10.
ふたたびの大規模遠征の日、迷宮の入口あたりは前回のときよりもさらにさわがしかった。荷車の数が増え、石工用の槌や鑿、鉄杭、漆喰、縄に板材までが大量に積み込まれている。
鉄杭を束ねて下ろすたび、地面が鈍く鳴った。剣や槍よりも、工事道具のほうが目立つくらいだ。
「行商隊どころじゃなくなったな」
ジョヒアが皮肉というふうでもなくつぶやく。
アラリオンはかれを無視して、各人に役割を割り当てていった。名前を呼び、持ち場を告げ、返事を待つことなく次へ移る。ジョヒア、ゼスフィ、エネオラは前衛で、クレオルンは中継地点の救護。
そして、エルドリックに渡されたのは一冊の帳面だった。表紙のまだ固い、まだ新しいものだ。
「これは?」
「ここがおまえの持ち場だ。物資の残量、各班の交代時刻、前衛の状況、測量結果、治療所の負傷者。全部署から定時に報告を受けて記録しろ」
「いや、でも、おれも戦えますよ。どうせなら前へ――」
「今回は、おまえがそこで数を数えているほうが人が死なないだろう」
あっさりと断言された。まったく感情がこもっていない声だ。反論しようとしてもとっかかりがない。思わず言葉をうしなった。
「いいじゃねえか。おまえがそこで数えていると、こっちは楽だ」
ジョヒアがからかってくる。少し腹が立った。
こう見えて、エルドリックは日々、休むことなく剣を振っているのだ。仲間たちの前へ出て魔物と戦い、だれも行ったことがない場所へ行く。そのために努力を続けているのだった。
てのひらの豆がつぶれ、そのうえにまた豆ができ、皮が分厚くなっていた。それなのに、渡されたものは帳面と来る。これで満足できるはずがあるだろうか。
それでも、文句をいわずに受け取った。指さきが表紙の角にふれた。まだ一度もめくられていない紙の束は、思ったよりも重かった。
と、ひとつのことに気づいた。荷車に積まれている木箱の順番が違っているのだ。その側面に書かれた記号の並びが、朝、読み上げられた順序と合っていない。
「その箱、第二便じゃありませんか。奥に積むとあとで大変ですよ」
ひとりのうら若い娘がそれを運んでいた。おそらく十七、八、ゼスフィやクレオルンたちと同じくらいの年齢だろう。どうやら測量士の助手であるらしく、細い腰に縄とちいさな器具をぶら下げていた。
彼女はエルドリックを一瞥し、ぎろりと敵意が篭もった目でにらみつけると、すぐ手もとの作業に戻った。
「知っているよ」
それ以上は話さず、自分で箱を積み直す。手つきに一切迷いがなかった。手伝ってやる隙もない。
「リズノラ!」
測量士が呼ぶと、彼女はすぐに走っていった。その腰の器具が、走るたびにちいさく鳴っていた。
「おやおや、嫌われたみたいだね、エル」
ゼスフィが横から顔を出した。
「何でだ?」
「知らないよ。第一印象が悪かったんじゃない」
やがて、出発の号令がかかった。荷車が動き出し、車輪が乾いた土を噛む。エルドリックはいちどだけ剣の柄へ触れ、それからもう片方の手に持った帳面に目をやって、深々とため息を吐き出した。どうやら、きょうはこれがおれの役目らしい。
そして、一行は初日とはまた少し異なるルートをたどってその場所――〈巣〉へとたどり着いた。そこはあたかも何か不気味な生き物の臓腑を思わせる場所であった。
第一層の最奥にある大空間である。たいまつを何本立てても天井までは届かず、光は途中で闇に吸われて終わることとなる。中央には浅い窪地がひろがり、岩盤の裂け目から黒とも紫ともつかない濁液がにじみ出していた。
その場の空気は生ぬるく、腐鉄と、やはり腐った水草を混ぜたような臭気がした。ぬかるんだ泥の表面はところどころ泡立ち、まだ完全な形を得ていない魔物の肢や頭部が、浮かんでは沈んでいた。
「とっても気持ち悪い」
「同感」
ゼスフィの言葉にエネオラがうなずく。彼女は帽子のつばを下げ、鼻から下を襟で覆っていた。
「おまえら、もう少し冒険者らしいこといえねえのかよ」
「ジョヒアがいえば?」
「よーし、燃えてきたぞ!」
「わざとらしいなあ、もう」
彼らがそんな軽口をたたき合っているそのすぐそばで、工事が始まった。たいまつを立て、縄を張る。石工が足場を組み、測量士が岩盤を調べ、運搬人が資材を送り込む。
槌と鑿の音と、縄を締める掛け声が重なる。その外がわで、ジョヒアたちは魔物を斬りつづけた。冒険と工事とが、同じ空間で並行して進んでいるのである。
このふたつは本来、同じ場所でなり立つものではないと、エルドリックはいまのいままでそう考えていた。だが、それはまちがいであったらしい。
かれはいま、〈巣〉の少し後方に設けられた中継地点へ座り、ひたすら数字を書きつづけていた。膝のうえに帳面を置き、腰には携帯用の墨壺を下げている。
「前衛、異常なし。触媒使用、四」
「四」
「鉄杭、八本使用。残り二十二」
「二十二」
「治療所、軽傷一。薬一瓶」
「はい」
次から次へとかれのもとへ報告がやってくる。それらを復唱し、書き取り、次の伝令の言葉を聴く。それだけの仕事だ。
初めのうちは、ただ退屈なだけだった。ただ指さきが汚れていくだけの作業としか思えなかった。目の前ではジョヒアたちが戦っているというのに、自分は帳面をつけている。くだらない。そう思った。
「エル、ひまそうだな。ちゃんと仕事しろよ!」
遠くのほうからジョヒアがさけぶ。エルドリックは無視した。
しかし、仕事を始めてから半日ほど経ったころだっただろうか、しだいに奇妙な感覚が生まれてきた。ここにいると、工事作業のすべてが見えるのだ。
おそらく、ジョヒアは斬り伏せた魔物の数しか知らないだろう。石工は岩盤しか見ていないし、治療師はけが人のことしか考えていない。運搬人は荷の残量しかわからない。しかし、彼らの報告はすべて自分のところへア集まってくる。
「第三班、交代まであと半刻」
「油、二箱追加」
「前衛、左側だけ数が多い」
「測量、裂け目Aの深さ修正」
それらの情報はすべて断片。そのひとつずつを聞いていても、意味らしい意味はない。だが、エルドリックの帳面のなかでそれらの断片は同じページのなかに並ぶことになる。
やがて日が変わり、石工は交代し、運搬人は入れ替わった。地上へ戻る者たちの顔は毎回違っているにもかかわらず、作業だけは切れ目なく続いている。そして、作業が続くこと三日目。ついに最大の滲出口へ最後の石材が打ち込まれた。
「入るぞ!」
石工が叫ぶ。
全員の槌がいちど止まり、それからひとつだけが振り下ろされて、最後の楔が打ち込まれた。濁液の流れが目に見えて細くなっていった。ほんの一滴。そして、さらにもう一滴。それきりだった。
「止まった――?」
「ああ、止まった!」
作業員たちのあいだで大きな歓声が上がった。なかには、工具を放り出して固く抱き合う者までもいる。
「すごーい。ほんとに止まっちゃった」
ゼスフィが目を円くすると、ジョヒアが高々と剣をかかげた。
「見たか、魔物ども!」
「ちょっと待って。どうしてジョヒアが得意そうなのさ」
「工事している連中を守り抜いたのはおれだぞ。ちょっとくらい見栄を切ってもいいだろ」
「いいけれど、だれも見ていないよ」
エルドリックは帳面を閉じ、立ち上がって背伸びをした。信じられないものを見た感動で心がふるえる気がした。じつに何十年、あるいは何百年のあいだ、だれも止めることができなかった〈巣〉が止まったのだ。快挙というべきだと心から思った。
しかし――その日の、夕刻。
「エルドリック!」
ひとりの伝令がかれのところへ走ってきた。息が上がっているうえ、声の調子がそれまでの報告とまったく違っていた。
「B区画の魔物の出現数が増えた! 倍近くだ!」
エルドリックは帳面に記録し、時刻を書き添えた。が、すぐにべつの男が声をかけてくる。
「測量班から連絡だ。B区画側の水位が上がっているぞ!」
「いつからだ?」
「〈巣〉を封鎖したあとからだ」
それもまた記録した。さらにもうひとり作業員がやって来て、エルドリックの帳面をのぞき込んだ。
「岩のなかの音が変だ。水が流れる音がB区画側へと移っている。さっきまではA区画側だったのに」
「どういうことだ――?」
何もわからなかったが、エルドリックはそれも記した。流水の音という語のあとに、それを聞いた場所と時刻をならべる。
さらに夜半になると、油の消費量が予定を超えはじめた。ふたたび帳面を確認する。残量の欄と消費の速度を照らし合わせて計算すると、このままでは四十日どころか、三日と持たないことがわかった。
魔物たちの〈巣〉はふさぎ、計画は成功を遂げた。そのはずだった。だが、そのときを境に、べつの場所で何かが壊れ始めていることはあきらかだった。
しかし――何が?




