第30話
あの騒動から、数日が経っていた。
実のところ、ハルカの健康状態は笑えないくらいヤバかったらしく、俺との決別の日から、ろくに飯を食べてなかったらしい。
よって騒動後、即ぶっ倒れ、即入院。
でも命に別状はないらしく、本当に良かった。
本当に良かったが、鋼の精神ってのが悪い方向に進むとそこまでなるのか。今後気をつけよう。
ということで、俺とハルカのキャハハウフフな高校生活は一旦保留。
まあ、健康第一だしな。存分に休んでくれ。
戻ってきたら存分に甘えちゃうぞ、俺。
……などという能天気なことを考えてた日曜日の午前、インターホンに釣られ、ニッコニコで玄関を開けた俺の目に飛び込んだ景色は、まさに太陽の笑顔すら千年凍結に変貌する、湧いて出た敵性エンカウントだった。
伝説の邪竜、世紀末の大王、虚空の破壊神……なんだっていい。
センスある者よ、この人を表す最適な二つ名があれば、ぜひ教えて欲しい――。
「晴太少年、支度しろ」
――遥日宮源一郎、我が家へ襲来。
「……なんすか、いきなり」
「…………」
奴は俺の言葉と予定をダブル無視で……いや、予定の方は特にないんだけども。
っていうか、どうせそんなことも全部知ってるんだろうなぁと思わせる勢いで、凄まじい圧力で俺を着替えさせ、家の前に止まっていたクソデカ黒光りリムジンに積載し、逮捕監禁を敢行したのである。
「…………」
何が怖いって、この沈黙なんだよ。
このオッサン、マジで何も言わねえ。マジで一度も顔を向けて来ねえ。ずっと足組んだまま、窓の外を見てやがる。エコノミー症候群になっても知らねえぞ。
これ、絶対向こうも気まずいよな。
あーそうさ、そうに決まってる。だって俺は緊張で吐きそうなんだもん。新品同様の本革シートにマーライオンしそうなんだもん。
それが俺だけなんてとは言わせねえよ。
「……あの、どこへ?」
「…………」
だから喋ろよッ!!
目的地を言わずに連れ込むとか、やっぱ逮捕監禁じゃねえか!
その秘密主義で散々揉めに揉めた先日の騒動を忘れたのかよ!
ボケた!? ついにボケたんか!? おおん!?
「…………」
……などと口に出来るはずもなく、俺は肩身を小さくし、せめて海に沈められることがないことを祈るしかなかったのである。
◆
1時間半くらいだろうか。
ほぼほぼ霊柩車化したリムジンで殺意の沈黙に晒され続けて、ようやく、車は止まった。
「降りなさい」
オトンかよ。
いやまあハルカの親父さんではあるんだけど。
親父さんに言われるがまま、俺は車を降りる。
そこは、静かな山の中だった。
木々は切り揃えられ、緑々とした葉が爽やかな匂いを漂わせ、涼しい風が通り抜ければ、木陰は嬉しそうに揺れる。
聞こえるのは、木々のざわつきと、鳥の囀り。
……そして、俺の激しい鼓動。
(え? 埋めるの? 俺、埋められるの?)
そんな心配をよそに、いつものスーツ姿の親父さんは山道を歩き出した。
例のごとく、何も言わずに。
(ついて来い……ってことで、いいんだよな?)
仕方なく、約2mの距離を置いて後ろに続いた。
山道を歩くこと、20分。20分である。
山道を、何の準備もなく、20分。
夏前とは言え、日差しは普通に暑い。
俺も親父さんも汗びっしょりで、親父さんは、上着を脱いでいた。
そんなキツさと気まずさが同居するハイキングの先にたどり着いたのは、なんてことはない、小さな墓だった。
「……ここだ」
そう言った親父さんは墓石の前にしゃがみ込み、手を合わせる。
俺も親父さんの後ろで手を合わし、誰とも知らない墓に祈りを捧げる。
しばらくしたところで、親父さんは手を離し、片手で墓石に触れる。
その表情は後ろからは見えない。
だが何となく、その背中は、穏やかだった。
「……その墓は?」
聞かずにはいられなかった。
そして言葉を溜めた親父さんは、静かに答えた。
「……私の妻、彩也子――鏡花の母親の墓だ」
「…………ッ」
「どうやら君は、何も知らないようなのでな。この際、話しておこうと思った」
そして遥日宮源一郎は、あの日のことを――鏡花が助けられた日、俺の父さんが死んだ日、そして、鏡花のお母さんが亡くなった日のことを、静かに語り始めた。
――その日は、いつもより寒い冬の日だった。
ハルカとハルカの母――彩也子さんを乗せた車が、故障により暴走し、真冬の川に転落した。
運転手は何とか逃げ出したものの、ハルカと彩也子さんは未だ極寒の川の中。
運転手は高齢、とても助けにはいけない。
消防車が来るまでなど、とてもハルカと彩也子さんが持たないことは想像できた。
そこへ飛び込んだのが、たまたまその場に居合わせた、俺の父さんだった。
しかし凍てつく川が3人の自由を奪い、そして父さんは、おそらく、究極の選択を迫られた。
ハルカと彩也子さん、どちらを助けるか――。
そして父さんはハルカを救い出したが、川の中で力尽き、流され、死んだ。
「――……事故の責任を、誰かに問うつもりは毛頭ない。運転手は信頼を置いていた者。車も普段の整備から抜かりはなかった。あれは偶然――そう、不幸な偶然が重なって起きた、悲劇なのだ」
悲劇……親父さんは、そう言葉を片付けていた。
でもそんなに単純なはずはない。でも、そうやって受け入れないと、前にも進めないのだろう。
そして親父さんは、墓に触れる手を、強く握る。
震えるほどに強く、言いようのない何かに、耐えるように。
「しかし……だが、しかしッ! 私は、事故のことを聞いた時……その時に思ってしまったんだよ! “なぜ彩也子を助けなかったのか”と! “なぜ鏡花だったのか”と!」
「――――」
言葉が、全部引っ込んだ。
「なんと愚かな! それは鏡花だけでなく、君の父君の勇気ある行動すらも無下にする、愚劣極まる言葉だ! 私は、最低だった! ――だがそれでも! 今でも! もしも彩也子が生きていればと思う時がある! 確かにあるのだよ! 私にはッ!」
そして彼は、勢いよく立ち上がる。
涙を溢れさせないためか、彼は、天高く見上げていた。
「……だが同時に、鏡花が助かったことへの安堵と喜びも、間違いなく、私の中にあった。そしてそれは、今なお、私の胸に収められている……」
少しだけ、空を見上げた遥日宮源一郎は、ストンと落ちるように、墓に顔を戻した。
「……君は言っていたな。人の心は、一緒くたには出来ない――と。そうだな、その通りだ。だがそれでも、私は、鏡花に申し訳なさを感じる。だからこそ、鏡花が望むことを全て叶えてきた。そしてこれからも、可能な限り叶えていくつもりだ」
そして彼は、俺の方を振り向いた。
その顔は、既に、遥日宮源一郎だった。
「……人は、選択を迫られる時が来る。君の父君のように。君の父君は、一瞬の躊躇すら許されない極限の中、究極とも言える2択を迫られた。そして一人で、孤独の中、心まで凍らせる極寒の中で選択をした。それは、並大抵の覚悟ではない」
「覚悟……」
「私が君に問うた“覚悟”とは、そういうことだ。君がいつか、重大な岐路に立った時――その選択の後、後悔するのは君の勝手だ。だがそこに、鏡花を、決して巻き込むな。もしも鏡花を、私の娘を悲しませた時……その時は、私は君を許さない。一生な……」
その目は、全てを射抜く神眼に見えた。
迂闊な言葉も、軽々しい言葉も許さない――涙の痕が写るその目は、確かにそう言っていた。
「……覚えて、おきます」
俺には、それしか言えなかった。
でもどこか、胸に落ちたものもある。
ハルカは、親父さんとの関係に距離感を感じていたのかもしれない。
あいつは頭がいい奴だ。
そんな奴が、親父さんが抱えるハルカへの罪悪感に気付かないはずがない。
罪悪感の裏側を知っていたかはわからない。
でも、だからハルカは、親父さん関連の話に敏感だったのだろう。
触れて欲しくなかったんだろう。
(なんだよ。やっぱり父娘じゃねえか)
似すぎなんだ、この2人は。似すぎているから、相手を見ると、自分が見えてしまう。だからあまり見たくない。
だからこそ、ちぐはぐなんだろう。
◆
それから親父さんと墓の掃除をし、線香を立て、下山し、車に乗り込んだ。
帰りの車の中でも、相変わらず親父さんは寡黙だった。
……俺は、迷っていた。
胸の中にある言葉を伝えるべきか否か。
それはたぶん、この親父さんが嫌がる、不確かな言葉だと思う。
あくまでも想像で、予想で、願望でしかない。
それを口にしていいものかと、悩んでいた。
「――言いたいことが、あるようだな」
親父さんは唐突に言葉を投げかけてきた。
いつの間にか、彼は俺に視線を送っていた。
「いや、その……」
「いいから、話してみなさい。遠慮は無用だ」
「は、はぁ……」
それならば、と。
「……俺の父さん、優柔不断だったらしいです。今日の夜ご飯を決められなかったり、旅行先を決められなかったりとか、けっこうあったらしくて。だから毎回母さんが全部決めちゃってたって、前に、母さんが言ってました」
「……それで?」
「事故の時、父さんは、鏡花さんかお母さん――彩也子さんのどちらを助けるか迫られた……と、言ってましたね。でも父さんが、そんな状況で、どちらかを選べるはずがないと思うんです。そして結果は、鏡花さんだけが助けられた」
親父さんは、少しだけ不機嫌に眉をひそめた。
「何が、言いたい……」
「俺は彩也子さんを知りません。でも、もしも鏡花さんが彩也子さんに似ているとするなら……その場にいた彩也子さんが、俺の知る鏡花さんだったのなら、そうなるかもっていう仮説です。あくまでも想像で、予想で、願望もあります」
「前置きはいい。本題を言いなさい」
親父さんは足を崩し、体ごと俺を見ていた。言葉を待っていた。
「は、はい。……あの優柔不断な父さんが――優しい父さんが、緊迫した状況で、どちらを助けるかなんて選べるはずがない。どちらかを、諦めるはずがないんです。それは母さんからずっと聞かされていた父さんの姿から、かけ離れているから。……だから車の中で、彩也子さんが父さんに、鏡花さんを助けるよう伝えたんじゃないでしょうか」
「――……な、に?」
「そして父さんは、鏡花さんを助けた。父さんは、鏡花さんを選んだんじゃない。彩也子さんを見捨てたんじゃない。彩也子さんの想いが――鏡花さんを想う気持ちが、父さんに託され、鏡花さんの命を繋いだ……。どうか鏡花を助けて欲しい。鏡花には、生きて欲しい――それが母親としての、彩也子さんの願いだったような気がします。鏡花が助かったのは悲劇だけじゃない。その中に、父さんと彩也子さんが繋いだ奇跡も、あったんじゃないでしょうか」
「――――」
話し終えると、親父さんは目を見開いていた。
「……彩也子……――」
それはとても、とても小さな声だった。
親父さんはそんな声で名前を呟くと同時に、片手で目元を隠すように覆い、顔を背けた。
「……晴太少年。君も疲れただろう。少し、眠るといい」
「いや、俺は……」
「頼む。眠って、くれないか……」
「…………」
この人は、本当に不器用な人だ。
親父さんの声は震えていた。いつもの覇気のある言葉ではなく、途切れ途切れで、辛うじて絞り出したような、そんな、切なる声。
そして目を隠す手、その指の隙間。そこには確かに、内側から漏れ出た雫が、車内の照明を反射して輝いていた。
「……わかりました。少し、眠らせてもらいます」
俺がわざとらしくシートに横になると、車内に、声なき声がこぼれ始めた。
「くっ……う、ぐっ……!」
それは最愛の人を失った夫としての、全てを背負い続けた父としての、何より、遥日宮源一郎という男としての、最後の意地なんだろう。
氷解した情念を必死に堪え、食い縛り、声を押し殺し、ただただ、小さく短い嗚咽をこぼし続ける。
家族にすら見せないその姿を、俺なんかには見られたくはないはずだ。
だから俺は、眠ることにする。
街まで、およそ1時間半――。
体裁を保つには、十分だろうから。




