武将 古田織部 第60話 賤ヶ岳の戦い ― 敗走
大岩山は、余呉湖の東に張り出した小さな山だった。
山頂を削って主郭とし、
南北の尾根に細長い曲輪を並べただけの、
急ごしらえの砦である。
北国街道を押さえるために築かれた防衛線──賤ヶ岳砦、大岩山砦、岩崎山砦。
その真ん中に位置するこの砦は、
守備兵千ばかりでは到底支えきれぬほど、地形の弱点が多かった。
重然は、東斜面の竪堀にいた。
夜明け前の霧が濃く、湿った空気が鎧にまとわりつく。
足元の土は雨でぬかるみ、踏みしめるたびにぬるりと沈む。
遠く、北国街道の方角から、地面を震わせるような低い音が続いていた。
「……来るぞ」
誰ともなく呟いた声が、霧の中に吸い込まれた。
急襲
最初の衝撃は、竪堀の下から一気に押し上げてきた。
佐久間盛政の兵が、霧を裂くように現れた。
槍の穂先が一斉に光り、土を蹴る音が胸の奥に響く。
重然は槍を構えた。
柄が汗で滑り、握り直すたびに手の皮が擦れた。
竪堀の土が崩れ、敵が次々と這い上がってくる。
押し返すたびに腕が痺れ、息が白く漏れた。
尾根の曲輪が破られたという叫びが、背後から聞こえた。
東斜面だけではない。
砦全体が、同時に押し潰されている。
清秀本陣の崩壊
主郭の方角から、火の匂いが風に乗って届いた。
霧の向こうに、赤い光が揺れている。
「清秀様が……!」
叫びが尾根を伝い、兵たちの動きが一瞬止まった。
その隙を、盛政の兵が突き破る。
重然の横を、味方の兵が転げ落ちるように駆け下りていく。
清秀が討たれた。
その事実だけが、重然の胸に重く沈んだ。
山崎で共に戦ったあの人が、ここで──。
だが、立ち止まれば死ぬ。
戦は、誰の意志とも関係なく流れを変える。
その流れに呑まれた者から消えていく。
敗走
重然は尾根を駆け下りた。
膝が笑い、視界が揺れる。
背後では、砦全体が崩れ落ちる音が続いていた。
右近隊の敗走兵と合流したのは、山の中腹だった。
皆、泥にまみれ、息を荒げ、言葉を失っていた。
誰もが清秀の死を知っていたが、口にする者はいなかった。
さらに山を下り、木立の陰に身を寄せたとき、
重然はようやく槍を地面に突き立て、肩で息をした。
肺が焼けるように痛い。
土に手をつくと、冷たさだけが確かなものとして残った。
戦は終わらない。
砦が落ちても、清秀が死んでも、
戦の流れはまだどこかで続いている。
その流れの中に、自分もまた巻き込まれている。
ただ、それだけが確かだった。




