6.
そとはまだ朝だったが、〈死の地下迷宮〉の内側には朝も夜もない。石の門をくぐって最初の石段を下りてしまえば、地上から射し込む淡いひかりはたちまち背後へと消え去り、その先でたよりになるのはただ魔法とたいまつとランタンの灯かりのみとなった。
しめった石壁には水がにじみ、ところどころ緑いろの苔が繁茂している。長いあいだにわたって幾人もの冒険者たちによって踏み固められてきた床には靴跡がこびりついていて、壁には昔、だれかが目印として刻み込んだ矢印やら数字がいくつも残っていた。
エルドリックたちにとって、それ自体はごく見慣れた光景だ。見慣れないのは、そこを歩いている人間たちのほうである。
「遅い」
前方からジョヒアの不満そうな声が飛んできた。
「いくらなんでも遅すぎるだろう。こんな調子じゃ日が暮れちまうぞ」
「ここには日なんて差していないけれどね」
ゼスフィがすかさす口を挟んだ。ジョヒアはそういう意味じゃない、と律儀に返す。
十五人に及ぶ隊列は、どうしても五人だけで歩いているときのようには進まなかった。
先頭を警備の男がひとり歩き、その後ろに測量士と助手、それからエルドリックたち五人が続く。さらに荷運びたちが木箱や水樽を背負い、治療師が薬箱を抱え、最後尾にはもうひとりの警備がつく。その中ほどを、アラリオンが杖をつきながら歩いている。
義足である以上、健常者と同じ速さで歩けるはずもない。まして、荷を運ぶ人間や測量士まで連れているのだから、隊列全体の速度はどうしてもそれに合わせることになる。ジョヒアは何度も先へ出ようとし、そのたびに先頭の警備に止められていた。
「道はわかっているんだぞ。ここなんて、もう何度通ったと思ってる」
「今日はおれたちだけじゃないんだ。荷物が来なきゃ意味がないだろう」
エルドリックはなだめた。
「荷物なんて自分で持ちゃいいんだよ」
「そういう台詞は、きのうまで自分の背嚢をおれに持たせてた奴がいうなよ」
「こまかいな、おまえ」
ジョヒアがかん高く舌打ちする。だが、かれの背中はいつもよりずっと楽そうだった。それはエルドリックにしても同じことだ。
水も、食料も、予備のたいまつも、薬も、ほとんどを後ろの荷運びたちが持ってくれているから、自分の背嚢に入っているのは武器と最低限の品くらいのもので、肩へ食い込む重さがいつもの半分、いやそれよりもずっと小さい。歩いていく速度そのものは遅くても、からだは奇妙なほど楽だった。
「なんか変な感じだね」
ゼスフィがぐるぐると肩をまわしながら首をかしげた。
「こんなにゆっくり歩いているのに、ぜんぜん疲れないよ」
「荷物がないから」
エネオラが平然と答える。
彼女はめずらしく機嫌が良さそうだった。いつもやら魔法の触媒やら、意味がわからない書きつけやらが詰め込まれた鞄をうんざりした様子で背負っているのだが、いまはそれらの大半を荷運びたちにあずけているからだ。
「いつもこうすれば良かった」
「カネがあればね。あの人たちを雇うのに、いくらかかっていると思う?」
エルドリックが笑うと、エネオラはろこつに目を逸らした。わかってはいるらしい。
と、彼らの前方で測量士が足を止めた。かたわらの壁の角をのぞき込み、手もとの地図をたしかめてから、後方へ向かって手を上げる。
「この先、右側に裂け目あり。足もと注意」
先頭の警備がその言葉を復唱する。
「右側に裂け目! 足もと注意!」
隊列の後方までその同じ言葉が伝わっていく。ジョヒアは面倒そうに鼻を鳴らした。
「そのくらい、見ればわかるだろ」
しかし、その角を曲がると、たしかに床の右半分が大きく陥没していた。暗がりに隠れており、何も知らずに駈け込んでいたなら片足くらいは取られていてもおかしくなさそうな大穴である。そして、さらに少し進んだところで、アラリオンが地図を見ながら足を止めた。
「ここで三人」
「何が?」
ゼスフィが訊ねると、かれは表情を変えることもなく平然と答えた。
「死者だ。記録に残っている」
かれが指さす地図をのぞき込むと、そこにはちいさな黒い印が三つならんでいた。
「四年前に天井から落石があって、ひとりは即死したようだ。そのあと、後背のふたりは動けなくなり、そのあと魔物に襲われて死んだらしい」
そして、さらに先へ進むと、またもしずかに口にした。
「ここでひとり」
「今度は?」
「毒虫だ。壁の割れ目に巣があったという」
「おいおい、あぶねえじゃねえかよ。いまはどうなっているんだ?」
「すでに確認した。空になっている」
そういい捨てて、アラリオンはふたたび歩きはじめた。かれの地図には、そのような印がいくつも描き込まれていた。エルドリックたちも、この迷宮には幾たびとなくもぐっている。危険な場所をまったく知らなかったわけではない。
だが、どこで何人が死んだのか、そのいつ起きて、何が原因だったのかまでたしかめようとしたことはなかった。それはまったく奇妙な感覚だった。
きのうまでなら、そういった危険を発見するのは斥候であるゼスフィの役割だった。食料を数えるのはエルドリック。もしだれかが怪我をしたらクレオルンが癒やす。だれもが自分の見える範囲で何とかしていたのだ。
だが、いまは違う。だれかが以前に調べたものが地図に残っていて、それをべつの人間が読み、さらにべつの人間へと伝えているのだ。いい換えるなら、自分たちが知らないだれかの失敗がいまの自分たちの足もとを守ってくれているといえるかもしれなかった。
「待て、止まれ」
ふいに警備の男が手を上げた。
よく見てみると、かれの前方の通路、その石壁の一部が赤黒く変色していた。そのすぐ下には、一見したところくらいでは気づかないくらい細かい亀裂が幾筋も走っている。
「火喰らい虫の巣だな」
「虫?」
エネオラが顔を上げた、その瞬間、亀裂の奥から耳ざわりな羽音が聴こえてきた。一匹、二匹――いや、とっさに数え切れないほどの、てのひらほどの大きさがある甲虫が次々とそこから這い出し、たいまつの光にひき寄せられるように跳び上がったのだ。
「エネオラ!」
「わかっている」
彼女はどうにも眠たげだった表情を一瞬でひき締め、腰の小袋から魔法触媒を取り出した。指さきでそのうちのひとつをもちい、短く、ふしぎな韻律を帯びた呪文を唱える。
大気がふるえた。次のせつな、青白い火花が通路を走っていき、とびかかってきた虫たちをまとめて壁に叩きつけていた。
そのからだが焼け焦げる不快な臭いがあたりにひろがり、残された数匹をジョヒアとゼスフィが仕留めた。エネオラは手のなかで砕けた触媒のかけらをぼんやりと見下ろした。そのわきで、ゼスフィがニヤニヤと笑顔を浮かべている。
「何?」
「べっつにい」
「何なの、ゼスフィ?」
「触媒、三つでも何とかなるっていっていたなあって思って」
エネオラは何も答えなかった。ただ、無言のままで触媒の小袋を閉じた。ゼスフィはしばらくのあいだ可笑しそうに笑っていた。
それからしばらくして、通路はふたつに分かれた。一方はどの地図にも載っている本道であり、幾たびもひとが通ってきたため床がなめらかに摩耗していた。もう一方は、おそらくは最近、壁の一部が崩れてできたものと思しい横道である。その道のまえでジョヒアが足を止めた。
「エル、こんな道、前からあったか?」
「さあ」
ゼスフィもその先をのぞき込んだ。奥のほうから、ごくかすかに風が吹きこんでくる気配がある。どうやら、どこかべつの空間につながっているようだ。ジョヒアはちょっと見てくる、とためらいなくそちらへ足を踏み出そうとした。しかし、そこへアラリオンのきびしい声が飛んだ。
「行くな! 決められた経路を歩け」
「いや、ちょっと見えている範囲をたしかめるだけだよ。十歩も行きはしないさ」
「行くな、といっている。約束しただろう。決められた道を行くと」
「行っちゃいけない理由をいえよ。魔物でもいるってのか?」
アラリオンはしずかに首を横に振った。
「知らん。まだ測っていないからな」
それ以上説明しようとはしない。ジョヒアは横道と義足の男の顔を幾たびか見比べた。
「何もいないように見えるが」
「どこかにかくれているかもしれん」
「そんなこといい出したら、どこにも行けねえじゃねえか」
「測ったあとなら行くことができる」
「めんどうだな!」
そういい捨てはしたが、結局、ジョヒアは本道に戻った。
その不満そうな背中を眺めながら、エルドリックは奇妙な感慨に打たれていた。かれも以前、似たようなことをいった憶えがあったのだ。地図にない道だから、きょうはやめておいたほうがいい。帰りの時間が遅くなる。このままだと食糧がどのくらい減るかわからない。
そういった小言の大半はジョヒアたちに笑い飛ばされて終わった。しかし、いまは違う。やめておこう、というそのひと言が、かれひとりの弱気や臆病ではなく、全員が守らなければならない規則としてあつかわれているのだ。
荷物を数えること、時間を見ること、あぶなそうな道を避けること、エルドリックがこれまで雑用に過ぎないと感じていたことすべてが、いまこのときはひとつずつ名前をあたえられ、一隊の決まりとなっていた。
そのことが、なぜか少しだけ嬉しい。
そういうふうに感じている自分に気づいて、かれはだれにも見られないように口もとをひき締めた。




