(1-24)けっこう使える
純恋は電気を点けて一歩、室内に入った。
続いてもう一歩。
何も置かれていない床を見回し、壁までの距離を目で測る。
「これ、けっこう使えるんじゃない?」
思わずそんな言葉が口をついて出た。
もちろん、本当に使っていい場所なのかは分からない。誰が管理しているのかも、何のために用意された部屋なのかも知らない。それでも、目の前にある空間は純恋にとって魅力的だった。
何しろ、今の劇団には自由に使える場所がない。公共施設では、周囲の利用者に気を遣わなければならない。歌や台詞の練習をするにも、声の大きさには限度がある。貸しスタジオは時間単位で料金が掛かるし、予約した時間が終わればどれほど稽古が途中でも片付けて出ていかなければならない。
その点、ここは地下だ。窓もないし人の出入りもなさそうだ。声が多少響いても地上まで届くことはないだろう。
「ちょっとくらいなら……いいよね?」
誰に尋ねるでもなく純恋はつぶやいた。
そして、バッグから台本を取り出した。
最初は本当に少しだけのつもりだった。次の稽古で確認したい台詞があった。せっかく広い場所を見つけたのだから、立ち位置や動きも確かめてみたい。そう思っただけだった。
純恋は部屋の中央に立ち台本を開いた。
何度も読み込んだ台詞を、最初は小さな声で口にする。
やがて、少しずつ声が大きくなった。
台詞の間合いを確認し、感情を込めて言い直す。今度は台本を閉じ、相手役の台詞まで想像しながら一人で場面を演じてみた。
「……違うな。ここもっと強く言ったほうがいいか」
自分で自分に駄目出しをしてもう一度。
そのうち、ミュージカルのナンバーも試したくなった。
純恋はスマートフォンを取り出し、振り付けの確認用に撮っておいた動画を再生する。音量を上げ、何度か動きをなぞったあとようやくスマートフォンを床に置いた。
歌いながら踊る。
いつもなら周囲を気にして遠慮してしまう動きもここでは思い切って試せる。何度も同じ箇所を繰り返し、失敗すれば立ち止まり、納得できるまでやり直す。
誰も見ていない。
誰にも邪魔されない。
目の前には何もない空間が広がっているだけ。それなのに、純恋にはそこが舞台のように思えた。
やがて、気づけば二時間近くが経っていた。
「……あ、もうこんな時間!」
スマートフォンの画面を見て純恋は慌てて声を上げた。
夢中になりすぎた。
バッグに台本とスマートフォンをしまい服の乱れを軽く整える。最後に部屋の中をもう一度見回した。
何もない部屋。
壁際には三台のロッカー。
来たときと何も変わっていない。
「いやあ、いい場所見つけちゃったなあ」
純恋は満足そうに笑った。
もちろん、ここが誰の管理する部屋なのかどうして鍵が開いていたのかそんなことは分からない。少し気にはなったが、今はそれよりも久しぶりに思い切り稽古ができたことのほうがうれしかった。
「また使えたらいいんだけど」
そうつぶやいて純恋は部屋を出た。
スチールドアを静かに閉めエレベーターへ戻る。
一階に着くと、いつもと変わらないビルのエントランスが待っていた。外へ出れば夕方の街は人通りも多く、車の音や通りを行き交う人々の話し声が聞こえてくる。地下で過ごした二時間が、まるで別の世界の出来事だったように感じられた。
純恋は軽い足取りで駅へ向かった。
次の稽古では、今日練習したところを試してみよう。
そんなことを考えながら。
このときの純恋はまだ知らなかった。
自分が見つけたあの部屋が、やがて自分の人生を大きく変える場所になることを。




