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悪夢狩りの硝子工  作者: 藍染三月
第一章
6/7

誰そ彼─Wie is dat?─5

 硝子の硬質を掌理で確かめる。執刀した感触で、迷情を忘れていく。リーセロットは暗幕に背を付けたまま、固唾をのんでいた。


 少女はネグリジェのフリルを揺らして立ち上がった。ベッドの上で裸足を滑らせ、芝居ががったカーテシーを披露する彼女。夕焼けをも欺く赤髪は燃えるように眩しい。くつくつと、細い喉が笑声を溢れさせていた。


『っふふふ……また私を殺しに来たんですか? 悪夢狩り』


 性別の判別できぬアルト声が冷たく転がる。少女──否、夢魔は、首をもたげて心底愉しげに哂っていた。


 また、と奴は言った。前回の依頼者の夢世界でも、その前の夢世界でも、姿形こそ違えど中身は同一の夢魔なのだ。こいつは何度も俺に殺される感覚を味わって、それでも狂人さながらに譏笑(きしょう)し続けている。


『夢の中とはいえ嫌にならないんですか? 何度もニンゲンを刺し貫くのは』


 白百合の絨毯を踏みつけて、一歩、間合いを詰めた。ただ無音の殺意だけを返す。夢魔は逆光の中で肩をすくめて、骨ばった片手で自身の痩身をなぞっていた。実体を持たぬ悪魔が、手に入れた実体を確かめるように、腹部から胸元にかけて白布を撫で上げる。


 "お前が殺す人間の形をしかと見ろ"と、言外に告げるような仕草は目障りだった。


『それに……今日の姿は貴方にとっても特別なはずだ。素敵な偶然。この男の記憶を啄ばめたことで、貴方について知ることが出来て楽しかったですよ』


「そうですか。生憎、あんたが母の子供時代の姿をしていようが、躊躇う理由はありません。ただのハリボテですから」


 人形めいた顔様が微笑を崩す。虹彩の円形が(さや)にあらわれ、二つのそれは橄欖石(ペリドット)を思わせた。陽光を浴びたオリーブの色艶は、平和を喰らう悪魔などに似合わない。奴が睫毛を伏せれば、安らぎの彩色は暗らかに陰った。


 気味の悪い音が、奴の腕の先から鳴り始める。細腕は血管を浮き上がらせ、表皮は赤黒く変色する。五指は一本一本が別の生物のように暴れていた。肥大した五つの手骨が皮膚を破き、鮮血を散らしながら鉤爪を象った。


 形成した武器の感触を満足げに確かめる化物。リーセロットが息を飲んだ音を、俺は耳の後ろで聴いていた。


 硝子ナイフの切っ先を傾ける。真っ直ぐに、飛び出す。


 暗色の靴がマットレスを軋ませ、対向する夢魔の影で青黒く塗り潰された。目線を上げれば構えた鋭刃に夢魔の片笑みが反射している。落照を吸い込んだ硝子は熱せられたように色付き、赫々(かくかく)たる一線の残像を描いた。


 刺突──突きの直線は夢魔を捉えていたが、貫いたのは無感触の残香。


 花の香水を纏った赤がひらめいた。晩照でも紅血でもなく、奴の髪。窓景色にかかった赤いブラインドは弧を描いて視界からすり抜けていく。


 夢魔は踊る足付きでネグリジェの裾を広げる。円形に開花した影。巡る勢いのまま奴はベッドから跳び下り、その勢いは止まることなく加速。奴の一回転に伴われた勁風(けいふう)が肌を引き攣らせる。水平を裂いた鉤爪が不可視の隔たりを掻きのけ、その斬撃は今や眼前。


 狙いは俺の心臓。分かっている。だから抉らせるものか。


 ────‼


 互いの得物がぶつかりあった金声は甲高く、耳鳴りじみた余韻をもたらす。鍔迫り合いの刃物同士が、下手な弦楽器めいた不協和音を鳴らし合う。聴覚を引っ掻く鍔音に奥歯を噛み締め、背の低い子供を睨みつけた。


 体格差を物ともせず、奴はこちらの腕力を押しのけるべく全体重を傾けてくる。否、華奢な体に見合わぬ重さが、刃を、腕を、圧し折ろうとしていた。


「く……っ」


 重い。息が詰まりそうになる。化物と力比べなど無駄だ。しかし刃は鉤爪の間に絡まり、身を引こうにも抜くことが出来なかった。


 拮抗は長引かず、靴底がずるりと後退したこちらの足元。シーツの上を滑った靴にブランケットが絡まり、バランスを崩しかける。噛み潰した唇の隙間から呻きが溢れれば、奴は悠々と笑っていた。


『私だって嫌なんですよ? 何度も何度も、食事の邪魔をされるのは……!』


「っ!」


 (ごう)、と。烈風に髪が乱される。奴の赤黒い手が膨張して見えたのは一瞬。まるで見えない火薬に点火したよう。空気が爆ぜた。受け身をとった前腕の骨が歪み、酸痛が走る。


 放られた中空で、されど思考を放り出しはしなかった。斜陽に項が焼かれる錯覚。後背は開け放たれた窓の外。開口部に手招かれるまま、落下するわけには、いかない。


 胸元に構えていた硝子ナイフで虚空を薙いだ。逆手に握った刃は木製の窓枠に根元まで(うず)まり、杭となって俺を引き留める。室内に踏み止まった体はよろめく。吐き出した溜息は安堵よりも苛立ちの音をしていた。


「人を苦しめることを『食事』と称する悪魔の事情など……どうでもいい。いい加減死んでほしいんですが……!」


 俺は崩れかけていた上体を起こし、ナイフを窓枠から引き抜いた。射出された弾丸の如く花絨毯へ躍り入る。切り苛む現前。奴の哄笑に銀光を刻んでも血を散らすには至らない。


 双方の太刀筋はぶつかり、行き違い、受け流す。剣戟には楽しげな笑い声と金属音が付き纏う。前腕部が痺れた瞬刻、鉤爪がこちらの肉を抉り取る。窓明かりの暖色に血色が混じるも負傷に構わず踏み込む。


 鉤爪の角度、力の方向、狙い、その全てを即座に予測してひざまずく。指先を這わせたウールの感触。頭上を横切った敵影。奴の軌道を遡る形で旋回させる脚部。

 一蹴は夢魔の足首を暴力的にしならせた。華奢な人体とはいえ骨は硬い。折ることは出来なかったが十分だ。奴の姿勢は崩れた。


 仰向けに倒れ込んだ夢魔に刃を振り下ろす。夢魔は怯まず回転し回避した。穿通した百合は花弁を散らすことなく塵埃じんあいだけが白く立つ。奴の反撃に備えて後退しながら向かい合う。


 床を転がっていた奴はフロアランプの足を持ち上げながら跳ね起きた。槍を叩きつけるような荒々しい一撃。一歩横に踏み出せばランプの傘が頬を掠めて落下する。毀壊きかいされるそれに目もくれず、片足を軸に廻る。


 跳ね上がった木材と色硝子の破片は日輪を浴びてやけに眩しい。眉根を寄せて、夢魔の脇腹に柄を打ちこんだ。


 夢魔は机上に倒れ込み、何枚もの書類が散らばった。割れた小瓶の涼やかな悲鳴。インクの匂いが鼻を刺す。視野を紙に遮られ、なおも手攻を緩めはしない。


 契約書の向こうに奴の影。紙が落ちるより早く一閃。切り裂いた文字列と薄皮。出鱈目な狙いだったが奴の首に赤い線が刻まれていた。だが浅い。今度はさらに深く。


 そう思えど動作は間ぬるい。刃を構え直すまでの隙。にたりと笑った奴の方が──早い。


 攻めるより退かなければ。その思考に至ったのは遅すぎた。


 鉤爪による殴打は直撃。掠めた、なんてものではない。ごりっ、と、骨が折れる音。五本の爪が肋骨を押しのけて深々と臓物まで至り、内腑を潰してから突き放す。


 投げ出された体は本棚に打ち付けられた。倒れる寸前で足に力を込め、棚に寄りかかって辛くも立ち続ける。右手で硝子ナイフの感触を確かめ、息衝く。


『ふふ、無駄ですよ。貴方が何度私を殺したって、無駄でしかないのに』


 不快な笑い声に目を背け、負傷部位を左手で押さえた。傷は深い。喘鳴がうるさい。聞こえる全てが耳障りで、唇を歪めて舌を打っていた。


「ちっ……」


『いいですか? 貴方が何度も健気に狩っているのは変質した記憶。"記憶を変質させている私自身"ではない。だから、何度"記憶(カラダ)の首を切っても"本当の私は死にません。今宵お別れをしても、まだまだ何度でも手合わせできますよ……あぁでも、貴方が死んでしまってはもう遊べなくなってしまいますね! もっと遊びたいでしょう? ずっと誰かと、普通に遊びたかったんですよね? 私が何度でも相手になってあげますよ。っふふふ、あはは……!』


 どの夢世界でもコイツは騒がしかったが、いつにもましてやけに饒舌。睡眠者の記憶からコイツが俺について何を知ったのかは知らないが、不愉快だった。


 音階に従って鍵盤を叩くような嘲笑が、張り上がっていく。奴の迫撃は目前。咄嗟にそれを払い除け、がら空きの腹部へ靴底を打ち込む。僅かに開いた彼我の距離。だがその間隔さえすぐに奴が食い潰す。


 退行しようにも背後は本棚。避くことが出来ぬまま、右肘から先の感覚を失った。迸る血煙は乱れた赤髪よりも鮮やかだった。熱い。得物も赤い熱の向こうへ。切断された腕が武器までも持っていって、絨毯に転落していた。


「ッ……畜生……」


「メイス!」


 独言の余韻を攫ったリーセロットの悲鳴。奴の注意を引くような真似はしないでほしかった。出口のない夜の森を思わせる夢魔の虹彩が、リーセロットの方へギョロリと滑る。冷汗が流れたがこれは彼女がくれた奴の油断。利用しない手はなかった。


 断ち切られた右腕を下げ、踏み出した足。夢魔の顎下(がくか)を蹴り上げる。爪先が深く沈んだのを判然と感じていた。普通の人間ならば脳震盪を起こすだろう。倒れ込むことなく跳梁(ちょうりょう)する様は流石悪魔といったところか。


 後方に宙返りした夢魔の着地点はベッドの上。鉤爪化させていない方の手で、小さな顎を押さえた夢魔は不気味に首をひねっていた。


『あは、痛いですねぇ。"この()"も可哀想に。よりにもよって貴方に殺される定めだなんて』


 背中側から天紅(あまがべに)の光を浴びて、赤ばんだ暗がりで夢魔は自身の血液を弄んでいた。チョーカーのような傷跡を指でなぞり、抉り、肌を赤々と濡らしていく化物。


 俺は一人遊びをしている奴から焦点をずらし、取り落とした硝子ナイフを探す。腕は机の傍に見つけられた。だが、ナイフはその手に握られていない。どこだ。


「……付喪神ッ」


 ささめきは彼に届いただろうか。届いているなら青光りして場所を知らせろ。


 出血で視覚が弱まっていく。天光は気まぐれなレンズのように、目の前をぼかしては鮮明にする。


 カーテンが風を孕んで(あゆ)く。長方形の黄昏を背負った夢魔の微笑みに、母の面影が重なる。


『でも気付いていないようですね? ああ、もしや硝子(きおく)を砕いて忘れてしまった? この子のことを』


 見回した室内は陽の色ばかりで満たされて、求める青に辿り着くことが出来ない。息だけを返していれば大風が呼吸を攫った。


『語り聞かせて思い出させてあげましょうか?』


 冽とした抱擁。肉付きの悪い痩身。奴の体温は死人のように冷たかった。囁きに耳朶を炙られて息が詰まる。俺が振り払うよりも先に奴は一歩身を引いていた。母とよく似た少女が、落日のスポットライトを浴びて柔和に喜色を浮かべる。


 この子。奴の言葉を反芻して、頭が痛む。


 ──いいか、お前は、フランカだ。


 睡眠者の声を思い出して頭痛がひどくなる。


 ──愛しているよ、フランカ。


 フランカ、は。母の、名前だ。この悪夢の原因となっているのが母で、この睡眠者が父ならば。


 何故──父の悪夢の中で、母は少女の姿のまま?


 逡巡を断ったのは一条の光。どこからか投擲された硝子ナイフが夢魔の側頭部に突き刺さっていた。


『いっ……!?』


 夢魔は眼球を落としそうなほど瞼を持ち上げ、ぐらりと頭を揺らしていた。明らかな動揺。俺は生じかけた一弾指の間に反撃を捻じ込んだ。


 奴の頭部から引き抜いた硝子ナイフ。握るや否や手首を返す。刀尖は奴の首を深く、深くまで抉った。表皮から皮下へ、無数の血管を裂いて肉を、骨を、横薙ぎに断ち割ろうとする。


 夢魔はこちらの腕に爪痕を刻んで、進行する刃を留めようと足掻く。今度は、押し負けるつもりはない。対峙する奴を眼光で射抜いた。全霊の力を霜刃に注ぎ込み、振り抜く──。


 噎せ返るほど腥い葡萄酒が吹き出して、横截おうせつされた頭部はコルクのように踊り上がった。躯幹が崩れ落ち、首元から見えない炎で焼け焦げていく。


 生首のままくつくつと嗤う悪魔は俺だけを両目に映していた。三日月型の瞼に冷眼を返す。返り血を被った頭は冷え切っていた。


 慣れ切った結末(さぎょう)を最期に打ち下ろす。頭蓋を砕いた刀鋩は青く塗りつぶされ、脳髄を溶かして硝子へと変質させていく。


「あんたの言う……その記憶はきっと、取り落としてしまったのではなく、俺が自ら捨てたものです。だから振り返る必要はありません」


 片手で握り込んだナイフに力を込めた。魔力に呼応するように、けざやかな青があまねく波及する。


 記憶にないいつかの俺は、過去を振り返りたくないから記憶を砕いたのだ。そんなことは深く考えずともわかる。残っているのは母親と過ごした過去だけ。前に進むために、空白があろうが関係ない。


 今更、揺さぶられるな。己に言い聞かせ、柄を軋ませた。


 赤髪が火の粉を散らして透き通っていく。夢魔の体は暖炉に捨てた紙屑のように、赤く燃え、黒く炭化して、灰になる。


 積もった灰にまみれて球体の硝子が残されていた。それは仮初の夢魔が脳髄にしていた核。付喪神(ナイフ)の魔力を注ぎ込まれ、硝子化された睡眠者の記憶だ。


 硝子ナイフを一旦ホルスターに収める。空いた手で球体を拾い上げてみると、無色透明の硝子に夕方の色が差し込む。寂しげな顔をした子供がそこにいたような気がして、眼を逸らした。


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