからねえ」
「ダメだ」
アラリオンはくり返した。声を張っているわけではない。距離があるからといって大声をもちいもしない。それでも、ふしぎとその声は広間の端までとどいた。ジョヒアがくやしそうに道の奥を指さす。
「目の前だぞ!」
「だからどうした? 決まった時刻だ。おれたちはひき返す」
アラリオンはどこからか真鍮でできた懐中時計を取り出すと、そのふたをひらき、ふたたび閉じた。パチンとちいさな金属音がひびいた。かれが文字盤を眺めていた時間は二秒もなかったかもしれない。それだけで十分だというふうに見えた。
「予定通りだ」
「あのな、予定、予定ってそればっかりいいやがって、わざわざここまで来て、目の前に何があるのかわかったうえで、それでも帰るってのか? いったい何のために危険を冒してまでここにやって来たんだよ」
アラリオンはかれの目を正面からのぞき込んだ。ジョヒアもまた目を逸らさない。ふたりはにらみ合う格好になった。
「おれたちは、きょう、ここまで到達した」
「ああ、そうだ。その通りさ。そして、もう少し進めば金目のものが手に入るかもしれねえ。そうだろ?」
アラリオンはしずかにうなずいた。
「そうだ。しかし、そんなことにたいした意味はない。いいか、我々の目的は到達ではなく制覇なのだ。いいか、おまえたちがきょう、あそこまで行って、そして帰って来られたとして、そのことに何の意味がある?」
「先へ進めるだろ」
「いまだけのことならな」
アラリオンはふたたび崩れた壁の向こうへと視線を向けた。その目つきからは、そこで煌めく青白い光を惜しむような気配がまったく感じとれなかった。値踏みをしている様子さえない。ただ、そこに穴がひらいている事実だけを確認している、それだけのまなざしであった。
「いまならたしかに行けるだろう。だが、いちど行けることと、あしたも行けることは違う。来月も行けることはもっと違う。また、おまえたち五人だけが行けることと、べつの五人でも行けることは、さらにまったく意味が違っている。おれた欲しいのは、おまえたちが一度だけたどり着けたとか着けなかったという話じゃない」
杖の先で床をかるく叩くと、乾いた音がひとつ鳴った。
「ここまでの道を測る。危険な場所を記録する。荷を運べるようにする。傷ついた人間を地上へ戻せるようにする。あしたも、来月も、べつの人間であっても同じ場所まで来られるようにする。くりかえずぞ。おれたちの目標はただ到達するということじゃない」
そしてあくまで静かにいい終えた。
「制覇することなんだ」
しいん、とその場は静まりかえり――ジョヒアを含め、だれひとりすぐには口をひらこうとはしなかった。たいまつの火が一本、風もないのに揺れて、壁に映ったアラリオンの影を長くのばした。
ジョヒアはあいかわらず納得のいかない表情のまま道の奥を眺めていたが、もう反論しようとはしなかった。
エルドリックもそのほうを眺める。その光が何であるのか、気にならないといえば嘘だった。たどり着くまで三分もかからないのは、おそらくほんとうだ。行ってたしかめてみたかった。
しかし、それと同時に、いつもかれが時計を見てもう戻ろうといい出したとき、仲間たちから返ってきた反応を思い出していた。あと少しだ、もう少しだけなんだ、そこまで行ったら戻ろうぜ。だが、その場所へたどり着けばさらにもう少し先が見える。そういうものなのだ。いままで幾たびとなくそんなことをくり返してきた。それも、財布が軽いときほどひんぱんに。
「さあ、帰るぞ」
アラリオンの声としぐさに従って、隊列は動きはじめた。止まったときとまったく逆の順序だ。ジョヒアは最後まで不満そうだった。歩きながら幾たびも肩越しにふり返る。そのたびに壁の奥の青白い光は少しずつちいさくなっていった。
「もったいねえ」
「そんなに気になるなら、また来ればいいじゃん」
「次に来るときまで残っているって保証はねえだろ。鉱石は逃げないが、ほかの冒険者が――」
「ここはアラリオンさんの私有地」
エネオラがぽつりと口を挟んだ。
「だれも入ることはできない」
ジョヒアが釣りあげられたばかりの魚のようにぱくぱくと何度か口を開閉した。
「――そうだった」
ゼスフィが吹き出す。荷運びのひとりも大きな声で笑い出した。まわりの空気が少しだけ和む。
帰路は往路と比べても静かだった。初めは目新しかった隊列も、すでにいくらかなれてしまっている。前を歩く男のバックパックのどこがへこんでいるかとか、荷車の左の車輪だけ少し違う音を立てるとか、妙なことまで覚えてしまっていた。エルドリックは自分の足もとと、前方を歩く仲間たちの背中を交互に眺めながら進んだ。
一行がひとつの広い十字路へ差し掛かったときだった。四方から空気の流れがぶつかり、たいまつの火がいっせいに傾く。最後尾を歩く男が鋭い声を上げた。
「後ろだ!」
全員がいちどきにふり返った。横穴の暗がりから、ケモノに似た何かが三匹まとめて飛び出してきた。その不潔な爪が石を掻く不気味な音のほうが、姿をたしかめるより先にとどいた。
全身を灰いろの体毛に覆われた小型の魔物だ。犬のようにも見え、オオカミのようでもあるが、その口は耳もとまで裂け、また、前肢の爪だけがそのちいさなからだとは不釣り合いなほど長かった。肢で床を蹴るたびにその爪が石にあたり、火花のような白い粉があたりに散る。
後方警備の男が下がれとさけんで槍をかまえた。迷いもためらいもなく一歩前へと進み、最初の一匹をその槍で突き飛ばした。かまわず襲いかかってくる二匹目は盾で受け止めた。魔物の骨が金属とこすれ合う鈍い音が響きわたった。
「ジョヒア!」
「わかってる!」
エルドリックが呼び掛けるのも待たずにジョヒアが駈け戻ってきた。ゼスフィがその横に回り、エネオラが触媒を手に取る。エルドリックも剣を抜き放った。さや奔りのその音が、自分の耳のすぐ内側で鳴ったように思えた。
じっさいには、戦闘はごく短かった。ジョヒアの長剣が一匹を斬り伏せ、ゼスフィの短剣がもう一匹ののどを裂く。残る一匹が横へ逃れ、荷運びの男へ飛びかかろうとしたところを、エルドリックが割って入り、その胴を剣で弾き飛ばした。
刃をつらぬき通した手ごたえではなく、腹で殴りつけた感触でしかない。魔物は壁へ叩きつけられ、しめった音を立ててその場に墜ちた。だが、その一瞬の混乱のさなか、三匹とはべつの影が壁ぎわから飛び出してきた。
「クレオ!」
エルドリックの声がとどいたものかどうか、クレオルンはおそらくは反射的に盾をかまえた。長い前髪の下で目を閉じかけていたように見えたのに、そのからだの動きは的確であった。魔物の爪が盾のふちをすべり、鈍い音を立てる。すぐさま警備の男が槍でその残された魔物を壁へ縫いとめた。
「けがは?」
治療師が薬箱の留め具を外しながら駈け寄ってきた。
「大丈夫です、盾で受け止めました」
その可憐な顔はいくらか青褪めていたが、声色はいつも通りだった。治療師はまだ何かいいたそうにしていたが、かれの周囲ではすでにべつのけが人の確認が始まっていた。荷運びのひとりが転倒しててのひらを擦りむき、警備の男も腕に浅い傷を負っていたのだ。治療師はそちらへ向かった。しばらくして魔物たちの死骸は道の端へまとめられ、隊列はふたたび動きはじめた。
「だから帰る途中がいちばん嫌なんだよ。帰るって決めたあとにまだ戦わなくちゃならないからな」
ジョヒアが剣にまとわりついた血を乾いた布でぬぐいながらぼやく。その布はもう赤黒く汚れ切っていて、その動作はただ血を塗りひろげているだけのようにも見えた。
「魔物には予定はない」
エネオラがつぶやくと、ジョヒアは冷ややかなまなざしでそのちいさな顔を眺め下ろした。
「エネオラ、おまえ、何だかきょうはやけに正論ばっかりだな」
「きょうは触媒が五つある。わたし、最強」
「そうかよ」
いつもの調子だった。思わずエルドリックも釣られて笑い出しそうになってしまう。だが、そのとき、前方を歩いているクレオルンがほんの一瞬だけ腹を押さえるようにしてからだをかがめた。
歩調は乱れていない。いや、乱さないようにしているのだ。すぐに何ごともなかったかのように姿勢を戻した。気のせいなのではないかと思ったが、ランタンの光が揺れたときにわずかに彼女の右手が視界に入った。手袋のふちに何か赤いものが付着していた。もう乾きかけて、黒に近づきはじめている。
血だ。
エルドリックは声をかけようと口をひらきかけた。女神の力を借りる神官も、一般に自分の傷だけは癒やすことができない。もちろん、クレオルンもそうなのっだ。しかし、そのとき、彼女はエルドリックのほうを振り返った。長い前髪の向こうから目が合う。ほんの少しだけ首を横に振った。大丈夫だよ――そういう意味なのだとわかった。
負傷したら、隠さず報告すること。
酒場で耳にしたアラリオンの声が、いまさらに頭のなかによみがえる。木製のテーブルに指を置いて、条件をひとつずつ数えていたときの声音だ。
エルドリックは頭を上げて前方を眺めた。アラリオンは隊列のずっと先を歩いていた。杖と義足のために歩調は独特なのに、遅れることはない。
もし、かれにけがのことを告げればクレオルンは止められるかもしれない。あるいは、あしたの探索から外されるかも。銀貨十枚の報酬が彼女の分だけ消え失せてしまうことだってありえる。そんな考えが脳裡を過ぎった。そして、さんざん迷いはしたが、結局、エルドリックは何もいい出しはしなかった。
隊列はそのまま地上へ向かって歩きつづけていった。




