第15話
翌朝――。
気持ちを新たに、俺は机へと向かう。
……とは言え、現実ってのはやっぱりスパルタである。
気持ちを変えたところで、アニメや漫画のように突然知能が爆発的に良くなるはずもない。公式は公式以外にはならず、英語は日本語にはならない。
結局のところ、参考書と睨めっこして、頭がねじ曲がるほど悩み、辛うじて解析し、何とか答えを導き出し、採点し、反省し、また次の問題へと向かうしかないのである。
果てしなく地味。
そのくせ、果てしなく苦痛。退屈。面倒。
しかし昨日と少しだけ違うことは、心の真ん中は激しくしなりはするが、ポッキリとはいかなくなったことか。
「――晴太さん、いつもより集中できていますね」
今日も早朝から俺の隣に座るハルカは、そんなことを言ってきた。
「ああ、うん……ハルカのおかげかな」
「……私、ですか?」
ハルカはじーっと俺の顔を見てきよった。
……ヤべ。口に出しちまった。
「いや、その……ハルカの教え方が上手いからーってことで……」
「え? ああ……そういうことですね。ふふふ、ありがとうございます。ちょっとびっくりしました」
何に驚いたんだよ。
「ですが、それも晴太さんの頑張りがあればこそ、です。このまま勉強を続ければ、きっといい結果が出ると思います」
「いい結果……」
確かにこのままハルカに付きっきりで教えて貰えるなら、地獄のような理不尽テストもなんとかなるかもしれん。
……だが、それでいいのか、空閑晴太。
このままハルカにおんぶに抱っこでいいのか。
ハルカは自分の勉強時間を犠牲にして俺を教えている。もしもこれで、前回よりも点数をガクッと落とせばどうなる。
俺と関わったせいで成績が落ちた――無論、そうなるだろう。
「……ハルカ、ちょっと提案が」
「はい? なんですか?」
小さい脳みそで、俺は考えた。
考えた結果が、これだ――。
「――定期考査、俺と勝負しろッッ!!」
「…………え?」
ハルカはぽかーんと口を半開きにしていた。
ついでに壁際に立ってたメイドさんも仕事を忘れてぽかーんとしていた。
「……いやだから、次の定期考査で勝負しようかって話。わかる?」
「わかりますが……その、勝負をする意味はなんですか?」
「…………」
意味なんぞあるわけもなく。
野暮なことを聞くんじゃないよ。
「それは……そう! 俺、目標がある方が燃えるタイプなんだよ! そんでどうせなら、壮大な目標を立てたい! だからハルカと勝負! テストの点数で勝負! どうよ!」
「テストの点数で、勝負……」
そう復唱したものの、ハルカは未だ困惑している模様。
「……そこまで言うのなら、構いませんけど」
「おう! 俺の意地、見せてやる!」
「ふふふ、頑張ってくださいね」
クスクス笑いつつさらりと言い放つとは、圧倒的王者の風格、ハルカ。
だからお前が対戦相手だっつーの。続編アニメの前作ラスボスみたいな立ち位置しやがって。
……まぁいい。本題に入ろう。
「……だからハルカ、すぐに部屋に戻れ。自分の勉強をしろ」
「……え?」
ハルカは、表情を曇らせた。
「で、ですが……」
「この参考書の山を見てみろ。場所に飯まで提供してくれてるんだ。後は自分で出来るよ。これは勝負なんだ。お前も、全力でやって欲しい」
「…………」
しばし考え込むハルカ。
しかし顔を上げた時、彼女の目は、マジだった。
「……わかりました。ここで手を抜くのは、晴太さんに失礼ですね。私も、全力で取り組みます」
「よっしゃ。本番、楽しみにしてろよ」
「はい、そうですね。ふふっ、こうして誰かと競うのは久しぶりなので、私、とても楽しみです」
あくまでも余裕の笑みを浮かべながら、部屋を後にするハルカ。さすが前作ラスボス。
そして俺は、壁際に立つ件のお婆ちゃんメイドさんに聞いてみた。
「……メイドさん、やっぱ無謀ですかね」
「無謀……というのも痴がましい程度には、無謀であるかと」
うむ、予想通り辛辣な現実だったようだ。
「しかし、晴太様が御嬢様のことをお気遣いなさっていることは理解できました。……おそらく、御嬢様も」
本人にモロバレってことね。
なんだか小っ恥ずかしくなってきた。
「ええと……ってことで、メイドさん、わからないことがあったら聞いてもいいですか?」
「それは構いませんが……」
メイドさんは、お上品な足取りで壁際から俺の隣へと移動する。
そしてどこからともなく、真っ黒な指示棒を取り出した。
「……私、御嬢様程優しく教えることができません故、何卒、御容赦を……」
「ヒェ……お、お手柔らかにお願いします……」
メイドさんは目を光らせていた。
……いやまぁ、当然比喩としての表現だが。
その姿は圧倒的サイボーグ。
その眼差しは圧倒的ターミネーター。
結果として、それからテストまでの丸4日間、今までが準備運動だったレベルの地獄を見ることになったのである。
◆
試験日当日の早朝――。
スポーツバッグを持った俺は、痩せこけた頬のまま玄関でハルカを待っていた。
そんな俺に、メイドさんは声をかける。
「この4日間、私なりに出来ることはさせていただきました。後は、晴太様次第でしょう。ご武運をお祈り致しております」
「ア、アイマムッ!!」
無条件に直立となる俺の体。
ハルカの指導では心が折れかけていたが……ヌルい、あの頃の俺は、ヌルかった。
本当の地獄とは、折れたくても折れることすら許されないこと――。
そっからの日々は、思い出しただけでも目がキューッと萎んでしまう。
するとメイドさんは、ポケットから一本のペンを取り出し、差し出してきた。
「晴太様、これを」
受け取ってマジマジと見てみる。
それは年季の入った、茶色の万年筆だった。
「これは?」
「私の私物でございます。もちろん試験には使用できませんが、御守り程度にはなるかと」
「いやいや、貰えませんよ」
メイドさんは、小さく首を横に振る。
「いいえ、晴太様に受け取って欲しいのです。私は使用人として、若かりし頃より遥日宮家に仕えて参りました。それ故に長く――誰よりも長く、御嬢様を見守ってきたと自負しているのです」
メイドさんは振り返り、背後に佇む遥日宮家別邸を見上げた。
「……今の御嬢様は、これまで見たことがないほどに、実に、生きておられます。遥日宮家の嫡次女という役柄ではなく、遥日宮鏡花様という一人の女性として……。それはまさしく、御嬢様ご自身が、自らの“人生”を歩み始められたのだと、心より感じております」
そしてメイドさんは、視線を俺に戻す。
その表情は穏やかで、柔らかいものだった。
「……貴方様と出会ってからの御嬢様は、本当に楽しそうで、嬉しそうに見えるのです。時には怒り、悲しみ、迷い、自らの行いを悔いる時さえあられます。これほどまでに感情豊かな御嬢様をお見かけするのは、私も初めてのこと。……きっと、貴方様のおかげなのでしょう。御嬢様が貴方様と接するお姿を見て、そう、確信致しました」
そのまま彼女は、万年筆を持つ俺の右手に両手を添え、深く、頭を下げた。
「……空閑晴太様、ありがとうございます。私などがこのようなことを口にするのはおこがましく存じますが、どうしても、言わずにはいられません。本当に、ありがとうございます。今後とも何卒、御嬢様をよろしくお願い致します」
「メイドさん……」
自然と、万年筆を持つ手に力が入る。
すると奥から足音が。
その瞬間、メイドさんは手を引き姿勢を正して、いつものメイド立ちに戻る。
なんという早業。まさに神業。
「晴太さん、お待たせしました」
「い、いや大丈夫。俺もさっき来たところだから」
「ふふふ、良かったです。では、行きましょうか」
これからデートかな? ……と錯覚するような会話に続き、俺とハルカは屋敷を後にする。
最後に一度振り返ると、メイドさんは何も言わず、玄関に立っていた。
そんな彼女に手を振る。
別れではない。俺なりの感謝とヤケクソだった。
(メイドさん、ありがとう。最初に宇宙人だなんて思ってすみません。あなたは紛れもなく、地球人でしたよ……)
脳内でそんなことを考えてるとはつゆ知らず、メイドさんは、再び深々と頭を下げるのだった。




