11.
「撤退するべきよ」
ロザリンドが告げた。その声はあくまで冷静だったが、羽根ペンを握る指はわずかに震えていた。
「この一日だけで、予定の何倍もの油が消えたのよ。薬も触媒も減っている。このまま続けたら、地上に戻っても次を出せなくなる」
「あと一日あればB区画もふせげるさ」
ジョヒアが反論する。しかし、ロザリンドは黙らなかった。
「じゃあ、その次は?」
「その次?」
「Aを塞いだらBから出た。Bを塞いだら、次はCかもしれない。Dかもしれない。いくつ塞ぐつもり?」
「やってみなきゃわからねえだろ」
「そのやってみることにいくらかかると思ってるの!」
「金、金って、あんたなあ――」
「わたしは金額を見るためにここにいるのよ!」
天幕のなかにロザリンドの怒鳴り声が響きわたった。布の生地が薄いので、外の作業員たちにも聞こえている。だれもそのなかに入ってこようとはしない。
アラリオンは黙ったまま地図を眺めていた。杖を膝へ立て、片手を顎に当てたまま動かない。それがエルドリックには不安だった。この男が答えを持っていない場面を、はじめて見た気がした。
自分の帳面へ目を落とす。何かが引っかかっていた。
B区画の魔物が増え、B区画の水位も上がった。岩のなかを走る水音の位置も変わった。それから油の消費量も増えた。いずれも、べつの場所から来た報告だ。持ってきた人物も異なっている。
だが――エルドリックはページを戻した。指先で行を追う。A区画の封鎖が完了した時刻。B区画で魔物が増えた時刻。水位が上がった時刻。油の消費が跳ねた時刻。近い。ほとんど重なっているといっていい。
「あの」
その声は小さく、だれも聞かなかった。ロザリンドとジョヒアはまだ睨み合っている。
「あの!」
今度はもう少し強くいってみた。その場にいる全員がかれのほうを見た。年長者ばかりの目がいっせいに向けられたため、急に自信がなくなる。喉が渇いた。
「これ、全部、同じことなんじゃないですか」
「どういう意味だ」
アラリオンが訊く。
「A区画をふさいだ時刻です。そのあと、B区画の魔物が増えて水位も上がっている。岩の中の音が変わったのもその直後です」
「それで?」
「もしかしたらですけれど――A区画とB区画は地下でつながってるんじゃないでしょうか」
一同は静まりかえった。
ジョヒアが地図を眺め下ろす。指さきでふたつの点の距離を測ってみせた。
「こんなに離れているんだぞ」
「地図の上ではね。でも、岩のなかはわからないよ」
エルドリックは帳面を開いた。時刻の並んだ頁を、机の中央へ滑らせる。
「A区画から出ていたものを止めたから、その行き場がなくなって、B区画へ流れた。それでB区画側の水位が上がって、結果として魔物も増えたんじゃないですか」
アラリオンはほんの少しだけ目を細めた。帳面の行を上から下まで、二度続けて読む。
「根拠は?」
「時刻です。ほぼ同時に起こっていっる」
「それだけか」
「――はい」
「なら、まだ仮説に過ぎない」
胸が少し沈んだ。かれに差し出した帳面が、急に子供の落書きのようなものに見えてきた。だが、アラリオンはすぐに測量士を呼び寄せた。
「A区画とB区画を同時に測量しろ」
「いまから?」
「いまからだ」
「もう真夜中ですよ」
「だから?」
測量士が苦い顔をしながらも立ち上がる。腰を伸ばし、上着を掴む。そのかたわらのリズノラも自分の道具を抱えた。すでにまる一日働いたあとだった。
「行ってきます」
彼らを待つ時間は長かった。ジョヒアは腕を組み、ロザリンドは帳面を睨み、アラリオンは何度も地図へ視線を落としている。天幕のそとで誰かが荷車を引く音がして、そのたびに全員が顔を上げた。
エルドリックはひたすらに自分の仮説が間違っていたらどうしようと考えていた。夜中に人を二度も歩かせた責任が、自分のところへ戻ってくる。
やがて、泥だらけになった測量士たちが戻ってきた。膝から下が真っ黒で、リズノラの髪には細かい砂が乗っていた。が、その言葉はあかるかった。
「たしかに流れが変わっています」
測量士は机のうえへ紙を広げてみせた。
「A区画側からB区画側へ。岩盤の奥でつながっている可能性が高い」
エルドリックは呼吸を止めた。アラリオンが一度だけうなずく。たったそれだけで、その場の空気が切り替わったようだった。
「封鎖計画は中止する」
「は?」
ジョヒアが声を上げる。
「B区画をふさぐんじゃねえのか」
「ふさがん」
「じゃあ、どうする」
「水を逃がす」
アラリオンは地図の上へ一本の線を引いた。まったく迷いのない線だった。AでもBでもない方向だ。
「ここを掘る」
測量士が身を乗り出した。泥だらけのままで机へ手をついた。
「水路、ですか?」
「そうだ。水の圧が向かう先を、人間が決める」
「この勾配なら――」
測量士は地図のうえに汚れた指を走らせた。だれも咎めようとはしない。
「いけるかもしれません」
「やれ」
アラリオンは、おそらくは何日もかけて作ったであろう計画書を丸めて脇へ置いた。ただそれだけだった。
惜しむ手つきも、たしかめ直す間もない。未練らしい未練はまったく見せない。そのことがエルドリックには印象的だった。これが、大人の男というものか。
「全部署に作戦変更を伝えろ」
その場の人間がいっせいに動き始める。伝令が天幕を飛び出し、そとから次々に声が上がった。
その騒動のなかで、エルドリックだけがしばらく立ち尽くしていた。
自分が答えを見つけたわけではない。前衛が魔物の増加を報告して、測量士が水位を記録した。作業員が音の変化を聞いた。運搬班の数字から、油の減り方が見えた。かれがやったのは、単にそれらを同じ頁へ並べた、それだけのことだ。
しかし――そのすべてを同じページで見ることができたのは、かれただひとりだけだったのだった。




