(1-22)大石純恋
大石純恋、二十二歳。フリーター。
東京都内の小さな劇団に所属しながら、実家で家族と暮らしている。
短大時代、友人に誘われて何気なく観に行った舞台。それが、純恋の人生を大きく変えるきっかけになった。
それまで演劇に特別な興味があったわけではない。舞台といえば学校行事で観る退屈なものか、たまにテレビで宣伝している有名な俳優が出演するもの。そんな程度の認識だった。
ところが、その日観た舞台は違った。
目の前で繰り広げられる物語。小さな舞台だったこともあり、間近に役者たちの息遣いや表情がある。そして、舞台上のわずかな空間が、いつの間にか見知らぬ街にも、遠い異国にも、夢の中の世界にも変わっていく。
終演後、客席の明かりがついても純恋はしばらく席を立てなかった。
「……すごかったね」
隣に座っていた友人にそう言われ、純恋は何度もうなずいた。
「うん。すごかった。ねえ、これってどうやったらできるんだろう?」
それが始まりだった。
やがて純恋は、観客として舞台を楽しむだけでは物足りなくなった。自分もあの舞台の上に立ってみたい。誰かの書いた物語の中で別の人間になってみたい。いつしかそう思うようになっていた。
短大を卒業すると、純恋は都内の小さな劇団に入った。
もちろん、それで生活ができるほど甘い世界ではなかった。稽古や公演のない日はアルバイト。収入のほとんどは生活費に消え、舞台に立つために必要な費用も馬鹿にはならない。それでも純恋は、好きなことを続けられるのがうれしかった。
所属する劇団はいわゆる貧乏劇団だった。
決まった稽古場などない。公共施設の会議室を借りたり、比較的安い貸しスタジオを利用したり、その日の予約状況や予算に合わせて場所を転々とする。予約が取れなければ、稽古の予定そのものを変更しなければならないこともあった。
「もうちょっと自由に使える場所があればなあ」
稽古のたびに純恋はそう思っていた。
次の公演は、劇団にとって初めての創作ミュージカルだった。
既存の脚本を上演するのではなく、物語も音楽もすべて自分たちで作り上げる。役者が少ない分、一人ひとりの負担は大きかったが、だからこそやりがいもあった。
純恋にとっても初めて経験することばかりだった。台詞を覚えるだけでは足りない。歌いながら動き、動きながら感情を表現する。振り付けを覚えたと思えば次の稽古では演出の都合で変更になる。
大変ではあったが純恋は充実していた。
そして、その日もまた稽古に励んでいた。
「はい、じゃあ今日はここまでにしようか。次回は二幕の頭からね」
演出家の声が響く。
壁に掛けられた時計を見ると予定より少し早い時間だった。
「お疲れさまでした!」
劇団員たちが口々に挨拶を交わし荷物をまとめ始める。純恋も台本をバッグにしまいながらスマートフォンで時間を確認した。歯医者の予約までまだ余裕がある。
今日は歯をきれいにするための審美歯科でホワイトニングを受ける予定だった。以前から気になっていたのだが、アルバイトのシフトや稽古の都合もありなかなか予約を入れられずにいたのだ。
「じゃあ、お先に失礼します」
劇団員たちに手を振り、純恋は稽古場を後にした。




