武将 古田織部 第61話 賤ヶ岳の戦い ― 美濃大返し
山の陰で息を整えていた重然の周囲に、
敗走してきた兵がひとり、またひとりと集まり始めた。
右近隊の残兵、岩崎山から逃れた者、名も知らぬ雑兵。
皆、泥にまみれ、肩で息をし、
どこへ向かえばよいのか分からぬ顔をしていた。
雨が降り出した。
細かい雨粒が鎧に当たり、冷たさがじわりと染みてくる。
敗走の疲れは抜けず、足はまだ重い。
だが、立ち止まっているわけにもいかない。
戦は終わっていない。
清秀を失っても、砦が落ちても、
戦の流れはどこかで続いている。
そのときだった。
「秀吉様が戻られるぞ!」
雨の向こうから駆けてきた兵が叫んだ。
その声は、敗走兵の沈んだ空気とはまるで異質の熱を帯びていた。
秀吉が、美濃から戻ってくる。
大雨で川が増水する中を、強行軍で突き進んでいるという。
山崎の“中国大返し”を思わせる、あの勢いのままに。
重然の胸の奥で、何かがわずかに動いた。
意志ではない。
身体の奥に残っていた力が、
雨に打たれながらゆっくりと戻ってくるような感覚だった。
再編成
秀吉本隊が近江に入ったのは、雨脚が強まった頃だった。
敗走兵は次々に吸収され、隊列が再び整えられていく。
重然もその中に組み込まれた。
「戦に戻る」のではない。
「戦に戻される」。
そんな感覚が、足の重さとともに身体に残っていた。
槍を握る手はまだ震えている。
清秀の死の重さは消えない。
だが、周囲の兵が前へ進むたびに、
重然の足も自然と前へ出た。
戦の流れが、身体を押し出していく。
賤ヶ岳本戦
賤ヶ岳の方角から、喧噪が近づいてきた。
福島正則の鬨の声が雨を切り裂き、
若武者たちが先陣を切って盛政軍へ突撃していく。
重然はその後方で、泥に足を取られながら前へ進んだ。
胸の奥が熱くなり、呼吸が浅くなる。
敗走のときとは違う熱だ。
戦場全体が、反転し始めている。
盛政軍が押し返される。
前田利家が離脱したという報が走る。
その瞬間、空気が変わった。
敵の動きが鈍り、戦線が揺らぎ、
雨の中で兵たちの声が一気に大きくなる。
「崩れるぞ!」
誰かが叫んだ。
その声に呼応するように、柴田軍が総崩れを始めた。
反転の終わり
盛政が捕らえられたという報が届き、
勝家が北ノ庄へ退いたと知ったとき、
重然はようやく深く息を吐いた。
その息は、敗走のときのような冷たさではなかった。
胸の奥に、熱が残っていた。
戦の流れが、完全に秀吉へ傾いたことを、
身体が先に理解していた。
清秀のいない摂津衆は再編され、
重然はその中で新しい位置に置かれた。
まだ出世ではない。
ただ、
「清秀の穴を埋める者」
として見られ始めていることだけは、
重然自身にも分かった。
戦は続く。
流れは止まらない。
その流れの中で、
重然の立つ場所もまた変わり始めていた。




