誰そ彼─Wie is dat?─4
(四)
人気のない草原に、俺と少女は立っていた。からからと異物が鳴く。人がいない代わりに、人型ではない影が、草の上を点々と泳いでいた。
大小さまざまな魚の骨が中空を行き交う。まるで水のない水槽を覗き込んでいるよう。目線を上げれば肉を失った鳥が骨の翼で飛んでいた。雲一つない夕空に目を細め、片手に力を籠める。硝子ナイフの感触を確かめて、爪先で草を蹴り分けて進む。背後では少女の吃驚が上がっていた。
「魚の骨……⁉ 夢の世界ってこんな風景なのね」
「毎回違います。人骨がさ迷っている時もありますし、星が落ちてくる時もありますよ。魚と鳥が骨の姿で彷徨う、ココのような世界も何度も見ました」
「人によって違う、とかではないのかしら。不思議ね」
骨達がどこを見て進んでいるのか、眼球のない空洞からは窺えない。それでも、彼らは人の気配を感じている。肉食動物の霊魂でも宿っているかのように、近付いた際襲い掛かってくる個体もいれば、遠くにいてもこちらへ猛進してくる個体もいる。
正面を向いたまま黒目だけで睥睨してみると、不自然の風が生じる。垂下させていた片腕を持ち上げ、切っ先を傾けた。青い霊魂がちらつく。
『来るぞ』
「誰──」
「分かっています」
付喪神の声に少女が戸惑っていたが、説明は後にしたほうがいい。迫り来る気配に足を止め、刃を横に薙いだ。
衝突した刀身と魚骨の口角が甲高い音を立てて痙攣する。断ち切れなかった事実に舌を打つ。追撃はせず片足を下げれば葉擦れがざらりと響いた。奴の肋骨がうねり、尾鰭が向かい来る。荒れた風に目を細める。尾を避けようとして──背後にいる少女を想起し、踏み止まった。
咄嗟に動かしたのは徒手。扇状に連なる細い骨の塊を片手で握り込んだ。受け止めた力は火傷しそうな痛みを走らせる。掌中で擦れ合う骨の感触は不快だった。だが、掴んだ獲物を離しはしない。
背びれをひらめかせて暴れる化物。閉じた扇が開かぬよう拳を強く固める。奴の尾を振るい上げ、そのまま骨身を地面へと叩き付けた。片膝を突きながら垂直にかち落とす鋭刃。背骨を砕き、頭骨を胴体から切り離すと、そいつは緩やかに動きを止めていった。
魚の眼窩から突き出した草は微風にのみ揺らいで、土の香りを漂わせる。横たわった骨は輪郭の端から火を帯びて炭化していく。点火された静物画を見ているようだった。煙は立ち上った先から空に溶けて行方も追えやしない。草むらは化物の死んだ一か所だけ、燃え切った白雪が積もっていた。
少女の甲高い息差しが、耳の後ろに投げかけられた。
「なっ、なによその骨……! 攻撃してくるの⁉」
「攻撃してくる奴もいれば、泳いでいるだけの奴もいます。まあ、気をつけてください。一応、俺からあまり離れないで」
とは言ったものの、見回した範囲で既に、いくつかの骨が俺達に狙いを定めていた。彼女の位置に気を配り、骨共と戦うことを考えると流石にこちらの骨が折れそうだ。浮かぶ魚骨は青草を掠めて波打たせ、宙を泳ぎ来る。
「すみません、面倒なので失礼します」
「えっ、ちょっと……!」
細い足首を蹴り払い、バランスを崩した彼女を右脇に抱えた。布の塊みたいなドレスを着ているのだからさぞ重いのだろう、と決め込んだ覚悟は不要だったかもしれない。思いのほか軽量で安堵する。
彼女はまだ何か喚いていたが、それよりも空気の断裂音が耳を聾していた。振り向きざまの横撃は上顎と下顎の継ぎ目を貫いていた。骨に亀裂が走る。砕くにはまだ足りない。尖り歯の並ぶ口が無意味な開口と閉口を繰り返して暴れ出す。振り回される勢いに委ねたまま、コイツをもう一匹の骨に叩きつけた。
打ちつけた勢いと、逆方向から加わったもう一匹の力が、亀裂を深めて顎を砕く。黄ばんだ白片が散る。下顎を失った大魚を蹴り上げ、よろめいているもう一匹に刺突。椎骨の窪みに上手く入り込んだ切っ先。その太刀筋を傾けることなく貫き通した。
切断した首。重そうな頭部がゆっくりと俯いて草地に沈んでいく。肋骨が落下するのを横目に、先刻蹴り上げたもう一匹の居場所を探る。
目路が青ばんだ。見上げれば凶器めいた牙が重力に従っていた。大口の影でこちらを喰らっても、上顎だけの奴では俺を噛み砕けない。
脇に抱えた少女を傷付けぬよう抱き込んで、降下する奴を睨め上げる。頭上に掲げた硝子ナイフが、螺旋階段のように廻る肋骨を映し出す。落下速度は予想よりも速い。二つの空洞と反目した時間はきっと一秒にさえ至らなかった。
「ッ‼」
衝突──刃は既にざらついた骨を乱暴に抉っている。柄を握った腕が、圧し掛かった重さに震えていた。血管が、筋肉が、不快なほど痙攣していた。歯を食い縛って見据えた相手は、自ら断割されていくように、上顎の中心から後頭骨まで刃を通していく。
擦り切れる骨のざらついた音。浮きかけた奥歯を噛み締める。格子状の陰影が何度も眼路の色を変えていく。刃は一直線に、頭骨の終わりから脊椎へ。管を両断していく中、肋骨が俺達を包み込んでから墜落とともに朽ちていった。
鰭の骨が見えた時、腕を振るって影を裂く。尾鰭は蒼茫たる地平線に紛れた。足元を見下ろせば、灰が繊月を描いて二人分の影を取り囲んでいた。
「っ下ろしなさい! アレを躱すくらい出来るわ!」
「すみません、うろちょろされても邪魔なので……」
「じゃっ邪魔ですって⁉」
「今は黙っててもらえると助かります。舌を噛まないように」
襲撃はまだ収まらない。魚骨が数匹、風を切って迫る。一匹を切り、一匹を断ち、一匹を裂いていくつもの骨を削った。こいつらの硬さも個体差がある。上手く首を狙っても、一撃で仕留められる雑魚もいれば、斬撃を弾く個体もいる。
接近した一体を切り退けて、次に近い一体を切り裂いて。何度の剣戟を繰り返した頃か、最後の一匹を、振り下ろしたナイフで縫い留めた。
脊椎を貫いたまま翠影を宿す硝子刃。骨の魚は土の上で藻掻いていた。骨はその場で草を掻き分け、地面に出鱈目な線を刻む。次第にそれが、自身の墓でも掘っているように見えてきて、目を伏せた。
踵を高く持ち上げ、頭骨を踏み砕いた。靴底の下で潰崩していく骨はみるみる火の粉を散らし、尖った先から黒く染まっていく。苦々しい灰塵に眉を顰める。墓穴を掘ってやらずとも、この砕屑はいずれ土と同化するだろう。
寂び返った平原に、自分の呼吸音がいやに響く。言語の分からぬ植物の会話が沈黙を満たし始めて、深呼吸をした。ぐるりと回視した情景に魚骨が見当たらない。一息吐いて肩の力を抜くと、危なく荷物を落としそうになった。そういえば少女を抱えていたな、と想起して脇腹を見下ろす。
大人しく緘黙し、人形然として脱力しきっている彼女。うつ伏せの顔は窺えないが、不機嫌であろうことは彼女の纏う空気から察していた。
「……もう、大丈夫そうですね」
「そう、それは良かったわ。とっとと下ろしてちょうだい」
「ああ、はい。あの、言われ、なくても、下ろしますから……足を殴らないでくれますか?」
軽い力であっても、拳を当てられるたびに呼気が揺れる。大息を吐き出しながら少女を下ろしてやれば、ヒールを鳴らした彼女は衣服の裾をはたいて整え始める。ボンネットの角度を調整し、手櫛で髪を梳いていく彼女。細い指に絡んだ白鼠の髪状は、なめらかに指を通してから巻かれた形に戻っていく。
俺と見合った花貌は実に険しく、彼女が猫だったなら毛を逆立てていたはずだ。荷物同然の運び方をしたのは申し訳なく思うが、それが最も適当な担ぎ方だったため仕方ないだろう。
いや、それよりも、彼女は初めから俺を嫌悪、あるいは敵視している。接触自体不快だったのだろうなと思いつつ、弁明をしている気力はない。一旦思考を切り替えることにした。
「ところで、貴方は……」
「そういえば名乗っていなかったわ。私はリーセロット・オッセンドレイフェル。リースでいいわよ」
「……リーセロットさんは」
「リース、で、いいわよ」
「はあ……リーセロット。質問をしても?」
不満げに歪んだ唇から目を逸らし、改めて彼女の容姿を観察する。灰と黒を基調としたドレスの中で、光芒を散らす装飾品を見ていた。布地は多いが装飾類は思いのほか少ない。赤い宝石が嵌めこまれた胸元のブローチ、袖を絞る金のブレスレット。どちらも比較的新しく造られたものに見えた。
「あの、貴方の付喪神はどこに?」
「心臓」
慮外な返答に目をみはっていた。派手な身形だ。装飾品のいずれかがそうなのか、と思いきや、まさか体内に宿っているとは思いもしなかった。
もしや彼女自身が付喪神であり、その身体は長年大事にされてきたビスクドールそのものなのか、と熟考してみたが、それは誤答。考えるまでもなく正解を語られていく。
「私は事故で両足を失くして、同時に心臓も止まった。今の両足はただの義足よ。心臓は……お父様が契約していた付喪神に助けを求めてくれて、その付喪神が私の心臓代わりになったの。今喋っているのは付喪神ではなくちゃんと私だし、私の意思で生きているわ」
「……その付喪神は、硝子の付喪神ですね? だから貴方は、俺の店に来た時にグラスを食べていた」
己の手に握られている硝子刃を翻し、透かした草原を見下ろした。透明の刃に揺蕩う青い霊魂。この付喪神も、時折食事を求める。餌となる硝子か硝子の原料を触れさせてやれば、その身に溶け込ませて喰らっている。
「多分そうね。心臓が付喪神になってから、硝子を見ると食べたくなってしまうし、硝子を食べないと飢えてしまうのよ。だからこれからも私に硝子を食べさせてちょうだい、メイス」
白猫に似た童顔が柔らかに綻ぶ。白い頬を緩めてこちらを見上げる顔ばせは、悪戯っぽい笑みを象っていた。向かい合う自分の苦笑が引き攣っていく。
「……これからも、俺と貴方の縁は続くんですか」
「あら、嫌そうな顔。私だって貴方のことは大嫌いだけれど、食欲を満たす方が大事だわ」
「俺は別に、貴方を嫌いだなんて一言も言っていません。嫌うほど関わっていないので」
こちらの嫌そうな顔を指さして頬をつつこうとしてくるリーセロットから離れ、草の群れを爪先で掻き分けていく。
背丈の低い草と茜空だけが広がる空間を、黒目だけでじっくり見渡す。踏み潰されていく草葉と、頭上を飛び交う肉のない鳥の骨だけが、幽境の劇伴になっていた。
カラン、と、鳥の音骨が中空に響く。二羽の骨が正面からぶつかりあって落下しかけ、方向転換をして飛び続けていた。その形影を追いかけていけば、背後のリーセロットもついてくる。
「ねえ、ここがお父様の悪夢ということは、お父様はコレを見て魘されているの? 悪夢ってもっと、怖いものに追いかけられたりするのかと思っていたわ」
「ああ、それは……」
「でも、お父様もさっきみたいに、魚の骨に襲われたりしたのかしら」
「いえ。ここはただの通り道に過ぎないんです。廊下みたいなものですね。見えない部屋がいくつもあって、それぞれに記憶が収納されている。入眠した魂はこの廊下を彷徨い、きまぐれにどこかの部屋を選んで、その部屋にある記憶と空想を夢に見る。貴方のお父様は、この空間のどこかにある部屋から出ることが出来ずに、ずっと同じ悪夢に囚われていて。だから俺は、扉を探しています」
ここは本来、化物も存在しない静かな空間だ。夢を見ることなく、静かに眠る人々の休らう地。だが、夢魔が巣食えば安寧を奪われる。
夢魔は睡眠者をどこかの部屋に閉じ込め、悪夢を見せ続けている間に、部屋の外側たるこの地を壊していく。長い日数をかけて蝕んで、平和の肉をほどいては骨をむき出しに。すがれた草花を散らせば砕けた大地が露わになって、いずれ空が剥がれ始める。そうして夢世界を完全に壊されたら、睡眠者はどうなるのか──その結末を見たことは、まだない。
リーセロットの父の夢世界は、今も空を保っていた。自然も褪せることなく、青々と生きている。夢魔による侵食がそれほど進んでいないのを目視して、足取りに無自覚の余裕が表れていた。
「ありました」
ほどなくして辿り着いたのは、今し方二羽の鳥が衝突した地点。あれは、二羽ではなく、一羽の鏡映しだった。
だから今、目の前には俺達がいる。鏡など好き好んで見るものではない為、自分の全身を見るのは夢魔の扉を前にした時くらいだ。赤髪の男は仏頂面で正面を睨んでいた。ネオングリーンの瞳が細められる。風に遊ばれる横髪は肩にかかる長さ。後頭部で一纏めに括られた後ろ髪は腰まで伸びている。
あの教祖の『今でも母によく似ている』という言葉を想起して眉を顰めた。
リーセロットが俺の背から顔を出し、鏡を覗き込む。
「鏡……? これが扉なの?」
「はい。この先に夢魔がいます。ココで待っていても構いません。付いてくるのなら、俺や夢魔からは離れていてください」
鏡の中で、紫紺のケープが風を孕んで皺を乱す。黒い袖が持ち上がる。手の平が鏡像の自分と触れ合った。冷たさが表皮に沁みていく。取っ手のない扉を押し出せば、晩景に垂直の切れ込みが入る。溝は広がって暗路を露わにした。
黝然たる黒が、閉じ込められていた。平原にぽっかりと開いた長方形の穴。斜陽がそれを淡く照らして、一本道の輪郭が視認出来る。
俺はリーセロットに目配せをしてから、前に向き直った。
拓けた空間に踏み出すと、薄暮れは見えなくなる。黒一色の床板を進んでいく。靴音にはかすかな声が重なっていた。それはリーセロットにも聞こえたようだった。
「この声、お父様……?」
男の嘆きが、聞こえる。
『すまない……許してくれ……』
声は止まない。
『そんな顔をするな。もっと嬉しそうに笑え』『私の傍からいなくならないでくれ』
これは、悪夢に魘されている睡眠者の声で間違いない。悪夢狩りに赴く際、毎回耳にするものだ。この黒い小道で、彼らがどんな悪夢を見ているのか、その断片を静かに聞いていた。
泣き縋る掠れた低音が、次第に苛立ちの熱を帯びていく。
『なんだ、その目は』『どうして言うことをきけないんだ』『余計なことを喋るな……!』
いくつもの台詞が、どこからか延々と響き続ける。リーセロットにとって父親が優しい男だったのなら、こんな声色など聞きたくなかっただろう。軽く振り返って見遣ると、リーセロットは口元を押さえて戸惑っているようだった。
闇路の先に赤らんだ光が灯っていた。黒いカーテンが、通路と部屋を区切っている。波打つ布地に手を伸ばす。ざらついた布帛に触れて──指が、止まった。
男の切羽詰まった槍声が、闃寂を打って俺を引き止めていた。
『いいか、お前は、フランカだ』
誰かに言い聞かせるような言の葉だった。フランカは、俺の母と同じ名だ。リーセロットは、この男が俺の父親だと言っていた。
母は、本当はフランカという名前ではないのか? この男が、母にフランカという名前を与えた? 何故?
『愛しているよ、フランカ』
決然と、光の染み出す暗幕を払いのけた。答えの出ない懊悩から、不愉快な彼の声から、逃れたかった。
幕の先は寝室だった。夢世界に入る前、俺達がいた部屋だ。カーテンが返照で染色されて夕風に揺れている。ベッドの向こうにある窓は開いたままで、空気は初夏のように生温かった。
ベッドの上に、少女が座り込んでいた。薔薇を溶かした深紅の長髪が、真っ白なシーツの上に散らばっている。
少女の纏う白いネグリジェは胸元が大きく開いており、白皙から肋骨の凹凸がよく分かる。倒れ込んだ形で横に投げ出されている双脚もひどく痩せていた。露出している肌には痣が咲いている。暴行の痕にしては小さな花が、いくつも。
華奢な少女はこちらを振り仰いだ。無機質な人形じみた色差しに背筋が凍る。ネオングリーンの虹彩は鮮やかなのに、そこに光は宿っていなかった。長い睫毛がまたたいて、少女は、いびつに花笑んだ。
これは、幼い頃の母なのだろうか。
「……リーセロット。そこから、動かないでください。俺はアレを殺します」




