紫苑─Ik zal je niet vergeten─6
押し潰した頭蓋骨は今や熟れた果実。そこから迸った血紅色よりも、色深しく青やかな魔力の溢流。炎さえも青に感化され暖色を透過していく。
夢魔の体は終に焼け落ちる。人型は煙を上らせながら、点火した端から細片に。
魔法の青が散ると大火も治まっている。焦げた百合たちを死灰が粉飾しており、無彩色の足元は日没の雪景色みたいだった。
塵を払って球体を拾い上げる。ミハエルにとって、恋人との日々が詰まった空夢硝子。それをウエストポーチに仕舞い込み、リーセロットの方へ歩み寄った。
座り込んだまま、前腕を失くした袖先を握り続ける彼女。ひざまずいて手を伸ばしたが、触れたところで癒せはしない。だから腕を垂下させていた。顔色を窺わせない彼女に、頭を下げる他なかった。
「すみません。傷付けさせるつもりはなかったんですが、力不足でした」
「貴方だって、傷だらけのくせに。なに、言ってるのよ……このくらい平気。それに、ちゃんと守ってくれたじゃない」
痛みが引かないのだろう。苦悶で途切れる声付きに、俺は安堵出来なかった。だが顔を上げたリーセロットはどこか誇らしげで、脂汗を浮かべながらも片笑んでいた。
彼女の手首を軽い力で引き寄せる。流露しだした彼女の悴みを、掌理に包み入れた。
「現実世界に、戻りましょう。それで傷は治ります」
「ええ……」
硝子ナイフを水平に据え、目を閉じる。得物に捧げる魔力が己の脈を這い回る。閉じた瞼には青い残光。痛みの炉で蒼玉が液化していく空想を、眼裏で見つめていた。
「〈繋げ。現は空夢へ帰す〉」
『〈閉目せよ。戻れ、辿れ。汝の籠はあばらの奥に。置き捨てるは蝶の一生。現に戻りし人の子よ。開目の刻、籠は閉じられた〉』
繋いだ手は離さない。幽暗の中でほどけてしまわないように、細腕の実体を確かめる。
青ばんだ闇に、覆われていた。風影は、花信風に類する温もりを内包していた。
(四)
紅燭が瞼の向こうに灯される。目を開ければ生活感溢れるリビングにいた。正面にあるソファではミハエルが寝息を立てている。
肩に凭れる重みを確認すると、リーセロットの頭が押し付けられていた。
夢世界では俺が彼女の手を握っていたが、現実世界の俺達は入眠前の姿勢のままで、リーセロットがこちらの手首を包み込んでいる。
彼女の雪膚が無傷であるのを確かめていたら、灰色頭は身動ぎしたのち首を真っ直ぐに据えていた。目が覚めたのだろう。俺から手を離し、椅子代わりにしていたテーブルから着地するなり数歩遠ざかる彼女。その影を目の端で捉えつつ俺は硝子ナイフを一旦卓上に置いた。
革張りのソファが軋み鳴く。ミハエルが寝ぼけ眼をじっくりと回していた。
「メイス……? 俺……」
「すみません、リーセロット。外で待っていてもらえますか?」
「男同士の大事なお話しかしら。長くなりそうだし、先に帰るわね」
「え、ああ。分かりました。気をつけてください。もう夜更けですから」
気を遣ってくれたのか、リーセロットは流れるように踵を鳴らしていった。
開いた扉から吹き込んだのは夜音を打つ雨。その拍子は耳に残り、扉が閉ざされていても雨声が聞こえてくる。
ミハエルはソファの上で上体を起こして座り直している。まだ眠たげな彼を前に、俺は一呼吸落として拳を固めた。
「ミハエル先輩。一発殴りますね」
「は──」
気抜けた顔に拳固を打ち込んだ。彼の頬骨とぶつかりあった己の手骨がじわりと痛む。とはいえ当然、彼の方が痛かっただろう。鈍い音を伴って金髪が跳ねていた。
しん、とした部屋で零雨がささめき合っている。横顔を晒す格好で硬直したミハエルが、自身の頬を五指でなぞった。殴打の痕に触れた途端、彼は勃然と掴みかかってきた。
「痛、ってぇ……なんだよいきなり!」
「スッキリしましたか?」
「はぁ!?」
胸倉を掴む彼の手を放置して、俺はただ苦笑を返していた。訳が分からないと言いたげな彼だったが、激情を徐々に鎮めてくれる。首元の圧迫感がほどかれた。彼我の距離が一歩だけ離れる。
腰のポーチから硝子玉を取り出した。それをミハエルの手に握らせる。ただの冷たい硝子の塊だ。しかし彼は、その温度を確かめる手つきで触れていた。
「まだ、夢をぼんやりとでも覚えているでしょう。先輩はずっと、テレシアさんに向けた最後の言葉を引き摺っていた。自分で自分の発言を許せなかったんですよね。だから殴りました。いえ、半分は、あんたの言葉を聞いた俺自身が殴りたかったからですけど」
「てれ、しあ……」
硝子は傾けるたび室内を映し込んで五彩の煌めきを湛える。球体が彼の手から転げ落ち、そのまま俺の手に渡った。体温を吸ったそれは人肌に馴染む冷ややかさ。角を持たぬ冷気を指先で弄ぶ。
冷熱を伝え合うだけで痛みは生まない玲瓏玉。硝子が凶器になるのは大抵傷付いた後だ。削られて、砕かれて、ざらついた面が牙を剥く。人も往々にして、そういうものだろう。
「どれほど傷付いても、口にしてはいけないこともあります。砕けた心は硝子片のようなものなんですよ。刃のつもりで振りかざして相手を傷付けても、それを握りしめている自分だって血を流しているんです」
「……分かってんだよ、そんなことは。分かってる。だからもう、間違えねぇよ」
前を向いた狐色の諸目と、視線をぶつけ合う。彼の虹彩は一点に据えられていた。揺らぐことのない真っ直ぐな眼遣いに、自分の表情が緩んでいくのを感じた。
彼らしい面差しがそこにある。だから安心したのかもしれない。
ミハエルは台所から酒瓶を掻い繰って腰を落とすと、隣の空席を叩いた。座れのジェスチャーに目礼をして座り込む。硝子玉をポーチに収め直していれば、ソファの革が軋んでいた。
隣席では喉の音。酒を数口流し込んだ彼。アルコールを孕んだ甘酸の香りが漂った。
「けど、刃を振り回さないように自分で押さえ込んで、自分だけがどんどんボロボロになっていくのも、辛くねぇか?」
「その両手を開いて、誰かに傷を見せればいいと思います。信頼出来る、労わってくれる相手に」
「じゃあお前は、俺のことを信頼してないのかよ」
「は……」
彼は酸いも甘いも噛み分けたような顔で俺を覗き込む。間近で彼を直視したのは、いつぶりだろう。嘆息に混じる酒気も、薬品めいた衣香も、学生時代の彼が纏っていなかったもの。
それでも、その目色だけは変わらない。
「ボロボロだろ。ずっと。なんで何も話してくれないんだよ」
遠くの雨下を近くに感じた。雑音が篠突いて思考を覆っていくようだった。
いつかの彼が『何かあったのか』と俺に問いかけていた。覚えている。学校で何度か、彼に質されたことを。俺の顔色を気にかけていたのは彼くらいだ。隠していたつもりの何かを気取ったのは、彼くらい。
あの頃の俺は、何を、隠したかったんだろう。
誤魔化しの笑みを作って首を傾けた。後頭部で括った後ろ髪が項を撫でて、鳥肌が立っていた。首筋に冷気が走り、平然とした顔で首元を押さえた。
「何も、ないからです。先輩を信頼していないわけでも、話したくないわけでもありません。俺は多分、自分が傷付く前に切り離して逃げるんです。だから、傷は一つもない」
「お前、本当に大丈夫か? 嫌な記憶を切り離せるのは、まあ悪い事じゃねぇけど。あんまりひどくなると人格が解離したりするからな。気を付けろよ」
はい、と頷けば追及は途切れる。彼が酒を飲む様を耳朶で捉えながら、黒目を動かした。机上に置きざりだった硝子ナイフを回収し、レッグホルスターに収納する。蒼い燐火が目を射ったせいか、彼は夢語りを吐いていた。
「なぁ、メイス。お前が俺の夢に入ったように、魔法ってのが使えるならさ。大切な人達が生き返ってくれてもいいと思わないか?」
「それは……」
「生き返らせたいんだよ。出来るんなら、何を犠牲にしても。……なあ、分かるだろ」
笑い飛ばす声ではなかった。どこまでも真剣に、彼は故人の影を追いかける。その気持ちは分からなくもない。二度と会えない人達に、会いたい気持ちは同じだ。
だが、仮に魔法で死者を蘇らせることが出来るとして、俺は実行したいと思わない。蘇った人間が本当に当人なのか確認する術はないのだから。
脳裏には夢魔が浮かんでいた。人の皮を被って笑う化物。あんな風に思い出の皮膚を剥がされるくらいなら、最期の情景を保ったまま色褪せてくれたほうがいい。
「……そうですね」と、相槌は音だけで形成されていた。今のミハエルに否定を投げかけたくはなかった。
けれど俺が同意しなかったことは、声色だけでも伝わってしまったかもしれない。ミハエルは冽とした面形で俺を見ていた。
秒針が響くほど閑全とした空間で、俯いた。先刻の彼の言葉が棘になっていた。
信頼していないのか。そんなわけがない。だが自分の言動を振り返ってみれば、そう受け取られても仕方がないものばかりだった。
「……先輩。俺、一つだけ、嘘を吐きました」
巡った意識が、疼痛の残る傷口に触れていた。膝の上で絡めた指先だけ、見つめていた。
そこにまだ緋色が残っているようだった。手を開けば零れ落ちてしまいそうで、すぐには指をほどけない。菫色の小さな瞳が、血の幻覚に浮いていた。
「アニカのことは、ちゃんと傷になっているかもしれません。俺はずっと、彼女を助けたかった。なのに、彼女を雇ってからも、彼女がまだ家庭環境で苦しんでいたことに気付けなかった。救ったつもりになっていた自分を、許せないんです。アニカが良い子だから、俺の前で明るく振る舞ってくれていただけなのに」
「……違ぇよ。アニカちゃんは、お前のことが大好きだったから、お前の前では明るくいられたんだ。気遣いでも空元気でもなかった。お前の前だから、満足に息が出来たんだ。お前はちゃんと、あの子の助けになれていたよ」
ミハエルの音吐は傷口に沁みて痛む。息が苦しい。慰めの受け止め方が分からなかった。自分の都合の良いように解釈して、自分の罪を軽くしてはいけない。彼女の命を奪ったのだから。助けられなかったのだから。
顔を上げることが出来ぬまま、ミハエルの柔和な声を聞いていた。
「俺さ、観劇に行った日、ちゃんと告白して、ちゃんとフラれてきたぜ。冗談か本気かは分かんねぇけどアニカちゃんこう言ってた。『いつか店長に告白して、フラれたらミハエルさんのことを考えてあげてもいい』ってさ」
「……それは、アニカらしい冗談ですね」
悪戯っぽく笑うアニカが浮かんだ。断片を一つ思い出してしまえば、元気な猫に似た彼女との思い出が、いくつも浮かび上がってくる。その全てが暖かで熱い。
記憶は熱せられて黄金に実った溶け硝子のよう。回視し続けなければ溶け落ちてしまう。思い出す為に手を伸ばしたら熱傷が走る。
焼け爛れても構わなかった。俺は彼女を忘れたくなかった。彼女と過ごした時間を、一滴さえも取り落としたくなかった。
流れた血液の残像が重なって、悠然とまたたいた。彼女を喰らった夢魔の嘲笑が、耳底で反響していた。
救えなかった命と、救えた命を見比べて、俺はミハエルと向き合った。
「ところで、先輩はここ最近、何か変わったものを食べたりしましたか? 悪夢を見始める前など、いつもと違うものを口にしていませんか?」
「覚えてねぇな……いつも通りだと思うんだが。ああ、でも眠れなかったから、ウチの薬局から睡眠薬を引っ張り出して飲んだぜ。ちゃんと代金は薬局長に渡してな。あとは普通に飯食って、差し入れの菓子を食って、いつも通りだな」
「薬局長……」
夢魔に憑かれた人間に共通しているのは、やはり睡眠薬を摂取していること。それも恐らく、皆ミハエルの所属している薬局で入手した物。薬局には当然、ミハエルだけでなく他の薬剤師たちも働いている。
そこに、夢魔と契約している人間がいる可能性はある。
眉根を寄せてから、時計の針を確認した。手帳を開き、数字を綴っていく。
「なあ、どうかしたのか?」
「いえ。少し考え事をしていただけです。俺は帰りますね。……依頼料はこちらに記載しているので、ご確認を。後日、店までお持ちください。ネックレスに加工する空夢硝子は明後日以降にお渡し可能です。ネックレスは、先輩の夢で見たテレシアさんのことをイメージしてデザインさせていただきます」
「分かった。よろしく頼む」
ソファから立ち上がり、忘れ物がないか周囲を見回してから玄関へ向かう。そっと触れた靴箱の上で、小さな花弁がいくつも揺れていた。
硝子製の花瓶は花色に塗られた水を透かしている。花蕊は華美な金、淡い紫の花弁が連なることで星の明るい夜を模す。
紫苑の花と見合っていたら、ミハエルがこちらに片手を振っていた。
「メイス、ありがとな」
「いえ。良い夢を」
木造りの扉を開けて正真の夜へ降りる。雨は止んでいた。踏みつけた水溜りだけが、水滴を散らしていた。空はまだ曇っているようで、天体の見えない夜だった。
(五)
血塗れの頭蓋を見つめていた。それは記憶であり、ときに想像でもあった。けれども血肉は錯覚だったかのように消えていく。目弾きした先、視界は決まってあの場所を映す。俺はまたそこに立っている。
もう何度目だ?
「──っ!」
息を吹き返した死人さながらに起き上がっていた。ここが見知った寝室であることを確かめたくて、震えた手でベッドサイドのランプを灯していた。暖色の明かりがほのかに部屋の輪郭を浮き上がらせる。
過呼吸になりかけの息を整えていく。頭痛を誤魔化すように側頭部へ爪痕を刻む。深呼吸を心がけた。平静を搔き集めた。
サイドテーブルに置かれている薬袋が目に留まる。今日は薬を口にしていない。だがアニカの死後、何度もそれを摂取して入眠を試みている。もしそこにある薬が毒だったのならば既に──。
嘲笑う声の幻聴が、聞こえた。
「っ……く、そ……」
連日俺が見ているのは、ただの、心の弱さが作り上げた夢でしかない。そう思い込みたかった。なのに拍動が警鐘を鳴らしていた。
この身がとうに侵されているとしたら。
数える期日はあと数本、指を折るだけだ。
*
神はまた言われた、「地は生き物を種類にしたがっていだせ。家畜と、這うものと、地の獣とを種類にしたがっていだせ」。そのようになった。
神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。
神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。
第六日である。
──引用『創世記・第一章』




