第23話
ふらつく視界の中、重油のように重い体を引きずって公園にたどり着いた時、公園の時計台の針は、午後8時を回っていた。
さすがにもういないかもしれない。
そもそも、来てすらいないかもしれない。
そんな俺の想像を、ハルカは、残酷にも裏切っていた。
彼女は真っ暗な公園の中、スマホを握りしめ、静かにベンチに座っていた。
(ハルカ……いたのか……)
未だ嬉しさが滲み出ることに、吐き気を覚える。
どこまでも、俺はすがってばかりらしい。
「――晴太さん!」
彼女が俺に気付いた。
そしてすぐさま立ち上がり、駆け出して、俺の目の前に立ち止まった。
「突然呼び出す形になり、すみませんでした」
そう言いながらも、彼女は俺の顔色をうかがっていた。
俺は今、どんな顔をしているんだろう。どんな立ち姿なんだろう。どんな目で、小綺麗な遥日宮鏡花を覗いているんだろうか。
やはりというか、相当酷い顔だったらしい。
ハルカは、心底心配していた。
何度も見てきたからわかる。きっと心の底から、俺の身を按じているのだろう。
――だからこそ、言わずにはいられなかった。
「……晴太さん、何かあったん――」
「罪滅ぼし、だったのか?」
彼女の言葉を遮る。
「え――」
短い悲鳴をこぼした彼女に、卑怯にも、俺は追撃を仕掛けるのだった。
「お前の親父さんから、全部聞いたよ」
(違うんだよな?)
「お前の今までは……最初から、ずっと、俺の父さんへの恩返しで――」
(そんなことないよな?)
「その息子である俺への罪滅ぼし……――」
(きっと違うと、言ってくれるよな?)
「――……そう、だったのか?」
「――――ッ」
ハルカの顔から、生気が抜けた。
否定して欲しかった。
そんなことはない――と。
否定して欲しかった。
そんなつもりで一緒にいたわけじゃない――と。
否定して欲しかった。
そんなのは全部嘘です――と。
俺が欲しかったのは、そんな、絶対にありえない彼女からの逆転の一手だった。
……しかしそんなこと、やっぱり、絶対にありえない一手だったようだ。
「……あ、あの……その……」
ハルカは数歩下がりながら、動揺し、スマホを落とし、狼狽する。
……その反応で、全てを察した。
(……あー、そうだよな。まあ、そうだよな……)
もはや全てが、どうでもよくなってきた。
「……なんだ、やっぱりそういうことか。ははは、そうだよな」
もはや堰き止めてくれるものは、何も残っていなかった。
「ずっとおかしいって、思ってたんだよ。何もない俺なんかに、お前みたいな、何でも持ってる奴が付き合ってくれて……。こんな俺に、色々尽くしてくれるなんてさ……」
もはやハルカの、遥日宮鏡花の顔すら見えない。見たくない。どこかへ逃げて欲しい。
「何も知らないで、全部真に受けて……一人で浮かれて……。何も知らないくせに、尊敬するなんて、大層なことまで口走ってさ……」
痛みは既に消え失せた。
痛みを感じる余裕は、とうに消え失せていた。
「俺、どこまでバカなんだろうな。ホント……バカみたいだな……」
そもそもこいつの人生に、俺の居場所なんて、最初からなかったんだ。
父さんから用意され、遥日宮鏡花が受け取っただけの、仮初の、揺り籠でしかなかったんだ。
もうここには、こんな場所には、用はない。
用済みの公園に、俺。
なんてお誂向きなんだろうか。
ふらふらと、ふらふらと。
覚束ない足取りで、公園の出口を目指した。その出口だけが、やけに鮮明に見えていた。
「せ、晴太さん! 待って――待ってください!」
遥日宮鏡花の足音が聞こえる。
俺は確かに、その音が、死ぬほど怖かった。
「来るなッ!!」
「――――ッ!!」
足音は、ようやく止まった。
(今は……)
「……来ないでくれ」
(何を聞かされるのかが、怖いから……)
「……もう、たくさんだ」
心の言葉が、途切れ途切れに、口から漏れる。
どこまで声で発したのか、どこまでが胸の内のままなのか、まるで覚えていなかった。
「……ごめん、なさい」
微かに、弱々しく、彼女の声が聞こえた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
啜り泣き、許しを請う、彼女の呻きが夜の公園に広がっていく。
(謝るのは、俺の方だろうに……)
出口に向かう足が止まらない。止まろうとしない。止まってはくれない。
俺は、逃げた。
背後で涙を流す人から、一刻も早く、できるだけ遠くに逃げたかった。
(今だけだ……きっと、今だけだ……)
彼女は天才だ。
これから先も研鑽を積み、その才覚をどこまでも発揮し続ける。
……俺が横に、いようがいまいが。
(大丈夫。お前は、凄い奴だから……)
何も変わらない。
これまでが、ただの夢だったんだから。
夢が覚め、朝起きたら、またありきたりな毎日が戻るだけだ。
公園から離れたところ、平凡な道路上。
そこでようやく、思い出したように、心に刺すような痛みが走る。
今更だろう。
何もかも、今更だろう。
「――……あ、れ?」
アホな俺は、いつも気付くのが遅いんだ。
ここでやっと、俺は気付いた。
目から流れ落ちる、温かい、その涙の温度に。
今更ながら、俺は、気付いてしまっていた。
「――クソ。クソッ! あー!! クソォ!!」
八つ当たりを叩きつける。
この空に、街に、世界に。
「俺はッ! どうすればよかったんだよッ! なんでこんな……こんなに……!」
ガキみたいに喚き散らす。
声を枯らして、涙を振り散らして。
その問いに、世界は答えてくれない。
「あああ――ッ!! クソォォーーッ! うああああああーー――ッッ!!」
冷たく、静かに。
星を隠した漆黒の曇り空だけが、口から放たれる醜い慟哭を、全てを受け止めてくれていた。




