誰そ彼─Wie is dat?─2
(二)
街外れにあるそこは草木に囲まれていた。石造りの塀に『静寂の聖域』と書かれた看板が取り付けられている。ここが今のアニカにとっての住まいであり、拠り所であるのは理解しているが、無神論者である俺にとっては怪しい宗教施設にしか見えない。
ゆえにここを訪れたこともなかったが、今回アニカが俺を引っ張ってきたのは、俺の顔色がよほど悪く見えたからだろう。彼女は、ここに安らぎと救いがあることを信じている。
門番の男にアニカが黒い手帳を差し出す。その表紙には一輪の花が描かれていた。黒鉄の門扉から伸びるアーチの中央を見上げれば、そこにも同じ花がシンボルとして掲げられている。
花蕊は黄金、円形に広がる花弁は純白。白日を思わせる花の名を思い出そうとしていれば、金声が響いて思考を遮られる。
門番が柵を開き、アニカと俺を敷地内へと誘導する。木々のささめきの向こうには子供の笑い声があった。整備された道を進んでいくと、芝生で少年少女が駆けまわっていた。髪の色や肌の色、背格好も異なる彼らは、孤児か、あるいは実親から逃げた子供達と思われる。アニカも、そうだ。
道を挟んで右手側の芝生では、幼い少女と壮年男性が座って人形遊びをしていた。彼を認めたアニカの、息を吸い込む音が風声と混ざる。アニカは俺の袖を掴んだまま、彼の方へ駆け出した。
「ローデヴェイク様ーっこんにちは! 今日は私の職場の……店長を連れてきたんだ!」
その名前はアニカが毎日口にしているものだ。アニカにとっての親代わりのような存在。それがこの男性なのか、と視一視する。猫のぬいぐるみを抱えている彼もまた、俺を見つめて目を瞬かせていた。
皺のないジャケットを纏い、立て襟のシャツのボタンを上まで留めて、ループタイをきつく締めている。見ているだけで息が詰まりそうな服装は彼の生真面目さを覗かせていた。だが髪にも服にも芝草が点々と付着しており、草原に寝転んだあとの少年を連想させた。
俺が会釈をすると、彼は人好きのする笑みを浮かべて立ち上がる。片腕にぬいぐるみを抱えたまま、空いている手でジャケットの内側を漁り始める彼。落ち着きのない仕草で手鏡を取り出した彼が頭を振るう。藍鉄の髪に絡んでいた草が落ちていったのを確認すると、彼は鏡を衣嚢に収めた。
「アニカの仕事先の……店長さんか。はじめまして。こんな格好ですまない。さっきまでは男の子達と遊んでいたから、髪もぐちゃぐちゃで……」
「──アニカお姉ちゃんだ! お姉ちゃん遊ぼ!」
彼と人形遊びをしていた少女がアニカを見るなり飛びついた。アニカの茶色いフィッシュテールスカートが、紅葉のような手に引っ張られて皺を生む。驚きを示した両手が持ち上がったのは一瞬、アニカは屈んで少女を愛おしげに抱きしめていた。仲良く頬擦りをする二人は微笑ましい。少女がアニカに耳打ちをすると、アニカはこちらに片手を振って眉尻を下げていた。
「店長ごめん~……! 遊んでくる! またあとで!」
アニカはスカートを持ち上げると、コルセットから垂れ下がっているベルトで前裾の片側を固定した。露わになったハーフパンツは活発な彼女によく似合う。細い両足は敷地の奥へと駆け出して、ぬいぐるみを抱えた少女も慌てて彼女を追いかけて行った。
木々に囲まれたアーチの向こうに二人が消えていき、視線はそのまま周囲を見はるかす。アーチ道の先には何軒か建物が見え、小さな村のようだった。芝生で遊んでいた少年少女が建物のある方へ競争を始める。遠くでも子供達が笑いさざめいている。安閑があまねく広がっているのを聴覚で感じていた。
涼風に乱された横髪を払い、振り返る。すぐ傍まで近づいていたローデヴェイクは、猫のぬいぐるみを撫でながら笑みを湛えていた。無言の見合いに、苦笑を吐き出す。
「どこに行っても慌ただしいですねアニカは……すみません。自己紹介が遅れました。俺はメイス・ヘルブランディ。アニカの雇い主で、主に硝子製品を扱う店の店主です。彼女がいつもお世話になっています」
「いやいや、それはこちらの台詞だ。アニカから聞いているかもしれないが、私はクラップロース教団を創設した人間でね。ローデヴェイク・ブルクハウセンだ。居場所を求める人々に住まいを与えている。……ところで君は、もしかしてフランカの息子じゃないか?」
一驚に瞼が開かれていく。瞠目の中で彼がこちらを凝視していた。食い入るように観察しなくても、母の容姿を知っているのなら俺が母親似であることくらいすぐに分かるはずだ。
母は、珍しいほど鮮やかな赤毛をしていた。首を傾ければ、母譲りの深紅の髪が眼路に流れ落ちてくる。
「そう、ですね。母はフランカです。知り合いだったんですか?」
「ああ。前職の同僚だ。君とははじめまして、ではなかったな。私のことは覚えていないか? 昔は女の子みたいだったが、立派な男に育って……いや、今でもフランカによく似ているな」
旧友との再会を楽しむように、彼の朗笑が転がっていく。母は警察に所属していた人間だ。その同僚となると、彼も元警察官だったことになる。彼の思い出話を聞き流しながら黙考して、唾と共に諒解を飲み下していた。なるほど、彼は人助けが好きらしい。
過去を思いなだらむ彼の語りを「すみません」と遮った。
「昔のことは、あまり覚えていないんです」
「そうか、いや、こちらこそ悪かった。昔話をする機会はなくなっていてね……。そうだ、アニカから君の話も聞いたことがあるよ。硝子工芸の他に、悪夢を治療する……セラピストのような仕事をしているんだって? カウンセリングをして治していくのか?」
「いえ、少し違うのですが……色々と」
鐘の音が、響いた。音の出所を探ると、アーチ道の奥に教会じみた建物を見つけられる。自然に守られる様相で、錯落とした樹葉に抱かれて聳える塔。青磁色の屋根の下では鐘が揺れていた。
重い鐘声につられて羽ばたいた群鳥は夕陽の逆光で影絵になる。数羽の鳥が同じ軌道を辿るものだから回転覗き絵のよう。彼らの行く先を黒目で追いかけていたら、隣に控える彼が「祈りの時間だ」と穏やかに零した。
がらん、と。空無に消えていく余響の下で、彼と顔を見合わせる。柔和に垂れた眼窩には、天色の硝子玉が二つ。雲のない青空を思わせる眼差しは慈愛に満ちていた。
「私もね、人々が悪夢に魘されることなく、穏やかに眠れることを祈っているんだ。悪夢とは嫌な記憶に結びつくもの……だから教団では、各々が苦しんだ過去を乗り越えられるよう、皆で励ましあって、神に祈る時間を設けている」
僅かな呼気で相槌を打って、彼の恩顔に笑い返す。けれどそれは顰笑の形をしていたかもしれない。祈ったところで救ってくれる神など存在しない──その考えは何に起因しているのか。今となっては思い出せなかった。
ついてこいと言わんばかりの目配せに、俺は両足を動かしていく。石製のアーチを潜って木暗がりへ踏み入る。人の姿はどこにもない。子供達の笑い声もいつのまにか止んでいる。代わりに、微かな歌声が聞こえてきていた。
案内された礼拝堂の内部は斜陽を隔てて仄暗い。汚れなき純白の壁に歌声が反響していた。酸化することのない朱殷の絨毯には木造の椅子がいくつも並ぶ。何人もの男女が着席しており、切望に傾く後ろ頭の数々が背もたれから確認できた。先刻の鐘を合図に、皆ここに集まったのだろう。
室内を見回していれば、入口側に隣接している小部屋が目を射る。光沢のある木材は草木の彫刻で装飾され、二つの扉には丸いシンボルが描かれている。太陽にも花にも見える文色は、ここに来てから頻繁に目にしていた。この教団の紋なのだ。
「メイスくん、『嫌な記憶』と聞いて、思い当たる記憶はあるか?」
「……さあ」
「辛い過去を語ることで、私達は前に進んでいける。だからここの子達は定期的に、あの告解室で告白を繰り返すんだ。忘れるのではなく向き合うことで、強くなっていけるからね。もし語りたい過去があったら、私が聞いてあげよう。初めてだから特別に、今からでも構わない。入ってみるかい?」
温言は優しく耳朶を掠める。彼の腕が肩に回され、反射的に視野が細められた。告解室への入室を促す掌が目界に入り込む。俺はやんわりと彼の腕をほどいて、首を左右に振るった。
「生憎、嫌なことはすぐに忘れてしまうんです。だから何も覚えていません」
「そうか。だが、何かをきっかけに思い出し、苦しむこともある。相談相手がいなかったら、いつでもここに来るといいよ」
無地の絨毯を彼の影が色付けていく。彼は足を止めると、一番後ろの空席を示した。俺は彼に軽く頭を下げてから腰を下ろす。寄りかかった背もたれに、そっと手を突いた彼が囁いた。
「歌を聞いているだけでいい。君の日々の疲れがとれることを祈らせておくれ」
「……ありがとうございます」
遠ざかっていく跫音と斉唱に耳を傾け、石像を見上げた。礼拝堂の奥、窓明かりを最も浴びる位置に女神像が立っていた。重なる祈りは女神に注がれているのだ。
虹彩を動かし、人々を眺め遣る。両手を絡ませ瞑目し、静かな旋律を奏でていく人影。子供が多いものの大人もいる。通路を挟んだ横の座席を窺うと、歌う男女が目に入る。声貌は長閑やかだが、閉じられた瞼には色濃い隈が塗られていた。
傷を抱えた人間は現実に思い悩み、やがて眠りへ落ちても悪夢を見る。そうして安眠出来ない人が、この場には何人もいるのだろう。アニカの隈は勉強による睡眠不足のせいだと思っていたが、彼女もまた、今なお引きずっている過去があるのかもしれない。
鶯声の中にアニカの声を見つけた。明朗快活な普段の彼女とは印象の異なる、玲瓏な響き。彼女の喉は楽器だ。彼女は声帯を巧みに操る。しかし聖域と冠されたこの施設で、彼女が激情を込めて歌うことは無いのだろう。粛然たる音差しは俺にとって聞き慣れたものではなかったが、彼女らしい奏で方が滲むたびに安らいだ。
睫毛を交差させて影だけを打ち守る。神籟は眠りの膜の向こうへ遠ざかっていく。入眠は落ち着いていた。柔らかな綿の中へ体が沈んでいくような錯覚。けれど落ちていくほど、表皮を滑る温度は変わっていった。
──ひどく、熱かった。実体のない半開きの窓から生ぬるい風が舞い込んで、汗ばんだ肌を焦がされる。誰かの呼び声と喘鳴が聞こえる。耳を塞ぎたいのに、両手は布地に爪痕を刻んだまま震え、それ以上動かなかった。
打ち付けられる痛みから逃れるように、いつかの自分が舌を噛み切ろうとする。それを引き止めたのは掠れた歌声。その詩は夜を呪って朝を望んでいた。歌唄いは死んでいくのを悟りながらも生を願っていた。独唱は叫声に近い。その日から翌日も、またあくる日も、喉を裂いて叫ぶような歌が俺の意識を掬い上げる。
この喉から絞り出される呻吟を、彼女の歌声で紛らわせてどうにか息衝いた日々。外気は次第に冽と冷え、風雪が舞う頃には窓も閉じられ、歌なんて聞こえない。
葉音さえも硝子で遮断してしまえば、聞きたくもない声だけが鼓膜を侵し続ける。誰かが、何かを言っている。その人物は黒煙のごとくぼやけていて、声音は言葉になっていない。
炉の中の硝子が溶け落ちるように、夕焼けが滲んでいた。夕空はきっと地獄の窯。一日の中でこの時間が、何よりも嫌いだった。赤らんだ光が風景の輪郭を歪めて、どろりと溶け出して。
「──メイスくん」
「っ……!」
大きな手が、肩を揺さぶって背中を滑っていく。目覚めと同時にその手を払い落としていた。見上げればローデヴェイクが不安げな顔様でこちらをうかがっていた。手の甲に残る、痺れに似た痛み。行き場を失くしている彼の手にも、同じ痛みが滲んでいるはずだ。己の失態に息をのんで、慌てて頭を下げた。
「すみません、ローデヴェイクさん。お怪我は……」
「いや、大丈夫だ。起こしてしまって済まない。少しは眠れたかな? 優しい歌声は安眠にも効果的だからね」
「……そうですね」
かわらかに笑う彼の気遣いを感じ取って、笑い返す。この場を包みこむ歌声が少しずつ静まっていた。心音は透き通っていく余韻に共鳴するよう、落ち着き始めていた。五線譜の符号はなくなり、深閑が降りてくる。一拍の無音ののち、控えめな話し声や離席の音が聞こえ出した。
俺も椅子から立ち上がると、ローデヴェイクが誰かに手を振っていた。最前列の座席に座っていたアニカが彼に片手を振り返している。
「そうだ、アニカから聞いたが……君も頼れる大人がいないんだって? 何かあったら、私のところにきなさい。力になるからね」
「……ええ、ありがとうございます」
すれ違う人々がローデヴェイクに会釈をしてから退室していく。アニカも彼の目の前まで来ると、深々腰を折っていた。そんなアニカの頭を優しく撫でる彼。アニカも丸い頬を緩めており、仲の良い親子らしい姿だった。
「アニカ、告白はしていくかい?」
「あ……、あとで! 店長を送ってからするから、ご褒美のチョコレート残しといてくれ~!」
「チョコレートは無くならないから大丈夫だ。気を付けて帰っておいで」
はーい、と返事をしたアニカが、俺の袖をぐいぐい引っ張り始める。急かしてくる彼女に大息を吐き出し、ローデヴェイクに頭を下げてから扉を潜る。
暮色は藍に塗られつつあった。けざやかに燃えた箇所から焦げ付いていく空。燃え差しが夜の雲を形作って、星散した灰が星座を描く。今日の灯火が消えてしまえば生物は寝静まる時間。瞑色を眺めながらまだ眠れないことを思い出す。
悪夢狩りの依頼。俺の生家。人形足の少女。思議は砂同然にざらつき喉奥へ流れ込んでいく。胸裏に溜まった不快感を握り潰したくて、シャツの襟に爪を立てた。
腕を小突かれて目線を下げる。アニカが唇をたわませて、まどろむような笑い方をしていた。
「店長、お祈りはどうだった? 癒しになったかな」
「ああ……綺麗でした。やっぱり、君の歌は良い」
前を歩く人達が分かれ道を右折していく。道の先は居住地になっているようだった。アニカもこの教団の寮で暮らしている。寮は一軒だけではなさそうだ。数軒の建物が垣間見え、紐にかかった洗濯物を複数人で取り込んでいるのが見える。
そちらへは向かわず、敷地の外を目指そうとしたところで、腕に少女の体重が圧し掛かった。アニカが俺の腕を絡め取って、千切れんばかりに引っ張っていた。
「聞こえなかった! もう一回! もう一回言って!」
「言いません。帰りますよ」
「え~けちだな! もっと褒めたまえよ~!」
無邪気に駄々をこねる彼女を片手で押し退け、呆れを吐き出した。『静寂の聖域』を後にし、石畳を打ち鳴らしていく。靴音にはアニカの鼻歌が混ざった。その調べは和やかに、心を恬静させてくれる。だが、その音律が深く、心底まで浸透するほどに、いつか葬ったはずの怖気が息を吹き返す。
掠れた息骨が零れかけて、俺は唇を噛みしめた。
一年前、硝子工房の店主が亡くなり、店を継ぐことになった頃。路上で歌を歌い、小銭を求めていた彼女を従業員としてスカウトした。誘った理由は彼女に言わなかった。何年も同じ場所で歌い続ける彼女への、憐れみだったと思われたかもしれない。
実際はただの恩返しだ。記憶は曖昧だが、俺は確かに、彼女の歌に救われていた。




