8.濃霧
「今日は水が黒いなぁ」
透き通った朝の空気を浴びながら、釣り人は湖の水を手ですくう。
日にキラキラと輝きながらこぼれて行くそれは、確かに黒かった。
ただ、水としておかしな色かと問われればそれほどでもなく………
しかし、王都西方に面するミナス湖としては十分におかしな色だった。
まるで湖の中にだけ夜が続いているような………
そんなおかしな感覚に引きずり込まれる………
そして釣り人は糸を垂らすことをやめた。
静かに背を向け、去って行く。
自分は招かれていない。
そんな気分だった。
きっとそうだ。
招かれたのは………そう……
ちょうどあの人なのだろう。
少しあせったような歩みで湖に近づいて行く男
軍人……それもかなり上位の身なりをしている………
彼の切り裂くような視線に捉えられる前にと、釣り人は足を早め、王都に消えてゆく。
「黒きは都の災いか……
或いは神威の再来か……」
「両者だな」
深い黒の中に二つの微かな人影があった。
片方は若いながら決意と風格に満ちた女性の声で……
片方は枯れてゆく前の力強さを宿した男性の声で……
ただどちらも、頭上に輝く陽の光を、その瞳で懇願していた。
たとえ遥か厚い天井がそれを遮っていようとも……
目に写る遠く小さな光を追い求めて……
と、そこへもうひとつの影が降りてくる。
「ようやく来たか……」
二つの影が迎え入れるように互いの間隔を開けると、もうひとつの影はその間に並んだ。
そして静かに視線を下へ落としてゆく。
見下ろす先は足元の更に深く。
黒の中に光を添える大きな街。
王都にも劣らぬ威光がソコにはあった。
「準備が整ったのだな?」
中央に並んだの影が男性の声で問いかけると、彼から見て右側の影が女性の声で答える。
「あぁ…もちろん……
約束どおりグリアスとかいう男も二度と動けないようにしてやったし、お前の娘も戦争の火が届かない所へ導いてやった……。
だが……?
そちらは槍を逃したようだが……?」
「すまない……
こちらも報告は受けたのだが一歩遅かった……
メリエラとかいう女のようだが……盲点だった。」
「そんなことはわかってる。
現に足取りもこっちで捉えたしね……。
槍は今、リアネキードのショボくれた酒場にある…
それもアンタがよく知ってる酒場さ。
偶然か、それとも必然か……。
グリアスの後始末の最中に見つけたらしくてね
だけど……まぁ、状況は良くない。
邪魔が入ったんだ……。
それも相当な魔道師……いや魔法使いかもしれない……。
でも恐らくは教団の手の者と見てよさそうだ。
というのも最近、教団に少しずつおかしな動きが見えてきてね………。
勿論、舞台となったリアネキード周辺も例には漏れてない。
まぁ仕方ないね。
いくらアンタが公表しなくたって風の噂って奴は止めらんないからね。」
「そんなことになっていたとは………
教団の監視はこちらも強化する。
槍は………」
「槍はこっちで引き受けた。
侵攻は槍を手に入れた後、いいな?」
「わかった……所でひとつ聞かせてくれ。
ここに居るもう一人は誰だ?」
中央に並んだ影に対して、今度は左側の影が答える。
「なぁに気にしてもらうまでもないさ将軍様
今はもう、とるに足らないただの老人……
いや、今はまだ…と言うべきかもしれないがね。」
「その声………」
「フフフ…彼もこう言っていることだし、気にするだけ無駄だ。
今や彼も協力者、そしてなによりあの戦争の被害者なんだから。
まぁアンタの飼い慣らしてた男は最初からそのつもりだったらしいけど………。
色々逃がし続けてることには同情するね。
にしても……部下に恵まれなさすぎじゃない?かわいそうに……。
でもまぁ、それもそうか。
所詮偽りの功績にしがみついてるだけだもんね?
しまいには自国のために最後まで戦う気概も無いと来たら………」
「私のことは笑ってくれて構わない………
なにを捨て、なにを守るべきか………
お前のような復讐に囚われた女にはわかるまいからな。
……私はもう行く。」
影がひとつ。
明るみへと登ってゆく様を、残された二つの影は見送る姿勢でそれぞれ言葉を吐いた。
「……つまらない男」
『……変わったな』
やがて残された二つの影も消えると、深い黒は薄まり、一時の小さな騒動だけを後に残して、以来話題に上ることも無くなるのだった。
それがなんらかの兆候ではないかと、気がつくものはいたが、彼らの勘が話題を席巻するには、いかんせん数が少なかった。
王都ペルナドの遥か西、広大な湖を挟んだ先のとある村では、ある占いの女が異変を感じ取っていた。
「魔法街の暴動と接続妨害…………。
そして……黒く染まった湖………。
少し……怖いわね………。」




