第21話
生徒指導の先生達からの事情聴取を終え、事件が収束した頃には、すっかり放課後となっていた。
俺が教室に戻ると、ハルカは、帰っていた。
夕焼けが世界を染め上げ、涼しい風が教室のカーテンを揺らす。机は整然と並び、窓の外からは部活生の掛け声が小さく聞こえていたものの、廊下には、足音一つなかった。
そんな誰もいない教室の、俺の机の上――そこには、その日一日の授業をまとめたノートと、絆創膏が数枚。そしてメモ紙にパソコンで打ったような達筆で「ご迷惑をおかけしました。また明日学校で」と一言。
午前中欠席だったのにどうやって一日の授業をノートにまとめることができるのかは、この際気にしないでおこう。
まだ、ハルカの中では痼があるのだろうか。
その痼の正体を、俺は、何も知らない。
昨日はあんだけ一緒にいたのに、笑顔で話したのが遥か昔に感じてしまう。
いったい何を隠す、ハルカ。
お前ほどの奴が、ここまで話すのが億劫になることなのか。
ともあれ、帰り支度をする。
教室を出て、廊下を歩き、階段を降りて、下駄箱へと向かい、上履きと靴を入れ替える――。
「――あ、あの!」
声をかけられた。
目をやると、そこには天童寺秋良が立っていた。
……いや、たぶん待っていたのだろう。
もちろん、俺が来るのを。
「……よっ。アンタも今帰りか?」
「え? あ、うん、はい……」
彼女は、がっつり戸惑っていた。
ファーストタッチを間違えたかもしれん。この言い方がこういう時のテンプレだと思ってたんだけどなぁ。
こうなるとすんごいダサいなぁ、俺。
「……あの、なんで、庇ったの?」
天童寺は、おそるおそる聞いてきた。
「空閑くんは、遥日宮さんと、その……凄く仲がいいでしょ?」
仲がいいでは済まんだろうに、アレは。
「それなのに、私、遥日宮さんに、とても酷いことを言って……あなたまで殴ってしまって……」
彼女は、目を合わさなかった。
でもその場から離れることなく、怯えながらも聞いてきた。
それだけで、もう十分罰を受けている気がした。
「……さぁ、なんでだろうな。もしかして余計なことだったか?」
「そ、そんなこと……!」
一瞬だけ、彼女は俺の顔を見た。
当然、そこには殴られた痣があるわけで……彼女はこの世の終わりのような顔を浮かべ、やはり、視線を伏せてしまった。
俺も別に、追い込みたいわけじゃない。
ただここで、俺があまりにも何食わぬ顔をすると、彼女は前に進めなくなるのかもしれない。
それは、なんつーか、勿体ない。
「いいパンチだったな」
「……え?」
「日頃の練習の成果ってのを、素人ながらに感じたよ。それをあんなケンカで使うの、すげえ勿体ないって」
「は、はい……ごめんなさい……」
「そもそもさ、天童寺……だっけ? お前、勘違いしてるよ。俺みたいな真の凡人からすれば、スポーツ特待生ってだけで既に凄いんだよ。……いいか? お前は、ちゃんと凄いんだ」
「――――ッ」
天童寺の目から、一筋だけ、涙がこぼれた。
「だから誰かと比べるんじゃなくて、あの拳は、自分のために使った方がいい。じゃないと、お前が一番キツイんじゃないかな。その拳は、あんなことのために鍛えたんじゃないんだろ?」
「……はい、はい。ごめんなさい……ありがとう、ごめんなさい……」
謝罪と謝辞を交互に繰り返し、涙を流す天童寺。
こう言ったらハルカに悪いが、天童寺の心は、確かにハルカにはわかりにくいのかもしれない。
ハルカは言う。
結果が気に入らないのなら勉強すればいい。努力すればいい。正論だ。真っ当で、遠慮も慈悲もない言葉だろう。
……でもそれは、言う程簡単ではない。
結果が出るかもわからない努力を続けるのは、並大抵のことではないのだから。
ハルカは才能を自覚している。
だからこそ、それを担保に努力ができているとも言える。
だが普通の人は違う。自分のどこに、どのような才能があるのかわからない。
そんな確証もないものを頼りに、どれだけ研鑽を積むことができるのだろうか。
……でも、ハルカは違うんだろう。
あいつならきっと、才能のありなしは考えず、ひたむきに努力していくんだと思う。
メイドさんの話にやや反するかもしれないが、才能を確信し、努力を重ね続けることができるのは、それもまた、天才の所業と呼べるものなのかもしれない。
「私、凄く不安で……。もうすぐ最後の試合で、その後、受験があるのに……全然、何もかも上手くいかない気がして……。でも遥日宮さんは、いつも完璧で……それが羨ましくて、気に入らなくて……」
涙ながらに、天童寺は弁明を繰り返す。
「…………」
……おーいぇ。
まさか3年生の先輩でございましたか。
でも今さら口調変えるのも変なので、このままタメ口、使わせてもらいます。サーセン。
しかし天童寺先輩。
あなたは一つ、知らなければならないことがありますよ。
「――……3時間ごとに、5分の休憩」
「……え?」
天童寺は、顔を上げた。
「それを続けて、1日20時間の勉強。自分の時間は、残り4時間だけ。親の仕事を手伝いつつ、ダメ男の面倒を見て、時間があれば参考書、ノート、丸付け。それを早朝から夜中まで、毎日、ずっと……アンタ、できる?」
「え……いや、それは無理じゃ……」
「そう、無理だ。無理なんだよ、普通は。でもそれをやってる奴を、俺は知ってる。当たり前のように、誰かに見られていなくても、ずっとそれを続けている奴をよく知っているんだ。……そしてそいつのことは、アンタも、よく知っているはずだ」
「…………」
天童寺は、目を見開いて立ち尽くしていた。
……もっとも、そのぶっ飛んだ勉強時間は試験期間中の特別モードらしいが、この際、それは伏せておこう。
「あいつは確かに凄いよ。凄すぎて、いつも俺がちっぽけに思えてくる。――でも、尊敬してる。誰かに自慢することなく、愚痴も言い訳もせず、ひたすら自分を磨き続けるあいつを、心から尊敬してる。俺がいつも傍にいたいって思う遥日宮鏡花ってのは、そういう奴なんだよ」
その時、下駄箱の出入口から足音が聞こえた。
瞬時に目を向けると、走って立ち去る、一つの後ろ姿を辛うじて捉えた。
「――ハルカッ!!」
反射的に叫ぶ。
間違えるはずがない。
それは、ハルカの後ろ姿だった。
「ごめん天童寺! 俺、帰るから!」
「えっ!? あ、ちょっと――!」
彼女の制止に見向きもせずに下駄箱を飛び出し、学校を飛び出す。
目の前の道路の先、そこで、この街に全く不釣り合いな黒いリムジンが走り去っていた。
「……って、もしかして、あれを聞かれた?」
うっわ……うっわ! 恥っず!
ちょいと待ってくれよ、ハルカさん。
そりゃ卑怯だよ。なんで聞くかね、そこを。
めちゃくちゃ恥ずかしい。穴なんかなくてもマントルまで掘って身を沈めたい。
「いやぁ、マジかぁ……」
もはや手遅れだろう。
校門の片隅で座り込んだ俺は、頭を抱えて、悶絶するしかできなかったのである。
――その時、俺のスマホに一つの通知が届いた。
それはハルカからのメッセージ。
いつも通り、面白みも熱もなく、淡々と、そこには一言添えられていた。
『今日の午後7時、あの日の丘の上にある公園で、お話ししたいことがあります。』と――。




