暁闇─Maak me wakker─1
*
灯りを落として、優しくない夜へ。
囁き、沈んでいく。
あなたの優しさが影に消えていって。
朝日を待ち願った。
ねぇ。
ハグは暖かいものだったはずなのに。
その熱が今は熱くて、熱い、痛いんだ。
ほら愛に押し潰され死ぬ叫声。
だけど生きてなきゃいけないの。
この夢を抜け出すために、まだ、嗚呼。
生きてなきゃいけないんだ。
(一)
日中の硝子工房は閑散としていて、紙を捲る音さえよく響く。氷を噛み潰すような硝子の咀嚼音も、先程から鳴り渡っていた。
カウンターにて、リーセロットに支払われた紙幣を数え、悪夢狩りの依頼が片付いたことを帳簿に記す。カウンターを挟んで向かい側に立っているリーセロットは、丁寧な手つきで硝子瓶を分解しては食べていた。
「依頼料、確かに頂戴しました」
「ええ。今日はあの子、いないの?」
「アニカですか? 彼女ならこの時間帯は学校です」
訊いておいて、ふうん、と興味なさげな相槌が返ってくる。リーセロットも学生くらいの年齢だろうが、通学はしていなさそうだった。黒い袖を机上に垂らして肘を突き、食事を続ける彼女。
秘色色の硝子片は、森林を映し込んだ湖水を掬い上げたように清澄な艶を見せる。透明な木の葉を咥えた彼女から目を逸らし、退屈しのぎに広げていた新聞を眺める。
文鎮代わりに置いていた硝子ナイフをどかしてページをめくった。数分のあいだ会話は途切れ、崩れる硝子と撓む紙だけが鳴いていた。
「ごちそうさま、美味しい硝子だったわ」
「それは良かったです。傷が入ってしまって、売り物には出来なかったので処分して頂き……助かりました」
言葉尻は噛み殺せなかった欠伸に呑まれる。口元を押さえて俯き、誤魔化したつもりだが察せられたようで、「眠そうね」とリーセロットが呟いていた。
『また夜更かしをしていたんだろう。いつものことだ。早く寝ればいいものを』
視界の端で硝子ナイフが青光りして、両目の睡魔を炙る。眩しいしうるさいな、と思いつつ目頭を摘まんで双眸を細めた。
リーセロットはこちらを覗き込もうとしていたが、第三者の声が響くなり息を引き攣らせて跳び上がっていた。
「びっ、っくりした……そういえば貴方、喋れるのよね。はじめまして、リーセロットよ。貴方のお名前は?」
『名などない。付喪神だ』
「名付けてあげましょうか?」
『要らん』
彼の声は魔力を宿している人間にしか聞こえない。魔力とは、精霊や悪魔など"人ならざるモノ"との契約によって血中に混じるもの。付喪神を心臓の代替品にしているリーセロットも、その身に魔力を巡らせている。
白魚のような指が硝子ナイフを悪戯につつき、なぞる。弄ばれて不快なのか、それとも構ってもらえて嬉しいのか、刀身は唸りと共に青く明滅していた。
新聞紙を捲り、文字列を目で追いかける。政治の話や都市部での事件を流し読みして、この街の殺人事件に目が留まる。『顔の潰れた怪奇事件。新たな被害者か』。またか、と思えど読み込んでしまうのは、俺の恩師もその被害者である可能性が高いから。
不意に違う街の記事に焦点を移す。火事や強盗、銃やナイフによる殺人事件はあれど、異様な事件はこの一件のみ。怪奇事件の被害者に年齢や性別等の共通点はなく、皆この街の住民ということだけが一致している。この街に犯人がいる可能性が高い。
真剣に黙読してから、自嘲が薄く零れた。自分で犯人を捜す気もないのに、日毎事件の進行を追って、犯人逮捕の見出しを望んでしまう。情けなくなって新聞を閉じた。
付喪神と歓談していたリーセロットが、こちらを瞥見した。目が合ったのは瞬刻の間。彼女のオッドアイは硝子ナイフを正視する。
「貴方はメイスとずっと一緒にいるのよね? 弱点とか知らないの?」
「俺の付喪神に妙なことを訊かないでもらえますか?」
『キノコが嫌いだったはずだ。あとは貝や内臓も避けているな。食感が嫌だとか言っていたが』
「付喪神も余計なことを言わないでください……」
人の嫌いな食べ物の話で盛り上がり始めた彼らへ背を向けて、棚から在庫管理表を抜き取った。来客の気配もない為、今日は製造に精を出した方が良さそうだ。作り足すグラスのデザインを脳内で描いていく。色や柄の有無、様々な組み合わせを思い浮かべて、悪くない案を書き留める。
「ねえ、魔法使いは人の夢の中に入れるのよね。それなら、悪夢を狩っている人間ってメイス以外にもいるのかしら」
『どうだろうな。だが他の魔法使いは、夢魔を狩ることは出来ても、夢魔が巣食った記憶を保持することは出来ない可能性が高い。夢魔を狩ると同時に記憶も砕くことになる。記憶を物質化して遺すことが出来る魔法使いは少ないだろうな』
「そう……そもそも夢魔って、どこから湧いて出るのかしら。夢魔に憑かれた人達はたまたま運が悪かっただけ? 私もお父様みたいに、夢魔の見せる悪夢に魘される可能性はあるの?」
『奴の本体は現実世界のどこかにいるのだろう。夢世界は各個体の中にあるもので、それぞれが繋がってはいない。メイスの夢中をどれほど歩いても小娘の夢中には辿り着けない。夢魔は現実から何らかの方法で、人間の体内に、夢の中に入り込んでいる……と考えるのが自然だ』
二人の真剣な話に、俺も想像を止めて耳を傾けていた。とはいえ、夢魔の本体について等は、同様の話を付喪神から聞いたことがある。悪夢を狩り続けても、夢魔は殺せない。またどこかで、夢魔の悪夢に魘される者が現れる。
病のようなものだ。夢魔という病原菌を抹消することが出来ないのだから、悪夢に罹患した人々を治していく他なかった。
静黙に己の靴音が響く。カウンターの奥にあるバックヤードへ向かおうとしたら「っちょっとメイス」と呼ばれて後ろ髪を引っ張られ、首が揺れた。
後頭部で一纏めに結んだ髪は馬の尾のようでさぞ掴みやすかったのだろう。理解は出来ても頭皮への痛みは受容できず、俺は仏頂面を振り向かせた。
「なんですか……」
「どこに行くのよ」
「どこって、工房です。客も来ないのでグラスを作り足そうかと。あんたは適当に店番をしていてください。客が来たら俺を呼んで」
「私は従業員じゃないのよ。鍵を閉めておけばいいでしょう」
柔らかな白鼠の髪が翻る。踵の高いショートブーツを鳴らして硝子戸を閉めにいく華奢な背。人形然とした後ろ姿は扉を上から下まで眺めた後、鍵を見つけると飛びついて突起を捻っていた。
もしアニカが来ても、彼女にはスペアキーを渡してある為、一応問題はない。まあいいかと小息を吐いてバックヤードの暖簾をくぐった。
嗅ぎ慣れた灰と煤の匂いに息を吐く。石造りの工房は整頓されており、製造の為に必要なスペースは確保されている。炉の蓋を開ければ黄金が目を射った。さながら太陽を閉じ込めた窯。炎は外側になるほど色濃く、朱色がるつぼの口を染め上げていた。
表皮を焦がす熱で体温が上がっていく。壁際から吹き竿を手に取ったところで、リーセロットが石床を踏み鳴らした。
「店番も出来ないんですか」
「失礼ね……そのくらい出来るわ。出来るけど……グラス、どうやって作っているのか、見てみたいのよ」
不服そうに唇を歪めながらも、彼女の諸目は爛々と輝いて見えた。視線は炉を凝視しており興味津々。幼子のようにそわそわと何度も炉を窺っている。つい彼女の姿に苦笑をしてから、吹き竿を炉の中へ差し入れた。
棒の先が炎色を浴びて赤ばむ。溶けた硝子を先端に巻きつけて炉から取り出せば、橙の果実が実っている。硝子の果実は水飴のようで球形を保てず、重力に従ってとろけてしまう。だから一滴も零さぬよう、ひたすらに吹き竿を回し続けていればリーセロットが嘆息を漏らした。
「綺麗な色……」
「やってみますか?」
「えっ」
「大丈夫、教えます。そこの棚に手袋があるので、念の為に着けてください」
俺は素手でも問題ないが、不慣れな人間では火傷の恐れもある。リーセロットが手袋を装着したのを横目で確認し、吹き竿を手渡した。勿論、彼女だけには持たせない。長い柄の中間あたりを支えてやりながら、指先で竿を回し続ける。
「吹き竿……この棒は、筒状になっているので、この中にゆっくりと息を吹き込んでください。風船を膨らませるように。棒は俺が支えているので、安心して吹いてみて」
「わ、わかったわ」
彼女が息を吹き入れている間も、竿を回す手を止めない。赤く実っていた果実は膨らんでいくにつれて透き通っていく。ほの赤い膜が広がって、やがて電球を思わせる形になる。「このくらいで大丈夫です」と声を掛ければ、彼女はぱっと口を放した。
「リーセロット、何色が好きですか?」
「色? 何かしら」
俺が吹き竿を持っていることに安心してか、リーセロットの両手が離れていく。悩む仕草で顎に手を添え、眉を顰める彼女。特に希望がなければ適当に選ばせてもらうが、せっかくなら好きな色で作ってやりたい。
黙考している彼女を見遣ると、彼女は真っ直ぐに俺を見ていた。けれど視線は重ならない。俺を見ているようで、見ていないのかもしれない。ただこちらの方向をじっと見つめて、彼女はささめいた。
「深い、紅……」
「赤……分かりました。少しの間、回しながら待っていてください。硝子が溶けて形が崩れてしまうので、回し続けて」
「ええ」
吹き竿を彼女に手渡すと、支え無しの重さに僅かながら動揺していた。慌てた様子でそれに適応しながら竿を回し続けてくれる。俺は棚から赤い色硝子の入った容器を選び取り、平皿に注ぎ出す。
平皿を床に置いたのち、リーセロットから吹き竿を受け取った。一度炉の中に戻して加熱、取り出した竿を回して足元の色硝子へ球体を押し付けた。柔らかな硝子は釣り鐘型に潰れ、色硝子の破片を付着させる。
もう一度炉の中に入れ、色硝子を溶かしていく。光を睨み据えていれば視界が一雫の汗で滲む。熱い息を吐き出してから、取り出した吹き竿に口付けた。
「あ……」
リーセロットが息を飲んだのを聞きながら、しまった、と思った。つい癖で、流れ作業のように息を吹き込んでしまったが、体験させてやると言ったのだから彼女に任せるべきだった。今更だ。
色付いた硝子が膨らみ、華やかな赤が咲く。色硝子が溶けているのを目視してから再び炉の中へ。完成形を想像しながら溶けた硝子を巻きつけ、硝子の量を調整していく。
「あそこのベンチに座ってもらえますか。それで、濡れた新聞紙を右手に持ってください」
「し、新聞紙……これね」
「俺が吹き竿を転がすので、あんたは硝子を新聞紙で包み込むようにして追いかけてください」
硝子工芸で使う木製のベンチには、鉄製の竿台が取り付けられている。緊張した面持ちで腰掛けているリーセロットと、向かい合う。吹き竿を竿台に預け、その上を転がしていく。
手袋を嵌めたリーセロットの手が、恐る恐る新聞紙を持ち上げて硝子を下から支えこんだ。熱が染みていく音、焦げ付く臭い。回転する鉄と鉄の擦過音。そのどれもが集中を高めてくれる。
形が整ってきたところで竿台から竿を持ち上げ、炉の中へ。熱する、息を吹き込む、それを一人で繰り返してから、見学していたリーセロットを一見した。
「すみません、見ているだけではつまらないですよね」
「そんなことないわ。手伝うのも楽しいけれど、熱くて汗をかいてきたから、後は見るだけにさせてちょうだい」
「分かりました」
ベンチに座り直したリーセロットが、片手で顔を煽ぎ始める。よほど暑かったのだろう。そもそもフリルの詰まったボンネットや令嬢めいたワンピース姿の彼女に、この場は似合わない。服が汚れていなければいいが。
思惟しつつも手は止めず。熱した硝子を下に向け、竿を振り子のように振っていく。硝子が遠心力で筒型に伸びたのを確かめたのちベンチの方へ向かう。ベンチと一体化している竿台に竿をのせれば、リーセロットと距離が近付いた。
失念していたが、彼女がそこに座っていると、吹き竿を転がした際に彼女を追い詰める形になってしまう。これではやりにくい。作業を見つめられている、というのも意識したら息が詰まる。集中しろと己に言い聞かせ、鉄板を手に取った。
「その板は何に使うの?」
「あ……コレで、グラスの底になる面を作るんです。こうやって、鉄板に押し付けながら竿を転がして、形を整えます」
「あら、花瓶みたいになってきたわね」
「飲み口がまだ出来ていないからですね」
竿台から竿を持ち上げ、底面の形を観察する。問題はなさそうだ。底面を一瞬だけ冷水に浸け、アイスクラックの柄を入れた。竿を回すたび罅の文様に光が差し込んで煌めく。
それからは黙々と手を動かし続けた。慣れた作業をこなしている間、慣れない視線を浴びて柄にもなく緊張していた。
──やがて出来上がったグラスを冷却器の中へ収めれば、ようやく一息吐ける。額から伝った汗を拭って背後をかえりみると、リーセロットはベンチから立ち上がっていた。完成品を間近で見たかったのだろう、蓋をした冷却器を見つめる彼女が微笑ましくて、俺は目笑していた。
「冷却に一日かかるので、完成品は明日以降取り出します。楽しみにしていてください」
「そう……楽しみね」
こちらの笑みにつられてか、彼女もふわりと花笑んだ。手袋を外した両手が五指を合わせ、控えめな拍手を送ってくるものだから照れくさくなる。彼女も気恥ずかしくなったのか、音のない拍手を止め、両手を背中に隠して顔を逸らしていた。
「見ていて楽しかったわ。それに、息を吹き込むのも、楽しかった」
「それなら、良かったです」
横顔だけでも彼女の朗色が分かり、頬が緩んでいく。俺は吹き竿を持ち上げて何の気なしに眺めた。
四年前、前店主に拾われて、初めて吹き竿に触れた日を思い出す。雇ってもらってから道具に触れさせて貰うまでの期間は長かった。初めの頃はぶっきらぼうな彼に代わって、接客や営業を主に任されていた。本当は俺に硝子工芸を教える気なんてなかったかもしれない。けれど、無意識のうちに暗い顔をしていた俺を、彼は見兼ねたのだろう。
乱雑に俺の頭を撫でた武骨な手。大きくて、皮膚の硬い職人の手だった。それを想起して片笑み、意味もなく吹き竿を回していた。
「息を吹き込む工程が、俺は一番好きです。前の店主が言っていました。『溜息を零すくらいなら、硝子に息を吹き込め』と。そうすれば一呼吸が無駄にならず、作品になる。硝子製品は、俺達の呼吸に形をくれる。だから……始めたばかりの頃は『息をするのが楽しい』と、生きていて初めて実感したような気がします」
拾われてすぐの俺は、息を殺すのが癖になっていた時期だった。どうしてかは分からない。余計な音を発してはいけないのだと、己に言い聞かせていた。気を抜くと息を止めて、声を潰して、ハッとしてから深く溜息を吐く。規則的な呼吸が分からなくなりそうだった俺を、硝子は息衝かせてくれた。
明朗に語ったつもりだが、室内は寂と静まり返っていた。言葉選びを間違えたかもしれない。自罰のように唇を噛み切っていたら、リーセロットの穏やかな音吐が深閑に広がった。
「そうね。呼吸って、意識せずにしているものだから、楽しいとかそういうの、考えたことがなかったわ。でもなんだか素敵。息を吹き込むことで、硝子に命を与えているみたい」
血の味を飲み下して頷いた。命の欠片を吹き込む、それが吹き硝子の魅力の一つだ。俺が恩師から教わったことが、リーセロットにも伝わっている。彼女の言葉に、自然と嬉笑していた。
「はい。俺もそう思って、出来上がった作品たちには愛着を抱いています」
「……この前は、ごめんなさい。何も知らずに、グラスを食べてしまって。今度はちゃんと許可をとるわ」
「ああ、あれはまあ、気に入ってはいましたが俺の作品ではないので。それに、硝子はいつか割れて捨てられるものですし、あんたに食べてもらえてよかったかもしれませんね」
申し訳なさそうに頭を下げた彼女が、恐る恐る顔を上げる。花顔に初対面時の毒気はなく、叱られるのを覚悟している子供の表情だった。俺は屈んで目線の高さを合わせ、大丈夫だと伝えたくて相好を崩した。
「これからも、傷などが原因で処分する商品は食べても構いません。我儘なあんたの口に合うかはわかりませんが」
「わがっ……そうね、お父様の愛情を粗末にしてるムカつく男、と思って初対面から冷たくしすぎたかもしれないわね、感じが悪くて悪かったわね。というか私の気のせいでなければ、今日の貴方、私に対して口調が雑になっていないかしら。棘を感じるのだけれど」
「今のあんたは別に俺の客じゃないんで、お客様対応をやめただけですよ。お気になさらず」
彼女の不安げだった顔は一気に気色ばみ、見慣れた渋面を形作る。睨視を苦笑で受け止めていたら店の方から騒がしい声が聞こえてきた。スペアキーを持っているアニカが来たのだろうが、アニカ一人で騒いでいるわけもない。
暖簾をくぐってカウンターに顔を出すと、まず先に背の高い男が目に付く。彼の隣ではアニカが溌剌とこちらに腕を振っていた。




