誰そ彼─Wie is dat?─1
(一)
室内光を浴びた硝子たちが色とりどりに華やぐ店内。万華鏡の中を歩いていくように、光彩陸離の通路を進んでいく。左右に並ぶ棚ではいくつもの硝子製品が買い手を待っている。小物、食器、照明、そのどれもが鮮やいで主張し、口無のまま佇んでいた。
陳列棚を抜け、左手側に見える扉を一瞥したが、来客を知らせる鈴は長らく揺れていなかった。扉の直線上を横切って奥へ。その先にはテーブル席が二卓備えられており、テーブルの間は薄い霞硝子の壁で仕切られていた。窓際の座席は空席、内側のテーブル席には女性が一人。数刻前に従業員が注ぎ直した紅茶の湯気は、待ちあぐむ彼女の溜息のよう。
店内の角に配置されているキッチンでは、従業員の少女が食器を洗っている。カトラリーの合奏に目を細めて、俺は革張りの椅子を引っ張った。
「お待たせしました」と女性客に微笑みかけてから腰を下ろし、バックヤードから取ってきた品物を膝の上に乗せる。
女性は俺を見上げて柔らかに花笑む。両目に落ちる隈が彼女の疲弊を色濃く表出していたが、その顔色に反して表情は晴れやかだった。彼女を縛っていたものはほどけて、後は体力が回復するのを待つだけ。そう感じさせてくれる目顔に、こちらの口端も緩んでいく。
品物を机上に出そうとしたが、テーブルの木目は半分ほど新聞紙に隠されている。待ち時間に何気なく読んでいたのだろう。
『連続殺人か。頭部の潰れた不審死体がまたも室内で発見される──』
開かれていた一面の見出しを追っていれば、繊指が紙面を折りたたんだ。ほっそりとした指は関節が赤ばんで罅割れており、水仕事をする女性らしい手だった。彼女は新聞紙を丸めて手提げに収めると、困り眉で苦笑する。
「すみません、邪魔でしたよね」
「いいえ。お待たせしてしまい申し訳ありませんでした」
ベージュの紙袋を開いて抜き取ったのは小箱だ。それをテーブルの上に置いて中身を空気に晒した。そっと持ち上げて見せると、硝子製のコースターは彼女の視線をすぐに惹きつけていた。
エッチング加工が施された硝子の表面にはスノードロップが刻まれている。彼女の行く先に希望があるようにと、祈りを込めた絵柄だった。
「お預かりしていた『空夢硝子』の加工品が完成しました。空夢硝子には魔力が流れていますので、条件を満たさなければ割れることはありません」
鈴の音が響く。来客を感じ取り、キッチンにいる従業員に目配せをした。食器洗いを終えて手を拭っていた彼女は慌てた足取りで入口の方へ向かっていった。
俺は目の前の女性客から顔を逸らすことなく、机上のコースターを掌で示す。触れてよいのだと認識した彼女はようやくその手をスノードロップに伸ばした。透き通った花弁をなぞる指先。吐息は感嘆の音を孕んでいて、俺は内心胸を撫で下ろしていた。
「綺麗……この中に、"私から取り除かれた記憶"が残っているんですか?」
「ええ。その記憶を思い出したい時は、それを枕の下に入れて眠ってみてください。一応注意書きや、砕き方を記載した書類も紙袋に同梱していますので、ご自宅でゆっくり確認を。またなにかあればお気軽にご相談ください」
コースターを箱に収め、リボンで丁寧にラッピングをしていく。紙袋を整えてから彼女に差し出した。彼女は「ありがとうございます」と澄んだ声を落として、しとやかに立ち上がる。彼女を出入り口まで誘導し、互いに会釈を交わして一つの依頼が片付いた。
とはいえ閉店まではまだまだ時間がある。棚の陰から顔を覗かせた男性客と目が合う。彼は俺を手招いて青硝子のコップを指さした。
「あの、これ買いたいんですけど」
「かしこまりました。あちらで会計させていただきますね」
当店、硝子工房ヴェルレーデンはさほど繁盛している店ではない。大通りからやや外れた小道に建つ、硝子張りの地味な店だ。一日に訪れる客の数も二桁に収まる範囲。訪れるのは、前店主の時代から通っている常連客か、通りがかった観光客か。はたまた──『悪夢狩り』の話を聞いて縋りに来た、眠れぬ者か。
硝子コップの梱包を終え、代金を受け取って品物をそっと手渡す。男性客が会釈をして退店すると、店内は静まり返る。と思いきや、慌ただしい靴音と少女の掠れた嘆きが迫ってきていた。
「っ店長~……!」
彼女はカウンターに衝突する勢いで両手を着くなり、涙目で俺を見上げてくる。肩口で切りそろえられた榛色の髪を乱し、落ち着きなく頭を振るう姿は水浴び時の子犬を思わせた。
細腕は他所へ伸ばされ、店内を指差して何度も上下している。相変わらず行動だけでも賑やかな子だ、と嘆息を零した。
「なんですかアニカ……すごい顔ですね。まだ営業中ですよ」
「すごい顔⁉ 失礼な! 私の顔は可愛──っそんなことより助けておくれよ~! お客様がグラスを食べているんだが私はどうすればいい⁉」
「はい?」
アニカは白昼夢でも見たのではないだろうか。潤んだ菫色の猫目が細められるたび、下瞼は膨らんで、そこに塗られた隈を際立たせる。学生である彼女は試験勉強に勤しみ睡眠不足なのだ。疲れているんじゃないですか、と返答しようかとも思ったが、硝子の音骨によって返事は嚥下されていた。
幻聴ではなく、確かに、聞こえた。硝子が割れる音。それは一度きりで終わらない。花弁を一枚一枚千切っていくように、薄硝子が手折られる響き。そこに重ねた己の足音は重かった。一つの芸術品が死んでいくのを聴きながら、陳列棚を抜けてテーブル席の方へ歩み入った。
靴底は床に縫い留められて、視線は客だけに結ばれて、そこで思考は落剥させられた。
革張りのソファには等身大の球体関節人形が座っていた。それを比喩だと言うには、彼女を人間だと断定する為の情報が足りなかった。
灰髪の上でフリルを重ねたボンネットが花開く。無彩色を基調とした丈の短いドレス姿。その装いも人形然としていたが、それよりも彼女の足が人のものではなかった。露わになっている両足は膝を境に切れ目が入り、境目に仕込まれた球体はまさしく人形のもの。剥き出しの脚部には赤いリボンが縫い付けられ、足首から膝下までを鮮やかに編み上げていた。
けれどもグラスを持ち上げる繊手は人間の手だ。彼女は円形の底から丁寧に側面の硝子を引き剥がしていく。剥離した半色の硝子は彼女の口腔に放り込まれ、まるで飴細工でも喰らうように咀嚼されていった。
硬く冷たい音は次第にくずれて、砂を磨り潰す音柄に変わっていく。何も知らずに見れば砂糖菓子を食す少女の姿。だがあれは氷でも飴でもないのだ。にもかかわらず、痛みも不快も感じていない様子で、彼女は桜色の唇を無傷の舌で舐めていた。
グラスの底面だった丸硝子が、一口で頬張られる。ごりごりと砕かれて、ざりざりと溶かされて。満足気に少女は口角を持ち上げた。
白羽を重ねた睫毛が揺れる。ようやくこちらに向けられたのはオッドアイ。檸檬を煮詰めた金眼と、勿忘草を閉じ込めた碧眼。白猫めいた眼差しが、俺の隣に注がれていた。
「お茶をどうもありがとう。グラスがとっても美味しかったわ」
礼を投げかけられたアニカが「いっ、いえいえ!」と数回お辞儀を繰り返す。俺も営業用の微笑を作りながら少女の正面に腰を下ろした。
机上には布製のコースターだけが残され、そこに乗せられるはずのグラスは彼女の胃の中。アニカが提供し、彼女が平らげたグラス。その色を思い返して項垂れたい気分だった。あれはこの国では見られない技術の結晶だ。落胆のあまり、口元に苦笑を漂わせたまま低い声を落としていた。
「そのグラスは海外から取り寄せた貴重なものだったんですけど……」
「あら、ごめんなさいね。今度から大事な物は奥にしまっておきなさい」
「……そうですね」
申し訳なさそうな色を一切見せないビスクドールじみた花顔。優雅に微笑んだ彼女に引き攣った笑みを返して、彼女が客であることを想起して、ひとまず威儀を正した。
硝子を口に含んで負傷しないのか、そんなものを飲み込んで体は大丈夫なのか、そもそも人間なのか、等疑問がいくつも湧き上がるが、その全てを喉の奥で留めていた。
アニカは座らずに、俺の斜め後方で黙ってこちらを見守っている。その視線を感じながら、人形少女に目礼をした。
「当店では硝子製品の製造、加工、販売、それから『悪夢狩り』の依頼を承っています。お待たせしてしまい申し訳ありませんでした。お席にてお待ちいただいたことを踏まえると、目的は商品の購入ではないようですが、どういったご用件で?」
「『悪夢』よ。お父様の悪夢を、壊してくれるかしら」
店の入り口にある看板には、硝子関連の情報だけでなく、悪夢に関する相談を承っていることも記載している。また、街中の外壁にもアニカが描いたポスターが何枚か貼られていたり、彼女が時々チラシを配って回っている為、悪夢に悩まされている人間ならば目に留めてくれることが多い。
尤も、悪夢を狩る、という言葉を不審に思い、信用しない人間の方が一般的だ。神のもたらす奇跡は信じても、人間の扱う不思議な力など異端であり警戒するものだから。
この少女がどれを目にして訪れてくれたかは不明だが、いずれにしても詳細は記載されていない為、しかと説明しなければならない。
俺は一度頷いてみせて、柔らかに問いかけた。
「確認のためお聞きしますが、貴方のお父様はその悪夢をどのくらいの頻度で見ていますか? また、悪夢は全く同じ内容のものでしょうか。俺が狩っている『夢魔』──悪夢を見せる悪魔は、全く同じ悪夢を一週間以上、毎夜見せる存在です。『一週間以上』それから『毎日』に該当しなければ、俺が狩れる悪夢ではなく、一般的な悪夢である可能性があります。一般的な悪夢は時間が解決してくれます」
相手によってはここまでの説明で不信感を抱き、踵を返す客もいる。悪魔を祓えるのは神のみ、という信仰がこの地に根差している。教会での祈りや神父による悪魔祓いのほうこそ、気休めにすぎないというのに。
少女は新雪ほどの白い指を顎に添えて、視線でゆっくりと宙をなぞった。思い返す眼差しは転がったのち正面に据えられる。澄んだ双眼に、懐疑は見受けられなかった。
信じてはくれたのだろう。だが、その目遣いはひたすらに鋭利。アニカに向けていた微笑のほうが仮面だったと思うほど、人形じみた少女は氷の面差しで頷いた。
「少なくともおよそ一週間、毎日魘されているわ。悪夢の内容は知らないけれど。とりあえずお父様のところへ来て、お父様を診てくれるかしら」
「……分かりました。今晩、でよろしいですか?」
「ええ」
「では、こちらに住所の記載を」
「貴方が生まれ育った家よ。書かなくても分かるでしょう? メイス・ヘルブランディ」
棘だらけの声音が耳朶に突き刺さる。実体のない茨は喉に巻きついて息を奪い、そのまま拍動をも絡め取っていくよう。
懐から取り出した紙を机上に置いた姿勢のまま、硬直していた。指先が汗ばんで紙を湿らせる。歪んだ口端を引き上げて和やかな接客を貫こうと思った。だが麻酔でも打たれたかのごとく顔の筋肉は引き攣っており、唇もうまく動かせない。震えながらこじ開けた口からは、噛み潰した棘が吐き出されていた。
「……は?」
それは決して怒りや苛立ちの類ではなかった。『なぜ名乗ってもいないのに俺の名前を知っているのか』『なぜ俺の生家の話が出てくるのか』それらの疑問と警戒が発露しただけだ。それでも男の低声というのは不機嫌に聞こえるもので、自分の発したたった一音が空気を凍らせていくのを感じていた。
少女は意地悪く朱唇を吊り上げる。両手を絡ませた彼女は、指の背に小さな顎をのせて首を傾げてみせる。挑発的な笑み。俺の返答が失敗だったことを受け止めて、謝罪を述べようと思ったが、彼女の笑声の方が先に緘黙を破っていた。
「あら、人違いだったかしら? メイス・ヘルブランディはいらっしゃる? 私はその男をお父様の前に引っ張り出しに来たのだけれど」
こちらを貫く尖り声に、相対する俺はすぐに返事が出来なかった。得体のしれないものを前にした不快感が苦み走る。片笑み混じりの渋面は、少女にくすりと嗤われていた。
机上の紙からそっと指を放した。皮膚と紙が擦れ合う感覚に鳥肌が立つくらい、平静ではない。それを自覚して姿勢を正していく。視界の端で小さな手が翻り、俺を指し示す。割って入ったのはアニカだ。
「メイスさんはこの……ウチの店長で間違いないよ」
「ああ……はい、確かに。俺がメイス・ヘルブランディです。えっと……俺の母はとっくに亡くなっているので、俺の生家はもう他人の家だと思うのですが……」
「父親は?」
少女の無遠慮な口舌に、軽く睫毛を伏せていた。まばたきの都度、瞼の裏に過去が浮かぶ。生まれ育った家での団欒は、俺と母だけのもので、そこに父親の姿はなかった。どれほど時間を遡っても、初めから父親など存在していないのだ。
「いません」
ふ、と吐き出した息吹。少女の笑みは不思議と崩れ出す。憐れみではない。憎悪と言えば良いのだろうか。泥の色をした影が彼女の両目を掻き暗していた。なぜそんな顔をするのか、俺には分からなかった。
彼女の、絡まったままの五指は震えていた。その爪が白い甲を抉ろうと傾く。だが雪膚が赤ばむ前に、彼女はほどいた指をテーブルに叩きつけて立ち上がった。
「生家の場所は覚えているわね? 夜になったら来なさい」
黒い裾が翻る。膨らんでは萎むスカートの影が、店の出入り口を目指していった。店員として見送ることも、会釈をすることも忘れて、呆気にとられ着座したまま数秒。人形少女が退店したのを鈴声で確認し、背骨ががくりと折れて項垂れた。鳥が留まった細枝さながら、己の上体は弓なりにしなったまま。思わず独り言ちる。
「……なんだ、あの女……」
疲労の鳥を払うべく横髪を左右に振るって、白紙を掌で握り潰しながら立ち上がった。ゴミ箱はカウンターの裏にある。無音を踏み鳴らし、ゴミとなった住所記入用紙を箱の中に放り捨てる。
顔を上げると、カウンターの向かい側からアニカが身を乗り出していた。大きな吊り目は興味津々、新しい玩具を与えられた小動物の目だ。
「店長、もしかして妹さんがいたのか……!? だって今のお客さんってそういう……あぁぁ名前! 聞きそびれちゃったな……」
「俺には妹も父親もいません。彼女の言っていることはよくわかりませんが……まあ、依頼は依頼なので、夜になったら外出しますね。アニカも、学校の試験が近いようですし、今日は早めに店じまいにしましょうか。勉強は捗ってます? 隈がひどいですけど」
軽く屈んでアニカと目線を合わせ、隈を指さしてやる。と、彼女は自身の頬を両手で二度はたいて、片手の親指をぴんと立てた。童顔は得意げに笑み曲がる。
「今回の試験はきっと大丈夫だ。ファビアン先生が秘薬をくれたからな!」
「秘薬?」
「そう! えっと……これだ! じゃーん! この薬を飲むと、睡眠の質? が良くなって、記憶力もアップするらしい!」
彼女が本当に小動物だったなら、尻尾を上機嫌で揺らしていたことだろう。ポケットから取り出したピルケースをこれみよがしに両手で掲げ、鼻高々。教師から与えられたというその薬の効果も不明瞭な上、試験がどうなるかも分からないのに凄い自信だ。怪しい薬なのではないかと心配になりつつ、苦笑いを返した。
「アニカは相変わらず詐欺に引っ掛かりそうな単純さですね。睡眠の質って、その隈では説得力ありませんし……この前も妙なものを食べていませんでしたか?」
「詐欺⁉ 薬はちゃんとしたものだし、この前のあれはローデヴェイク様に貰ったただのチョコレートだ!」
唇を尖らせて睨み上げてくる顔ばせに、「そうですか」と微笑み返して背を向ける。客足も遠のいたため、店仕舞いの支度を始める。帳簿に売上を書き記し、軽く店内の清掃をしつつ棚の在庫を確認。やはり食器類の売れ行きが良く、グラスはもうじき作り足した方が良さそうだった。
工房の資材を思い浮かべ、石炭とソーダ灰が少なくなっていたことに気付く。馴染みの店に注文しておかなければな、と手帳に書き留めていたら腕を叩かれて筆致が跳ねた。
辛うじて読める掠れ文字を睨んでから、こちらを覗き込むアニカに目線を返した。
「私はこれからお祈りに行くんだけど、店長も最近眠れていないみたいだし一緒に行ってみないか? お祈りは安らかな眠りへ導いてくれるんだぞ~!」
「はあ……安楽死のお祈りですか?」
「安眠!」
頬を膨らませるアニカに手を引かれるまま、店の外へ。扉を施錠してから彼女の影を追いかける。活発な少女の足取りは軽やかに通行人を縫って進む。
路地を抜けた先の晩照は眩しかった。夕刻の色差しは炉の中の硝子とよく似ていた。けれど、熱に染まった硝子の方が美しいと、俺は思う。
夕景に焼かれた水晶体が溶け出す前に、人混みに焦点を移していた。




