第14話
地獄の勉強デスマーチが始まり、3日目を迎えていた。
その日の夜、午前3時30分。
1日の残りカスみたいな仮眠時間を迎え、ふらつく足で寝室へと向かう。
しかし足元がおぼつかず、目の前が霞んでいた。
人間というものは、どれほど過酷な環境にいようとも順応していく強さがあると、どこかで聞いたことがある。
順応……順応ってなんだ。
その境地はいつ訪れてくれる。
文章が全然頭に入らない。公式も途切れ途切れ。英文なんぞただの模様に見えてしまう。いくら消しゴムを消費しても、シャー芯を犠牲にしても、まるで成果が出てるようには思えない。
眠たくて仕方がない。頭もガンガンする。目の奥も熱くて、瞼が痛い。
脳細胞と心は完全に崩壊を起こしていた。
そして何よりツラいのは、ハルカだった。
相変わらずの笑顔で俺を励ましてくれる。隣にいてくれる。教えてくれる。
それが途方もなく申し訳なくて、途轍もなく恥ずかしい。
そして時折彼女が見せる、少しだけ困ったような鈍い笑み――それを見る度に、少しずつ、ハルカからの信頼が削れていく音が聞こえていた。
もはや冗談も軽口も叩けない。
いっそのこと全てを捨てて逃げてしまおうかとすら思ってしまう。
(……いやでも、ここまでよくやったよ、俺)
しょせん俺なんぞ、こんなもんでしかない。
そもそも才能の基盤が違うんだ。
ハルカのような天才と同列にされるなど、迷惑な話でしかない。
天才と凡人は、決して、わかり合うことはないのだから。
(……寝る前に、トイレ行くか)
ふらふらと、とぼとぼと、亡者の如く屋敷を徘徊していた俺の目が捉えたのは、小さな灯りだった。
それは会議室から少し離れた部屋の窓から見えている。
「あれ? あそこは……」
「――御嬢様の部屋でございます」
「うぉぉおおぃ!!」
突然後ろから声がかかり、ぼんやりしていた脳にガソリンをぶっかけられた。
「失礼致しました。どうやら、驚かせてしまったようですね」
「い、いえ……。こちらこそ、大声出してすみませんでした」
背後に立っていたのは、白髪のお婆ちゃんメイドさんだった。
お婆ちゃん……とは言っても、その立ち姿には気品があり、年齢云々を抜きにしても、どこか威厳のようなものを感じる。
おそらく、熟練の手練れという者だろう。
確かに何度か目撃したことがある人であるが、言葉を交わすのは、意外にもこれが初めてだった。
「ハルカは……鏡花さんは、こんな時間まで起きて何してるんです?」
午前3時半。良い子も悪い子もとっくにイビキをかいてる時間である。
「当然、勉学でございます」
「は? 勉強?」
改めて、光が灯る部屋に目を凝らす。
窓際の机、そこに座るハルカは、ただひたすらにシャーペンだかボールペンを動かしていた。
朝から夜までは俺に付きっきりだったから「さすが余裕だなー」なんて思ってたけど、あいつは今からやるのか。マジかよ。
「……やっぱあいつも、勉強してるんですね」
「無論です。むしろ試験前の御嬢様にとっては、ただの日常の光景でございます。ああして休む暇すら惜しみ、ペンを走らせておられるのです」
そしてメイドさんは、背後から俺の隣に移動し、窓に手を触れ、ハルカの部屋を見つめた。
俺も一緒になって、その小さな灯りを瞳に映す。
「……敵わないっすね。俺なんて、たかだか3日程度で心が折れまくってるのに……。あいつ、色々天才っぽいじゃないですか。だからちょっと意外だったというか、驚いたというか……」
「“天才”……ですか」
メイドさんは、小さく言葉をこぼす。
そして、静かに語り始めた。
「……失礼ながら、私は、天才という言葉を安易に使いたくありません。天から授かった才……それを活かし切る者など、ほとんどいないからです。単に才能だけを持つ者ならば、おそらく数多くいることでしょう。ですが才能とは、脆く、儚く、虚ろなるもの。決して人の根幹にはなり得ないのです。もしもそれが揺らいだ時、地に堕ちぬよう支えとなるのは、日々の研鑽をおいて他にはありません」
「…………ッ」
言葉で牽制された気がした。
小っ恥ずかしくて顔を背けてしまい、心の中で反省を口にする。
しかしどうやら見抜かれていたようだ。
メイドさんは一瞬だけ俺に目をやり、優しく微笑んでくれた。
「継続は力と言われますが、その実、それはとても過酷なものでございます。そしてその過程に、人の本質は浮き出るもの。三流は研鑽を誇り、二流は隠そうとします。しかし一流は、それらを自らの責務として捉え、誇ることも隠すこともせず、黙々と、淡々と積み重ねていくのです」
俺でもわかった。
その言葉が示す存在は、今まさに、俺の視線の先にいるのだと。
「……御嬢様は、まさにそれを体現なさっておられます。己が才能を自負し、しかし驕ることなく真摯に向き合い、ただひたすらに自らを磨き続けておられます。これほどまでに厳しく自戒し、徹して努力し、自らを決して裏切らない御方が他におりますでしょうか」
メイドさんの声には力が宿り始め、背筋は更に伸びる。
「溢れる才能と、弛まざる研鑽の日々……御嬢様ほど、それらを見事に両立している者を私は見たことがございません。ですから、心からの敬意と賛美を込めて、いついかなる時でも、誰であろうとも、即座に、断言致します」
そしてメイドさんは、ハルカの部屋に向けて、深々と頭を下げた。
「遥日宮鏡花様は、“天才”でございます――と」
「――――」
俺は、人類史上最低最悪のアホだ。
こんな俺はハルカの隣にいる資格はない。いちゃいけない気がする。
(……クソッ。なんだって俺が、こんな気分に)
メイドさん、あんた策士だよ。
ふらふらと足を踏み出し、その場から離れる。
メイドさんは聞く。
「……どちらへ?」
「会議室です」
メイドさんは更に聞く。
「もう、休む時間なのでは?」
「そりゃ休みたいですよ。すぐさま寝たいですよ」
眠たくて仕方がないし、頭もガンガンするし、目の奥も熱くて瞼も痛い。
……でも、あんな話を聞いてここで逃げるほど、俺の性根は腐ってなかったらしい。
確かに俺はアホだ。
ハルカの隣にいる資格なんてないのかもしれん。
でも……それでも、アホにはアホの矜持というものがあるんだよ。
俺の心の奥底に居座って唸り声を出すような、どこまでも愚かで、小汚く埃まみれの、ひたすらに泥臭い意地ってもんがあるんだよ。
「でも、もう少しだけ……もう少しだけ、勉強、頑張ってみます。なんて言うか……脳のガソリン、火がついちゃったんで」
その場を立ち去る俺を、メイドさんは引き止めることはなかった。
ただ最後に、背後から声が聞こえた。
「では後ほど、甘いコーヒーをご用意致します。御嬢様の分と、一緒に――」
「ありがとう……ございます」
俺の夜は、まだまだ終わることはなかった。




