月痕─Goedemorgen─6
(六)
目覚めた体はやけに重い。ローデヴェイクに飲まされた薬の作用が残っているのか、頭痛も酷かった。瞼を持ち上げ最初に認めたのは深紅の絨毯だ。己の長髪と、流れ出た命の色が花瓶模様を彩っていた。
羊毛に爪痕を刻んだ自分の片手は自由に動く。入眠前に硝子ナイフを突き刺したはず。なのに今は凝固しかけている血液だけがその手に残っている。夢中に落ちる前、俺が座っていた椅子は、斜め前方に転がっていた。
「勇敢だ。自分が死ぬかもしれないのに彼を庇うなんて」
耳鳴りを縫ってローデヴェイクの毀笑が響いてくる。彼の台詞を噛み砕く前に戦意が先走って上体を起こしていた。そうしてようやく、俺に凭れかかっている人物に気が付いた。
俺が起き上がると、脱力しきったリーセロットが膝の上に倒れ込んでくる。
「っ、リーセロット……?」
「……おはよう、ねぼすけさん」
冗談交じりに吐き捨てて咲笑う彼女。あざらかな朱唇は口紅ではなく喀血。こちらのシャツにしがみついた繊指は痙攣しており真っ赤だった。息を呑んで彼女を抱き起こす。背中を支えた掌にべったりと膏血が付着し、背筋が粟立つ。
彼女が背後から撃ち抜かれたのは明白。銃創の位置からして肺を負傷している恐れがある。
「手当てを……ッ」
「ばか、ね、貴方が今やるべきことは、違うでしょ……」
彼女に伸ばした手は硬いもので叩き落とされ、眉を顰めた。諦視したのは銀色の輪。俺に手錠を押し付けたかと思えば、彼女は気丈に微笑んでいた。物陰が氷肌の蒼白さを深めており不安になる。
俺は倒れている椅子に手を突いて立ち上がった。華やぐ窓明かりに眇目する。かえりみた室内で銃口が黒光りしていた。
ローデヴェイクとの距離を一瞥し、リーセロットの位置を再度確かめる。椅子を押しのけて一歩前へ出た。角度を変えて倒れた椅子はリーセロットを庇蔭する盾となるだろう。
「お嬢さんは脱落かな? 今度はメイスくんが相手をしてくれるのかい?」
くつくつと喉で笑いながらも、彼も万全ではないようだ。ジャケットの左肩には銃創。恐らくリーセロットに撃ち抜かれた後、交戦中に彼女が使用していた拳銃を奪い取ったと思われる。
「……そうですね。俺が相手です」
撃鉄の落ちる音。俺達の余地にはなんの障壁もない。真っ直ぐに定められた彼の照準。弾道になど乗るものか。
弾丸が放たれるよりも早く、俺は斜向へ駆け出した。銃口から目を逸らさず迂回して着実に彼の懐を目指す。筒音が響く。一発。火花が咲く。二発。硝煙が風に色を与える。三発。屈み込むとティーセットの載ったワゴンが銃弾を弾いた。ポットの破砕音が甲高く上がり、四発目の筒音ののちにワゴンが倒れた。
銀器の快音を頼りに絨毯から手繰り寄せたバターナイフ。ワゴンの陰から躍り出てバターナイフを投擲。狙いは彼の顔面。当たらなくてもいい、白光を弾く銀器の光条が目晦ましになればそれでよかった。
ローデヴェイクは反射的に陽だまりから顔を逸らして銃の構えを緩めた。彼が向き直る──こちらもちょうど彼に追いついている。
踏み抜いた彼の影。撃鉄を鳴らした銃身を睨み据え、引鉄が引かれる前に彼の右手首を掴んだ。そのまま銃口を壁際へ向けさせる。尚も発砲した衝撃がこちらの腕にまで伝播する。彼の腕を離さぬようその腕首が軋むほど握り潰した。
銃声、銃声、銃声。繰り返しているうちに彼は左肩が痛んだのか一瞬の隙を見せた。その空隙で拳銃を奪い取るや否や発砲する。放った弾丸は彼の革靴を貫通した。
「ぅぐっ……!」
拳銃は用済。すぐさま棄擲。空いた手でローデヴェイクの左腕を捻り、同時に撃ち抜いた片足を絡め取って押し倒す。
塵埃が仄白く漂う。呻きながら仰臥した彼に跨り、その手首に手錠を引っ掛けた。銀と鎖の音差しに、天色の双眸は瞠目していた。
「ローデヴェイクさん。連続殺人の犯人が貴方であることを、警察に告白してください。その殺し方が警察に信じられなくとも、自分が犯罪者であることを、貴方の言葉で訴えてください。元警察官だった貴方なら、凶器が見つからずとも何を供述すれば犯人として認められ逮捕されるか、分かりますよね。もし貴方が何の罪にも問われずに帰されたなら、俺がこの手で殺します」
両手首を封じた彼の胸倉を掴み上げる。かち合った瞳孔を眼勢で射抜いた。雲一つない碧落を切り取ったアクアマリンの虹彩。その暗影が晴れ退くことを切願して見交わす。彼は眉尻を下げて片笑むと、観念したように頷いていた。
「……君はちゃんと、フランカの血を継いでいるな」
「なにを今更」
「初めから、私が君の父親だったなら良かった。あんな男とは違う形で、君を正しく愛してやれたかもしれないのに」
子供に慕われている大人の顔に戻って、彼は温和に目を伏せる。彼だってレイナウトと同じ穴の狢だ。母を蘇らせたとしても、それは母の姿をした別人。面影を重ねられる都合のいい存在が欲しいだけ。
だけどその事実を突きつける気にはなれなかった。立ち上がると陽射しに包まれて、不思議と息がしやすい。
「あんな男でも、アレが俺の父親です。俺は父の行いを許しません。それでも、あの男が父であることは認めて生きていきます。だから貴方は俺の父親にはなれない。俺は、誰かを誰かの代替品にしたくありません。貴方のことは父の代わりではなく、貴方として……信頼したかった」
「……君の信頼を、裏切ってしまったな」
「ええ。良い経験になりました。それでもまだ信じさせてください。貴方が、自分の罪を認めて償ってくれることを」
横たわったままのローデヴェイクから目を逸らし、散乱する家具の方へ爪先を向けた。リーセロットは椅子を支えにして立ち上がっており、こちらへ歩み寄ろうとしていた。
ふらついている彼女に駆け寄って控えめに支える。と、よほど力が入らないのか、思い切りしがみつかれて戸惑った。
「リーセロット、あんたは病院に……」
「必要、ないわ。時間が経てば治るって、私の付喪神が言ってた。……恥ずかしいことに貴方を助けるのに必死で忘れていたのだけれど、私の本当の心臓はとっくに止まっていて、お父様と付喪神が今の私を生かしてくれているのよね。華々しく散ってやろうかと思ったのに、これじゃあ死ねないじゃない」
「死にたかったみたいな言い方やめてください、縁起でもない……」
「っふふ、冗談よ。絶対に貴方より先には死にたくないもの。だから貴方も長生きしなさいよね。私は後で優雅に帰るから、とっととあの男を警察に連れて行きなさいよ」
俺から離れたリーセロットはよろめくこともなく、倒れていた椅子を自ら立て直して飛び乗るように腰かけていた。床から何かを拾い上げたかと思えば、硝子製のシュガーポットと硝子ナイフ。シュガーポットに噛みつきながら付喪神と雑談を始めた彼女に溜息が零れる。
暗がりへ戻ってローデヴェイクを立たせる。負傷している左半身を支えてやりながら、彼を陽の下へ導いていく。
「ローデヴェイクさん。これから貴方を、警察に連行します」
「ああ……。あの子……夢魔のことだが、協力者である私が刑務所に入ってしまえば、人の体内に入り込む術を失う。だから安心しなさい」
あの子。その呼称からも口舌からも、教団の子供達に向けるような慈愛が感じられた。
味わった難色の顔料は苦々しい。彼を視界から外したら、廊下を粧飾する壁掛け鏡に己の仇視が反射していた。前に向き直って唾棄を吐く。
「……夢魔の本体は、どこですか」
「さて、忘れてしまったな」
白状する気はないのだろう。まるで子を庇う親。夢魔は人の子でなく、まして性善説が通じる相手でもないのに。
とはいえ、夢魔はどうやら"契約者の血液を人間に喰わせなければ"人の夢世界を侵蝕出来ない。終戦になるのか、休戦になるのか。いずれにしても、万が一未知の抜け道を利用した夢魔が、新たな被害者を出すのなら。その時は今度こそその本体を狩るだけだ。
室外に出るとローデヴェイクは一度だけ足を止めていた。彼が振り仰いだのは、彫刻の白い雛罌粟だろうか。
否、その目見が皺を生んでから気付く。
いずれ老朽する花の日輪ではなく、尽きることのない火輪の光を、彼は見据えていた。不意に彼はこちらを打見して、目を細めていた。
「君も警察官を目指したら良かったのにな。良い警察官になれたはずだ」
「……冗談を。俺には向いてませんよ」




