月痕─Goedemorgen─5
(五)
朽ちていく奔星を横目に鏡の扉を押し開ける。不快にさざめく闇路を踏み鳴らした。
ローデヴェイクに語られた己の過去が、今も百足のように肌を這い回っている。恐ろしさよりも、苦しさよりも、自身の弱さに対する憤りで切歯していた。
靴音はメトロノームさながらに淡々としている。意識的にただ前だけを睨み据える。今の自分が怯えて蹲るような子供ではないのだと思い込んでいたくて、決して威儀を崩さなかった。かつて砕いた記憶の破片を今は払い落としていく。
付喪神の言う通りだ。俺はただ夢魔を狩ればいい。悪夢の容貌は予想がついている。進みながら腹は括った。
『彼女』がいなければ俺の畢生はとっくに終わっていた。救われていたのだ、と口にするのは簡単で、きっと当人は『大げさだ』と笑うかもしれない。それでも信じて欲しかった。
だからこの夢を抜け出すために生き抜いてみせる。君の人生が一人の人間を救い、今なお生かし続けてくれているのだと、この身をもって証明する。
救われなかった弱き少年はもう存在しないのだから。
暗幕を払い除ければ、そこは夕紅が張り詰める街並み。水沫と風声だけが聴覚を揺さぶる幽境。
噴水を取り囲んで円形に広がる煉瓦道は心寂れている。ベンチに腰かける者はなく、店先や集合住宅にも人影はない。
雑踏の潰えた広場の只中で、一人の少女だけが茜色の水飛沫を見上げていた。
少女は暗褐色のスカートを摘まんで振り返った。肩口で切り揃えられた茶髪が空気に流れて彼女の面貌を露わにする。菫を煮詰めた飴玉が、吊り目の眼窩で転がった。歯を見せて笑う花顔が生前の彼女そのもので、俺は奥歯を噛み締めていた。
アニカの姿で、夢魔が芝居がかった会釈をする。それは、アニカが歌う前に行っていた所作に似ていた。
『またお会いしましたね。前回はとても楽しかったです。あんなに血の味が口腔に溢れ返ったのは初めてでした』
「喋らないでください。不愉快なので」
『ひどいことを言うのですね……あぁそうか! この体が貴方にとって特別だから、この顔で喋るなって言いたいんですね? ふふ、良いじゃないですか。こうして生きている彼女と再会出来て、本当は抱きしめたいくらい嬉しいでしょう?』
「……思い上がるな。あんたはアニカじゃない……ッ!」
執刀した硝子ナイフを真っ直ぐに突き出す。彼我の距離を、間合いを、息吹を、刹那に押し裂いた刺突。狙いは喉頸。感触が今に届く──その信心めいた殺意は残香だけを貫いた。
奴の逃避先は中空。鳥の如く高く跳び、紅鏡の円光に呑まれた形影。着地点は街灯の傘。鈍く撓んだ金属音が鐘声さながらに反響する。
睨み上げた先で奴は片腕を蠢かせ、血色の鉤爪へと変形させていた。細い足場で器用にも屈んだ敵影。とられた態勢は飛び出す猫そのもの。
来る。確信が己の片足を引き下げ、石畳をざらりと鳴らす。決然と地を蹴って後方へ退避。地鳴りが鼓膜を劈いた。暴風に随伴して舞い上がる砂煙。鉤爪は地面に亀裂を走らせ、石礫を降らせる。
角膜が砂粒で滲む。立ち込めた紅塵を先んじて破ったのは夢魔だ。意趣返しのつもりか直線的な突きを睨視し、半身を下げて躱す。奴は猛進の勢いのまま俺の前を通過──させはしない。
奴の細腕を絡めとり己の手を返す。そのまま引き寄せるように赤黒い手首を内側へ捻り込む。普通の人間ならばこれで態勢は崩れる。だが悪魔は、自らの腕を更に捻り上げた。
「くっ……!」
呻いたのはこちら。奴は桜唇を吊り上げて余裕の一笑。赤黒い腕が雑巾さながらに絞られていくほど、奴を掴んでいる俺の腕まで巻き込まれていく。互いの手は繋がったままほどけない。このままでは圧し折られる。
咄嗟に奴の腹部を蹴り飛ばした。重なっていた影が分離して白んだ石床に猩血がぶちまけられる。引き千切られた片腕は肘から血走り、激痛を訴えながらどくどくと脈打っていた。
額に滲んだ冷汗を片手の甲で拭い、震える息を噛み殺して刃を構え直す。しかし両肩が酷く上下し、剣先を惑わせる。
夢魔は花売りの木造ワゴンもろとも地面へ倒れ込んでいた。奴が体を起こせば、根を露出させた土と壊れた木材が苦く香る。色とりどりの花弁がはらめいた。白薔薇の花びらを毛先から零して、奴は泥だらけの童顔で笑みを深めた。
腥風が荒れ狂う。剣戟の金声が、噴水の水声を掻き払う。
鉤爪は幾度も落日を裂いて迫った。覗機に徹し後退を繰り返す視界は点滅し続けていた。切り苛まれる日華は白く、赤く、朱殷に、目眩く塗り替えられる。深手を避いても無傷ではいられない。視覚がもたらす彩が己の消耗を黙示していく。
片腕の出血が多い。血が止まらず、足跡は血痕まみれ。防戦一方に滲んだ焦慮は足付きを切り替えた。
夢魔の攻撃を回転して回避、廻った勢いで踏み込み片足で弧を描く。肋骨を折るつもりで力を込めた脚部。しかし奴は徒手でそれを受け止めていた。足首を掴まれた、と理解した時には既に風景が巡っている。
「──ッ!」
空無へ投げ出された体は鉄製のフェンスに衝突。歪んだ脊椎に臓物が押し潰されて一瞬の窒息。石畳に転落してから吐き出した呻きは鉄錆の味がした。
硝子ナイフを地面に突き立て、震える体を起こしていく。笑声に目を向ければ夢魔が長物を構えていた。槍代わりのそれは地面から引き抜かれた街灯だ。
重力に従って暴力的に打ち下ろされる街灯。その影が傾き、その影に己の一切が呑み込まれるまで、ただ息をしていた。
反転──地を転がってから跳ね起きる。硝子の悲鳴が上がっていた。街灯に張られていた薄硝子が星散し、石畳を煌めかせていた。
涼やかな余韻を奪った空気の断裂音。奴の追撃は早かった。長柄が横薙ぎに振るわれている。間合いが広い。退避するなら下──間に合わない。
思考に置き去られた体は奴の攻撃から逃れられず打擲されている。遠心力を纏った街灯の傘は側頭部を殴った。頭骨が砕けたと思うほどの衝撃に打ち払われ、噴水の縁に倒れ込んでいた。
放り捨てられた街灯の音は喧しかったはずだ。だが、今はそれよりも間近にある水音がひどくうるさい。豪雨に晒されている錯覚に陥る。全身が冷え切って痺れていた。震盪した脳がうまく働かない。
片腕の切断面を縁石に押し付けるも、血と脂で滑って俯伏してしまう。硝子ナイフを握っている腕は痺れていて感覚がまだ返らない。縁石に這いつくばって虫の息を吐いていれば後ろ髪を掴み上げられた。
「っ……」
『殺す前に一つ訊いてもいいですか? 愛してもらえた、と思った後に捨てられるのは、悲しいことですよね?』
「は……」
『愛されなければ自我など抱かなかったのに。人間は私を生み出しておいて、私が喋ると簡単に放り捨てた。ねえ、こういう時の感情を、人間は"悲しかった"と、言うんでしょう?』
朦朧としていた意識は少しずつ醒めていく。掻き曇っていた目路が鮮明に像を結んでいく。痺れも薄れてはいるが、反撃に移れるほど力は籠められない。距離を取ろうにも髪を引かれてされるがまま。
それでも手骨が浮き上がったのは憎悪のせいだ。初めて哀韻を紡いだ夢魔に、尚も憐れみの類など湧いてこなかった。
アニカの声で、アニカを殺した悪魔が、悲しいだなんて口にするな。
『私もここから出て行きたいんです、悲しいから。だから私はもっと血肉を喰らわないといけない……』
片目の端で赤黒い鉤爪が狙いを定めている。先程街灯で負傷させたこめかみを、今度こそ潰したいのだろう。
横撃の気配に牙噛みながらも、俺は己の後頭部目掛けて素早くナイフを振るい上げていた。
『私が自由を得るために!』
断ち切った後ろ髪。火片の如き深紅が四散して無彩色の敷石を赫と綾取る。体は拘束を断ったことで石畳へ崩れ落ちている。奴の鉤爪は空だけを薙いだはず。頭上に散った颯声に靴音を重ねた。
跪いた姿勢で右足を旋回する。夢魔の足首を払いのけ更に左足を転回──立ち上がりざまに奴の脇腹へ驍悍な一蹴をねじ込む。
ダークブラウンの布帛がひらめいた。水泡の破裂音が連続する、余沫の寒声。夢魔は受け身もとれずに噴水の水溜まりへ転がり込んでいた。
水面に沈き、うつ伏せに倒れている夢魔。その身体が起こされる前に奴の右肩を踏み抜いて背中へ跨った。片膝立ちの姿勢で逆手に持ち替えた硝子ナイフ。剣尖はひとえに一点へ繋いだ。
足を濡らす水の冷たさが、鳴り止まない淅瀝が、深怨の熱さを思い知らせる。太刀筋を揺るがす熱など要らない。外皮から心髄までを冷やしたくて、深く息衝いた。
「……その人格のままでは、殺人鬼にしかなれませんよ。生憎、人食いの野犬を手懐けてやるような呑気さも、俺は持ち合わせていません」
浅瀬から逃れられない夢魔は声を発することが出来ず、泡だけを生みながら頭を振るって藻掻いていた。見慣れた茶髪が波紋を広げて苦しむ様は本当に悪夢だ。思い出が歪曲されていく不快感に眉を顰める。
迷情はない。一振りで殺せる。これ以上の冒涜は、させない。
「だからあんたはこの檻で死んだ方がいい」
現前の後頭骨を圧砕した。そのまま硝子ナイフへ魔力を捧げる。血液が針のように尖り、疼痛とともに血脈を這い上がっていく。付喪神に吸い上げられた生命は瞭たる青を氷刃に灯した。
紺碧の燐光が秋水に集い、やがて群れた青は散渙する。
穿孔した頭部は呆気なく形無く朽ちた。代わりに硝子玉が浮かんでいた。亡骸は血と灰を滲ませて崩れ出す。水盤が赤く、黒く、濁り始める。
硝子玉を掴んで目を閉じた。噴水口から篠突く零雨が、伏せた瞼を縫い付けていった。
「……アニカ。君は、優しい夢を見続けてください」
彼女と過ごした日々が全て、この硝子に宿っている。悪夢へ成り果てるほどの悲痛が、恩愛が、ここにある。
抱えきれないほどの苦痛を、かつては砕いて忘れていた。だが、逃げるのは終わりだ。彼女の記憶が痛みでも、絶対に砕きはしない。
罪科の硝子を懐に収めた。硝子ナイフを構え直し、濡れそぼった足で立ち上がる。
「付喪神。終わらせに行きましょう」
『……良い表情になったな。いや、髪型のせいか? 現実でも切ったらどうだ』
髪。戦闘に必死だったから忘れていたが、そういえば肩甲骨よりも短く切ったのは初めてだ。
長い髪は呪いのようだった。どうしてか切ってはいけないと思い続けていた。実父による支配が恐れとなり、記憶を砕いても体に残っていたせいだと、今はわかる。
だけど切り捨ててしまったらひどく軽い。この軽さは落ち着かない。背負わなければならない重みまで、忘れてしまいそうで。俺は生涯この軽快に慣れることは出来ないだろう。
居心地の悪さを覚え、現実に戻るべく閉目した。
「茶化さないでください。いいから詠唱を。──〈繋げ。現は空夢へ帰す〉」




