月痕─Goedemorgen─2
□(二)
先日のフルーツタルトは流石に大きすぎたのではないかと反省し、私はフルーツサンドを作って硝子工房に向かっていた。午前中の街を歩くのは苦手だ。楽しげに通学する子供や、仕事の準備をしている大人の目が全て棘のように刺さるから。
『学校へ通う年頃だろうに、あの子はどこに行くのか』言外にそう告げられているのを肌で感じながら、石畳だけを見つめて歩き続ける。白日で煌めいていた小石達は、蒼然とした影に覆われて艶を失った。路地に踏み入った安心感で頭部は引き上げられていく。
硝子張りの店に焦点を結んだとき、ちょうどそこの扉が開かれていた。
小暗い隘路でも華やぐ深紅の長髪。紺藍のケープの立襟では、留められていないベルトが緩やかに踊る。コツ、と、彼の黒いブーツが石を鳴らした。
彼の歩みに合わせて揺れる長い裾。スラックスの上に重ねた筒状の布地はウエストエプロンの代わりだろうか。腰に巻く形で後ろからぐるりと回した布一枚、それに前垂れを合わせたようなデザイン。スリットは開閉出来るようで、布の合わせ目には金具が縦に並んでいる。
彼は裾の左側のみ金具を解いて、レッグホルスターの巻かれた片脚を晒していた。歩きながら茶革のウエストポーチに手帳を収める彼。私に気付くと、不意に足を止めていた。
「リーセロット。もしかして、ウチに用でしたか?」
「そうじゃなかったら、この道は通らないでしょうね」
「ウチの他にも良い店はあると思いますが……」
名花のような顔立ちがふっと綻ぶ。困り笑う彼に、何から会話を始めるべきか懊悩してしまう。差し入れを持ってきた、と突然言うのはおかしいだろうか。一緒に朝食でも、と誘う方が自然か。
私が溜息で間を繋いでいたら、メイスが一歩踏み出していた。
「すみません、俺は今から行くところがあるので、またの機会に」
「は……っ待ちなさい、いつも暇そうな貴方がどこへ行くって言うのよ。私も付いていくわ」
「あんたが付いてきてどうするんですか……知り合いに呼ばれたので会いに行くだけです。夕方か夜なら店に戻ってると思います」
袖を引いてもやんわりと解かれてしまう。唇を歪めて諦め、遠ざかる彼の背中を睨みつけていたら、彼が「あ」と間抜けな一音を零していた。灼然たる赤がさらりと街並みを色付ける。絡まることを知らない柳髪を風に遊ばせて、彼は一度だけ振り返った。
「先日のフルーツタルト、全部食べました。美味しかったです。お菓子作り、上手なんですね」
微笑みは大通りの陽射しに溶かされてしまう。彼は光の満ちる角を曲がっていった。その影さえも見えなくなってから、私は鞄の紐を握りしめていた。
鞄ごとフルーツサンドを押し付けてやればよかった。なんとなくむかつく。嬉しさと苛立ちで膝を抱え込む。
大息を吐き出して、心を落ち着かせていく。どのくらいのあいだ道端で屈んでいただろう。賑やかな声が遠くから聞こえて、私はようやく立ち上がった。
結局自分でフルーツサンドを頬張りながら帰路を辿っていく。様々な店が開店時間を迎えており、街は活気付いていた。幸い買い食いをしている通行人も多く見受けられ、私の食事もさほど目立たなかった。
甘いパンの香りや、塩胡椒と肉の匂いが混ざり合う。どれも美味しそうだけれど今の私はどれ一つとして買いたいとは思わなかった。
心臓に硝子の付喪神が宿ってから、普通の食事も可能ではあるが、美味しいとは感じない。後味の物足りなさは硝子への希求を舌に残した。渇望するほどではないけれど、目の前にグラスを差し出されたら簡単に平らげてしまうだろう。
広場の噴水を横目に歩いていたら、ヒールに何かが引っかかって転びかけた。顰め面で拾い上げたのは新聞紙だ。その紙面には小さく、連続怪奇事件について記されていた。被害者の名前としてアニカの名も挙がっており、気付けば紙の端を握りしめていた。
どうして、あんなに明るくて良い子が、殺されなければならなかったのか。
尋思に浸るほど臓物が煮え繰り返る。
夢魔による連続殺人について、文字を追いながら思い返す。遺体を実際に見ていないため、その明確な形は想像出来ない。だが記事から連想される夢魔の喰い方はまるで鼠の共食い。柔らかな顔から食べ進めて後頭骨を残す。
私の知る限り、鼠とは"穢れ"であり、悪魔と結びつく動物。"時間の持つ破壊性"や"疫病"を象徴する生物だ。夜の秘密の活動を示唆し、冥界のシンボルたる一面も持つ。
二週間の時間をかけて夜毎人を壊す夢魔は、その性質を敢えて模しているのだろうか。
だが何故、鼠じみた食べ方を? 人型を象るならば人間の食べ方を真似すればいいものを。
「人型を、象る……」
悪魔は生まれながらにして人ではないのだ。人らしい生き方も行動も知らない。見たモノから情報を得て学んでいるのかもしれない。
人間の食事風景よりも、鼠が食事をする姿の方が、夢魔にとって近くで観察出来るものだったのなら。夢魔の本体はきっと──薄汚く荒廃した場所にある。或いは、あったのではないか。
熟考とは時間を溶かすもので、いつの間にか煉瓦造りの家へ辿り着いている。白い玄関ポーチにはスーツ姿の男が立っていた。今来たところなのか、それとも数刻待っていたのか。「ファビアン先生」と呼びかければ彼はくるりと振り返った。
「学校はどうしたのかしら。まだ朝よ」
「私の学年はもうしばらく休みになっている。同級生が亡くなったことに対する学校側の配慮だ。だから手が空いていてな。前回の課題の返却と、別の課題を持ってきた。上がってもいいか?」
「……ええ、どうぞ上がって」
木造の扉を開いて彼に入室を促す。不意にメイスが、彼を疑っていたことを思い出した。
被害者達に何かを摂取させ、夢魔を取り込ませている黒幕。寝たきりのお父様に何かを飲ませた犯人。その容疑者と、今から二人きりになる。そう考えたら息が詰まりそうだった。
だが、ファビアンはそんなことをする人間ではないし、善良な教師だ。彼ではない。己にそう言い聞かせて深呼吸をした。
額縁の飾られた廊下を通り過ぎ、彼を座席へ誘導する。私は台所で紅茶の用意を始めた。シンクの向こうがリビングになっている為、湯を沸かしながらでも彼の様子が窺える。
革製の鞄から封筒を取り出して書類を整理し始める彼。それを横目に、ティーポットを傾けた。
「先生は、あの事件のあと眠れなくなったりしていないかしら? 私はあまり眠れていないのだけれど」
「そうだな……考えることが多くて睡眠時間を削ってはいるかもしれない」
「あら。でも良いお薬をお持ちなんでしょう? 寝不足の生徒にも、安眠出来るようにってお薬を渡しているのよね。噂で訊いたわ。それって先生ご自身が調合したもの? それとも薬局で購入したものかしら」
果実と糖蜜を混ぜ合わせたような紅茶の芳香が広がる。赤褐色の水面が波紋を生んでいた。甘い湯気に目を細め、ティーカップをファビアンの座右に運んでやった。
私は彼の正面に腰を下ろし、差し出された紙束を確認する。答案用紙にはいくつもの赤い丸が記されており、間違えた箇所には赤いインクで解説が書かれていた。
「君が誰から何を聞いたのかは知らないが、アニカ・スミットに渡していた薬は薬局のものだ。流石に私でも薬の調合は出来ない。元々、私が寝不足の時に処方されたものなんだが、結局使わずに残っていてな」
「それを医師や薬剤師に相談せず、個人の判断で他人に譲るのは良くないことなのでは?」
「……あまり良くはないだろうな。だが、単なる睡眠不足ならば役に立つと思ったんだ。とはいえ実際に効果があったかは分からない」
陶器の擦過音が涼やかに鳴る。ファビアンは数度喉を上下させてから、鞄を漁り始めた。彼の眼鏡が室内光を受け止めて白く染まる。レンズを拭いている余裕もなかったのか、煙を浴びてきたかのように汚れて見えた。
煙や煤の立ち込める場所は、荒れたイメージと結びつく。意識の外へ追いやった熟考が戻ってきて、私の興味は答案よりも事件に向かっていた。
「先生。この辺りで鼠を見たことはある?」
「鼠……? どこにでもいるだろう。学校の倉庫でも頻繁に見かけるぞ。──次の課題はこの封筒にまとめておいた。一週間後に取りに来るから、終わらせておくように」
倉庫。たしかに、倉庫ならば清掃や管理が行き届いておらず鼠が現れる所も多い。だが、倉庫なんて民家にも店にも備えられているだろう。絞り込むには該当する建物が多すぎる。
倉庫や地下室のような空間に、夢魔の本体が閉じ込められていたとしたら、夢魔の契約者はそこから夢魔を──救い出したのだろうか。
顎に手を添えて細思していると、目の前が青黒い影に塗り潰される。背筋が凍り付いて総毛立っていた。肩に置かれたファビアンの手が、強い力でパフスリーブに皺を作る。ささめきは凶器のように冷厳としていた。
「リーセロット。探偵ごっこならやめておけ。私は教え子を二人も死なせたくはない」
彼の手が離れて、ようやく身動きがとれる。体は錆びたガラクタみたいにぎこちなく動作する。浅い息を繰り返しつつファビアンを見上げたら、彼は苦笑いを浮かべていた。その目元に疲弊を見つける。
私の返事を待たずに、彼は空気を切り替えた。
「紅茶、美味しかったよ。お手洗いを借りてもいいか?」
「え、ええ」
頷きを返して、私は空になったティーカップを手繰り寄せる。彼はスーツの乱れを念入りに整える。私が台所の蛇口を捻った後で歩き始めていた。
カップを洗いながら眉を顰めた。思えば、いつもそうだ。この人は毎回途中で席を立つ。
耳を澄ませたが革靴の音は小さく、聞こえづらい。意識的に靴音を潜めているような足遣いに違和感を覚えた。まだ洗い終えていない食器を放置し、濡れた手を拭いつつシンクに背を向ける。
足音を忍ばせてファビアンを探す。廊下に彼の姿はなかった。階段を見上げると、ちょうど二階に上がった彼が見えた。
何故、と思えば思うほど心拍が早くなる。私は踵の高い靴を脱いで片手に提げ、音を立てぬよう階段を上り始めた。一段一段、踏みしめるたびに息苦しくなっていく。
二階の廊下に顔を出す。一部屋だけ扉が開いていた。そこは、お父様の部屋だ。
踏み出す足が震えていた。扉の傍まで歩み寄り、壁に背を預ける。木板に這わせた己の手がやけに汗ばんでいる。
室内をそっと覗き込むと同時、息を止めていた。気付かれぬようにと窒息しそうなのはファビアンだってそうだろうに。彼は悠然と、サイドテーブルから薬袋を摘まみ上げていた。
中身を確認する彼。紙袋の中からは皺だらけの包み紙が抜き取られていた。次いで彼が注視したのは黒い手帳。表紙には白いヒナゲシの花が刻印されている。それを捲っていく姿に食いついてしまう。何を見ているのか、何を探っているのか。気になって仕方がない。
そうこうしているうちに、指先の力が緩んでいた。
──ゴトッ、と。片手に提げていた靴が床へ落ちていた。
咄嗟に影の中へ顔を引っ込めたが、心臓が跳ねあがって肋骨を押し上げる。見下ろした足元で、私の靴は光を浴びて艶めいていた。すなわち、扉にも壁にも遮られぬ場所に、靴が転がっているということ。
逃げるには遅い。このまま隠れていても無意味。観念して姿を現し、ファビアンと真っ向から向き合った。
やはり気付かれていたのだろう、彼は既にこちらを見据えていた。
彼の背後には眠っているお父様。お父様を置いて、逃げ出すわけには、いかない。
「お手洗いは一階よ。何をしているの、先生」
眼鏡の向こうで、切れ長の双眸が細められる。その色差しも相俟って彼の目見は柳の葉を思わせる。革靴が数度、寂寞を叩いた。
カーテンから滲出した陽光を浴びる彼。逆光の中で赤みがかった茶髪が暗らかに染まる。天日に塗られた後ろ髪は、燃え上がる木材のように煥乎としていた。
「忠告したばかりなんだがな」
溜息混じりの声柄が静かに零された。彼は懐に手を伸ばした。拍動が、鳴き騒ぐ。彼にまで届いてしまいそうなほど、心音がうるさい。己の服に触れてから気付く。
今、私は丸腰だ。拳銃を身に着けていない。
呑み込んだ唾が喉を塞いでいく毒みたいだった。瞬きすら許されぬまま、立ち続けるのが精一杯だった。
彼のジャケットから引き抜かれた物質が、返照を散らしていた。




