3.
雨は昨夜のうちに上がっていたが、その坂道の土はまだしめっており、踏みしめるたび靴底へまとわりついてくる。エルドリックは時折その泥に足を取られそうになりながら、たったひとり、〈死の地下迷宮〉をめざす丘を登っていた。
宿を出るとき、仲間たちには行く先を告げることはしなかった。べつだん、かくそうとしているわけではない。ただ、ジョヒアあたりが知れば、どうせ、おれも行くといい出すだろうし、アラリオンの顔を見るなり、昨夜のいい争いの続きを始めるに違いない。それがいくらか億劫だったのだ。
ジョヒアは決して悪い奴ではないが、気が長いほうだとはいいがたいのだった。
坂を登り切ったあたりで、エルドリックは足を止め、呆然と目の前の景色に見いった。彼らが昨日にここを訪れたとき、作業現場はさほど整っていなかった。しかし、それからわずか二日しか経っていないというのに、その光景はさらにまた様変わりしていた。
三つの天幕が横に並び、その周辺には縄が張り渡されて、何本もの杭で土地が細かく区切られている。二台の荷車が置かれ、その傍らにはそこから積み下ろされたと思しい木箱がいくつか、そのふたには白い塗料で数字やら記号やらが書きつけられていた。
また、そこから少し離れたところでは測量士らしい男が三脚に据えた真鍮製の器具をのぞき込み、助手に何か指示を飛ばしていた。さらに、天幕のひとつのなかでは、長い髪をきつく束ねた女が何本もの薬瓶を日の光へ透かしては箱へ戻し、そのたびに手元の板へ印をつけている。
「右へ半尋」
「右へ半尋!」
測量士が器具をのぞきながらいうと、少し離れたところに立つ男が大声で復唱し、杭の位置をずらした。測量士がそれをたしかめて手をかざすと、男が槌で杭を深々と打ち込んでいった。その脇ではまたべつの男たちが荷車から木箱を降ろしている。どういうわけか耳に響くのはまるで市場か軍隊のようなやり取りばかりだった。
しかし、その向こうではやはり、何もかも呑み込むかのような黒々とした迷宮の入口がぱっくりとその口をひらいている。
「おい、ちょっとそこをどいてくれ」
背後から声をかけられて、エルドリックはあわててわきへ寄った。太い丸太を肩にかついだ男がふたり、こちらの顔など見ることもなく横を通り過ぎてゆく。思わず声をかけてしまった。
「それは何に使うんですか」
片方の男が肩越しに答えた。
「さあな、迷宮の奥で使うんだとよ」
「迷宮の、奥で?」
エルドリックは唖然とその背中が去っていくところを眺めた。
何もかもが奇妙だった。ここにいる者たちは、ほとんどだれも冒険者らしくない。剣を帯びているものもいなければ、魔法使いらしい者も見あたらない。癒やしの力を使いこなす神官もいなければ、短剣や弓矢を手にした斥候もおらぬようだ。しかし、それにもかかわらずこの場の全員が、何らかのやりかたで迷宮を相手取っているようなのだった。
測る、運ぶ、数える、杭を打つ、薬を用意する――ひとつひとつを見れば、冒険とはまったく縁遠い仕事ばかりだ。だが、なぜなのかそれらを集めるとある巨大な準備がちゃくちゃくと進んでいるように思えてくるのだった。
〈この迷宮は私有地なり〉。
おとといは丘全体を支配しているようにさえ思われた看板も、いまでは天幕や荷車、それに立ち働く人々のあいだに埋もれてただの一枚の板に過ぎないことがあらわだった。
後ろにひとを付ける。
昨夜、アラリオンはそう口にしていた。エルドリックはその言葉を聴いたとき、せいぜい二、三人といった人数が自分たちのあとについてくる光景を思い浮かべていた。だが、どうやら大まちがいであったらしい。この場にいる十数名の人間がみな迷宮に入り込んでくるとしたらの話だが。
「だから、測量士まで必要なのかって聞いているの!」
ひとつの天幕の裏手から女性の声が聞こえてきた。
「馬と荷車と天幕と工具と食料をそろえて、そのうえ、荷運びが六人、治療師がひとり、警備がふたり雇っているのよ。ここでさらに測量士まで連れて行くなんて、きょう一日でいくら出て行くのか、ほんとうにわかっている?」
低く沈毅な声が答えた。
「わかっているとも」
その方向へ向けて道を進んでゆくと、そこにいたのは予想した通りロザリンドとアラリオンであった。ロザリンドはきのうと同じ帳面を豊かな胸のまえに抱え、アラリオンのことを下から睨みつけている。
アラリオンのほうは杖に体重をあずけるようにしてそこにたたずんでいて、木製の義足の先端がしめった土のなかに沈んでいた。ふたりはすぐにエルドリックに気づいたようだった。
「ご、ごめんなさい」
盗み聞きをしてしまったような気がして、かれは反射的に頭を下げた。が、ロザリンドは気にする様子もなかった。
「べつに聞かれて困る話じゃないわ。きのうもいったけれど、この土地はもうこの人のものなのよ。迷宮も、丘陵も、地下の奥底に至るまでぜんぶ。ただし、代金を一括で支払ってくれたわけじゃないの。半分はすでに受け取っているけれど、残りはここから上がる利益から支払ってもらう契約になっているのよ」
エルドリックは息をのんだ。
「じゃあ、もしも迷宮でうまくカネを得ることができなかったら――」
「うちの家も困るし、このひとは迷宮をひとつ抱え込んだまま路頭に迷うことになっちゃうわね」
「そんなことにはならん」
アラリオンが口を挟むと、ロザリンドはうんざりしたように黄金いろの髪を掻きむしった。
「その自信はどこから来るの? わたしには破滅という名のがけに向かって一心不乱に突き進んでいるようにしか見えないけれど」
ロザリンドは深くため息を吐き出すと、まわりで働きまわっている人々へ視線を向けた。
「測量士の日当、治療師の薬代、荷運びたちの食費、ぜんぶ、ぜんぶお金なのよ! べつにアラリオンが何をしようとしているのかについて興味はないけれど、破産されると困るわ。だからわたしが帳簿を見ているのよ」
「ロザリンドさんは、数える人なんですね」
エルドリックの言葉に、ロザリンドはわずかに目を細めた。
「そう、わたしは数える人間よ。この人が全力でがけに飛び込むそのときまでずっと数えているつもり」
それだけいうと、測量士に呼ばれ、帳面を抱えたままそちらのほうへ歩いていってしまった。エルドリックはひとりその場に残され、しばらくのあいだ、何をいえば良いのかわからなかった。もともと、口が巧みなほうではないし、アラリオンも黙ったままだった。天幕の向こう側からは、荷を数える声や槌を打つ音が絶え間なく聞こえてくる。
「あの、ひとつ伺って良いですか」
「何だ?」
「いったい、何をなさるつもりなんですか。この迷宮で?」
それは、昨夜からずっと気にかかっていたことだった。目のまえのこの男は迷宮をひとつ買い取ったという。それだけでも途方もない話だというのに、さらにこれだけの人数と物資を集めている。
迷宮の宝物を探すだけなら自分たちのような冒険者を何組か雇えばそれで済むことだろうし、鉱石を掘るだけなら初めから坑夫を連れてくればいいだけだ。それでは、この男はここで何を成し遂げようとしているのか。
アラリオンは直接には答えず、そのかわり、まったく関係のないことを問い返してきた。
「おまえは、あの一行のなかで何をやっているんだ?」
思わぬ質問に、エルドリックは少し考え込んだ。剣を使うことはできる。だが、剣術の腕前ならジョヒアのほうが上だろう。魔法に関してはエネオラの領分で、ワナやカギに関してはゼスフィが専門だ。クレオルンは神官として女神の力を借りて仲間の傷を癒やせるし、いざとなれば盾を手に前に出ることもある。それでは、自分は何をしているのか。
「そうですね。荷物を数えたりしています」
そう答えた声は、ごくちいさかった。
「食料があと何日分あるかとか、たいまつが何本のこっているのかとか。そうでなければ水が足りるかとか、帰り道の分まで考えるとどこまで進むことができるのかとか。それから、時間を見てそろそろ戻ったほうがいいんじゃないかっていったりする役目です」
「戻る?」
アラリオンの無表情な目に、わずかに興味がひらめいたように見えた。エルドリックはうなずいた。
「たいてい、ジョヒアにはまだ早いっていわれるんですけれど。それから、宿代の勘定をするのもだいたいおれです。だれが何を買ったとか、それが銅貨何枚になったとか、まあ、迷宮で戦っているとき以外の細かいことをやっているだけです。そう、ようするに雑用係ですよ」
そう言葉にすると、あまりにもなさけないことのように思われた。だが――アラリオンはかれのことを笑いはしなかった。それどころか、エルドリックの言葉をかみ締めるようにしてしばらく黙り込んでからようやく迷宮のほうへ視線を戻した。
「何をするつもりなのかと訊いたな」
「はい」
「おれは、ただたしかめたいだけだ」
「何を?」
アラリオンは答えず、ただ、崩れかけた門の向こう側に広がる底知れないくらやみをじっと見つめた。そのすぐ手前を、先ほどの男たちが丸太をかついだまま横切っていく。かれはゆっくりと首を横に振った。
「何でもない。忘れろ」




