紫苑─Ik zal je niet vergeten─5
涼風の通い路には粛然が降りている。リーセロットは脱力して座り込んでいた。ワンピースの裾が丸く広がっており、草原に黒い大輪が咲いたよう。
手を差し伸べてやればビスクドールが人らしい精彩を取り戻す。躊躇いがちに伸ばされた雪肌をとって立たせてやった。
「……お怪我は、ありませんか」
「わ、私は大丈夫だけれど……」
不服そうな仏頂面はこちらを見ようとしない。それは構わないのだが、虚勢は見過ごせなかった。
離れようとした彼女の手を軽く握り込んだ。体温を通じて伝播してくる震え。強張った手の平を返してみると皮膚は腫れあがったように仄赤く染まっていた。不必要なほど力を込め続けていたのだろう。だが、幸い腫れてはいないようだ。
小息を漏らしていたら接触を払われる。叩かれた僅かな痺れに、不可抗力で目見が歪む。不機嫌な彼女に棘を返したいわけではない為、誤解される前に顔を背けた。
枯骨さえ死に果てた広野を見廻らす。点在する灰が雲霧に紛る様を黒目で追いかけ、言の葉を大気に委ねていた。
「あまり無闇に撃たなくて大丈夫です。慣れていないと反動で手が疲れるでしょう。あんたは攻撃よりも、自分の身を守ることを最優先にしてください。俺のサポートをするのなら、敵の不意打ちなど、俺自身が対処出来そうにない場合くらいで構いません」
「……邪魔にならないよう、努力はするわ。それよりも、その、貴方の怪我……ごめんなさい。わざとじゃないの」
背に掛かった声遣いが思いのほか落ち込んでいて戸惑った。振り返るとリーセロットは眉尻を下げて俯いている。右手で胸元を押さえ、左手で右袖に皺を刻む姿は自罰的に見えて、俺は返事に詰まっていた。
リーセロットの影に沈む拳銃を拾い上げ、悠然と彼女の手に握らせた。黒光りする銃身に目を落とし、かすかに笑んでやることしか出来なかった。
「分かっています。俺も、先程はポンコツ呼ばわりしてすみませんでした。初めてなんですから、上手く出来なくて当たり前です。確かに負傷もしましたが、その後で救われてもいます。援護射撃、ありがとうございました。……こちらも余裕が欠けていましたね」
不意に顎を持ち上げる。この夢世界に入った時点では快晴だった。時間経過とともに現れた一点の白雲は一際目立っている。それと同じ形をした雲が、遠くに。鏡像だ。
「あっちです」と一声かけて幽境を踏み鳴らした。
空気が流れを変えるたび、切り留めた奴らの灰が鱗粉のように舞っていた。蝶などいないのに、と考えて、まばたく。思えば虫は見たことがない。肉を失ったら形を保てない無脊椎動物だからか。
「……ねえ、メイス。考えていたのだけれど分かったわ。これ、聖書よ」
「なんですか、いきなり。これって、何のことを……」
「この、夢世界の仕組みよ」
隣に並んだリーセロットが真剣な目をして俺を仰いでいる。歩みを止めず、一瞥を返して話の先を促した。
「アニカが亡くなったのは一週間と、七日目の夜。貴方が入った夢世界は光のない暗闇だった」
「そう、ですね」
「お父様の夢世界は"鳥と魚"の骨。今回の夢世界に彷徨っているのは"人と獣"の骨。ミハエルは悪夢を見始めてから一週間と二日目だと言っていた。夢魔は、世界を一日ずつ壊していっているのよ。世界が神様によってどう造られたか、思い出してみて」
「知りません。興味がなかったので」
学校の授業で聖書が扱われたことも何度かあったが、特別思い入れもないため大して記憶に残っていない。楽園、光と闇、罪と赦し、耳にタコを生んだ単語くらいしか覚えていなかった。
リーセロットは今でこそ不登校学生だが、昨年までは宗教学も居眠りすることなく真面目に受けていたのだろう。不勉強な俺を半目で睨んだ彼女に、大げさな溜息を零された。
「学校で習うでしょ? まったくもう……神様は一日目に光を作ったの。二日目は世界に上下の境を生んで空を作った。三日目は陸と海を、四日目は月と太陽と星を創造。五日目は"鳥と魚"を造り、六日目には"人と獣"が造られる。七日目には世界が完成して、神様は休んだ」
「……なるほど、夢魔は世界が造られた順序を遡るように壊しているんですね。夢魔がカウントを始めるのは寄生してから一週間後。カウント開始の一日目はまだ何も壊さない。二日目は"人と獣"の肉を剥ぎ、三日目は"鳥と魚"の骨を暴く。四日目は星や月を墜落させ、五日目は海を枯らして地を砕く。六日目の夢世界は空と陸の境を失い青一色の世界。そして、七日目が光のない、闇に満ちた世界だった……」
過去に訪れた夢世界を一日ずつ想起していく。一度しか見たことのない世界もあれば、複数回目にした世界もある。
四日目の世界の記憶は朧げだった。剥がれた壁飾りみたいに星が落ちる。地に着けば光を失う恒星。まるで墓のようだと、そう感じたことだけは明に覚えている。
いつかの俺が、天体の墓地でナイフを掲げていた。切っ先を真下に向けて──砂嵐が記憶を遮った。頭が、痛む。
ばさり。とリーセロットの両袖がたわんでいた。
「だからこの悪夢はまだ、夢魔のカウントからしたら二日目ね。助けられるわ」
やる気に満ちた二つの拳。その片手は拳銃を握ったままで、指は引き金にかけられている。暴発の恐れがある為、その持ち方をやめてくれないかと言いたくなったが、余計なお世話は呑み込んでおいた。撃鉄に手をかけなければ問題はないだろう。
行路に人影が現れる。殺風景な野原を進む俺達が、境目の見えない壁に映し出されていた。鏡の中でリーセロットが瞼を大きく開いていく。
「鏡の扉……」
「さっきも言いましたが、無理に撃たなくていいですからね」
「ええ。何度も言わなくて結構よ。分かってる」
リーセロットは不慣れな手つきで拳銃に弾を籠め直し、祈りに似た深呼吸を一度だけ行う。
俺が鏡に伸ばした片手は虚像の指先と触れ合った。冷たさに手の平の温度を押し付けて、扉を開けた。相も変わらぬ黒一色の通路。無影の床に踏み入った靴音が反響する。
海の底を連想していた。遠くから重なり合って聞こえる怨言が、水泡の調べに似ていた。泡は耳元でも、弾ける。
『許さないからな。お前は俺を裏切ったんだ』
ミハエルの声だ。しかしその声色は、かつて聞いたことがないほどの憤りを孕んでいた。彼の抱えた怒りを、恨みを、戛々と踏み通っていく。
『なんで泣くんだ。泣きたいのはお前に捨てられた俺の方だよ』
『お前が言ったんじゃないか。ずっと一緒だって。俺はそれを信じていたからなんだってしてやったのに……!』
『幸せだった? 大好きだった? 全部嘘だったんだろ』
震え声は犀利な砕片だった。刃物のように持ち手はなく、どの一辺に触れても肌が裂かれる。
『愛してくれた人を切り捨てておいて、お前が幸せになれると思うなよ』
彼はこの全てを、現実で口にしたのか。彼が知らなかったとはいえ、不治の病を抱えた女性の末路を想像したら苦々しい。彼女が、心から彼を愛していたのなら尚更。
奥歯を噛み締めたまま暗幕の先へ分け入った。
光がこぼれる。参列者のいない教会に、幾多の百合が敷き詰められていた。茎から手折られた形で純白の花冠だけが寄木細工の床板を綾なしている。
ステンドグラスの閃爍を強く浴びる祭壇。その手前に棺が鎮座していた。
花弁の潰れる音を聞きながら空席の間を抜けていけば、棺斂されていた亡骸がゆらりと起き上がる。
波打つ栗色の長い髪。女性は薄い青紫のワンピースをひらめかせ、振り向いた。
アーモンド形の目元で虹彩が不気味に蠢く。やがてこちらに焦点を定めると、彼女は楚々とした佇まいで裾を摘まみ上げた。
『またお会いするとは思いませんでした。先日の少女の脳はとても美味しかったですよ』
「っ……!」
リーセロットが息を引き攣らせたのを、耳の後ろで聞いていた。思い出の中でアニカが咲笑う。閉目すれば喪失感に浸れるだろう。だから沈まないように炯眼を前へ据えた。
夢魔は無邪気な子供然として、棺を蹴って踊り上がる。一回転。長い裾が丸く広がった。百合畑に紫苑が一輪咲き誇るよう。内陣を踏みしめた紫の花は緩やかに萎んでいく。
服に似合わない黒手袋は毒々しい。俺の視線に気付いたのか、奴は袖を捲りあげ、赤黒い前腕を晒して高笑う。
『見てくださいこの腕! 綺麗でしょう? あの少女のおかげで、私はまた黒に近付きました……でもまだまだ足りません。もっと食べないといけないんです。人間だって、お腹が空いたらエサを食べますよね? それと一緒ですよ。人間の言葉でなんて言うんでしたっけ、タベモノ、いいえ、あぁそうだ、食物連鎖、ですね?』
「……あんたの本体は、どこにあるんですか」
訳の分からない諧謔をマトモに聞いてやるつもりはない。無駄な問いかけは己の平静を確かめる為。吐出した唸りはまだ、理性的に聞こえていた。
夢魔のパンプスが身廊の百合を踏みしだく。白い肌は陸離たる光を浴びて淡く色付く。赤、紫、緑。色硝子の彩を投影された頬が喜色を湛えていった。
『っふふ、教えませんよ。それにしても貴方も諦めが悪い。心は砕けなかったんですか? 助けたかった命を目の前で奪われて。人間は、ああいう楽しい出来事に弱いんでしょ──』
弾丸が鼓膜を劈いて火花を散らす。それは奴の上腕部を掠めた程度。夢魔はわざとらしく肩を揺らして負傷部位を撫でていた。
かたわらに消える硝煙は、いつになく焦げついた匂いがした。
「不愉快だわ。人の命を奪って、いつまで楽しそうに笑っているのよ……」
リーセロットを後目にかける。彼女との距離を確かめただけの瞥視を解いて、敵影と向かい合う。奴は血に塗れた指で己の唇をなぞった。染色された朱唇が口角を吊り上げていく。
「人間は、貴方が思っているほど弱くない……!」
彼女の激昂に発砲音が随伴し、銃弾が気体に穴を空けた。弾を避けた夢魔はこちらへ邁進。黒い腕は鉤爪へと変形する。向かい来る奴の突先を避け、その足付きのまま攻撃へ移る。
リーセロットを目指した夢魔の脇腹へ膝を捻じ込んだ。生じた風を辿る百合の花弁。吹き飛んだ奴は空席に転がり込んでから不興げに立ち上がっていた。
奴と反目しながらナイフを構え直す。
「もっと後ろへ。下がっていてください」
「っでも!」
「我儘を聞いている余裕はないんです。俺に、あんたを守らせてもらえませんか」
柔らかな茶髪が中空に散らばった寸刻。夢魔がこちらの脳天目掛けてハイヒールを振り下ろす。一歩下がって躱せば互いの影が重なる距離。見合いの狭間を貫く弾丸。奴は譏笑した。
鉤爪が光華を切り裂く。右へ、左へ。光は何度も分断される。七色の旭光に猩紅は混ざらない。尖鋭の角度、間合い、奴の動作を視一視して最小限の回避を繰り返す。
戦地は椅子の間から柱の陰に。踏みしめた空間は反撃に活かせる範囲。左足を振り上げれば接近していた夢魔の顎が跳ね上がった。
白が降る。まるで溶けない細雪。甘い花香が広がっては霧消する。
夢魔は椅子の背もたれへ倒れ込んだ。青白いうなじと切刃を、透いた線で結ぶ。眇たる思考すら挟まなかった。狙いは揺らがなかった。浮き漂う天花が凋落するより早く──腕を振るっていた。
『っふふ、楽しいですねぇ!』
「ちっ……!」
人ならざる悪魔の退避は更に俊敏。硝子ナイフは木造りの背もたれを壊頽させ、塵埃と木香が四散する。
すかさず方向転換。己の息が奴の爪を白く染めた、寸陰。銃声。硬い音差しが甲走る。奴の腕は黒曜石さながら。火花を散らしても奴は踏み出し続けた。
弾丸によって鉤爪の軌道は僅かに逸れたが無傷ではいられない。横隔膜を押し上げられて息が詰まる。背骨を柱に打ち付けてようやく息が出来る。とはいえ噎せ返る手前じみた出来損ないの呼吸音は耳障りだ。
歯噛みして奴を待ち構えた。こちらの懐へ飛び入った奴の抱擁には応じない。柔らかな栗毛を掴んで柱へ投げ飛ばすと砲声が轟く。
轟音の中で金属が高鳴った。銃弾は夢魔の頭上──柱に備えられた燭台を零砕させていた。有形の雨が降り注ぐ。太い蝋燭が揺落し、華やいだ燭花は百合を燃え上がらせた。
花絨毯に波及する狂炎。焔は赤い陰影で足元を染めていく。汗ばんでいくのは熱のせいか、腹部に残る痛みのせいか。植物の燃える臭いは毒のようだった。
よろめいている夢魔の背へナイフを掲げた。夢魔は纏った金属片を振り払いながら腰を捻る。奴は拾い上げた燭台を片手で弄んでいた。
『貴方方の脳もきっと美味しいのでしょうねぇ』
艶笑が目先へ迫る。間近で見た夢魔の瞳は淡い紫。菫色の目をした少女の面影が重なり、動きが鈍った。よろめきかけた体を支えるように夢魔が俺の腕を絡め取る。
奴は軽快な足遣いで火の粉を散らし、墨染の百合を蹴って彼我の位置を反転させる。舞踏の誘いを振り解こうとした。抵抗を示した片腕は捻り上げられ、手背が柱に打ち付けられる。掌から杭を、打ち込まれて。
「ぅ、ぐ……!」
柱に縫い留められた手掌から燭台が突き出している。まるで磔刑。拳を固めると三叉に指が絡みつく。つまり、支柱は全て肉と柱に沈んでいるということ。随分と深く刺してくれたものだ。
杭を外すべく力を込めていれば、冷たい素手が首をなぞった。
息が、引き攣る。夢魔はこちらの下顎骨を確かめるような手つきで輪郭を辿る。顎に纏わりつく繊指。全身が凍り付いて身動きが取れなかった。わけもわからず呼吸が浅くなっていく俺に、艶めかしい息が吹きかかる。
『美味しそうなモノは後で食べたいんです。だから少し待っていてくれますか?』
「っは……、ッ……」
首筋に触れた唇。血の口紅が肌を滑った不快感。自ら喉を絞め、せりあがってくる喘鳴を押し留めていれば形影は離れていく。
口枷を外されたかのように息衝いた。いやな汗が額から流れていた。深呼吸をしている場合ではないことを、視覚が訴えてくる。
紫苑のスカートは対極に位置する柱の前で翻っていた。そこには、リーセロットがいる。
『何をしている軟弱者め。美女に見惚れたか? 早くしないと小娘が食われるぞ』
「戯言を……ッ、わかっていますよ……!」
『あっ、おい──』
かしがましい硝子ナイフの柄を噛んで、空いた手で燭台を握りしめた。腕が震えるほどの力で拘束を解こうとするも、痛みに焼かれるばかりで外れない。溢れ出した血液と汗で手が滑るものだから上手く力も込められなかった。貧血による吐き気に牙噛みながら、排するための力を流し続ける。
リーセロットは夢魔の斬撃を引き避いていた。彼女の背後にあったステンドグラスが砕かれる。玲瓏たる物質の悲鳴。散渙する硝子は百花のごとく、色取りをめくるめく塗り替える。
炎は中央の廊下を越えて西側にまで向かっていく。炭と化す百合の先方で血煙が上がった。出血は夢魔のもの。弾丸が夢魔の胸を射抜いたが、奴は頭部を破壊しなければ死に至らない。
鉤爪が果然として揺らぐ。リーセロットの吃驚を認めて唇を噛む。
血と脂まみれの手の内で、異物が傾いた。──早く。早く外れろ。
瞬目、眼路が皆紅に覆われた。リーセロットの片腕が跳ね上がり、腥血を噴き出していた。千切れた腕から滑り落ちた拳銃が、百合の群れに沈んでいった。
「っ────!」
彼女の、声にならない叫号が深閑を震動させる。
断ち切られた片腕の先を凝視して崩れ落ちるリーセロット。夢魔は彼女の前髪を掴み上げ、蒼褪めた顔を覗き込んでいた。
ぶつっ、と。杭が、外れる。穴の開いた右手で硝子ナイフを掴み、左手は引き抜いた燭台を携えたまま──逸散に駆ける。
『少しだけ味見させてくれませんか?』
「やっ……」
夢魔の桜唇が大きく開く。リーセロットの白い額に舌が伸ばされる。触れさせるものか。
棄擲した燭台が一筋の光芒を空無に引いた。金属は夢魔の側頭部に突き刺さり、栗色の髪がぐらりと乱れていた。
肉薄した夢魔の襟を掴み上げリーセロットから引き剥がす。奴の足首を蹴り払って押し倒せば百合が間近で咲き匂う。
片膝を立てた姿勢で、仰臥する夢魔を見下ろした。燄燄と熱を帯びゆく花の群芳から拳銃を取り出だす。
「そんなに血の味がお好きなら」
『ぁ、がッ──』
嘲りを上げかけた口腔に押し込んだ銃口。肌を炙る紅炎に包まれるほど心火は澄んでいく。
静かだった。
百合を焼く業火の唸りすら聞こえないほど。藻掻く仇敵の音骨すら、聞こえないほど。
「鉛玉でも食っててください」
撃鉄を起こし引鉄を引く。銃声が反響する。歴落は繰り返し、繰り返す。余響ではなかった。空砲ではない。実弾を、悪舌に撃ち込んでいく。
次第に奴の口端から古血が溢れ出す。過剰に注がれた葡萄酒の如く、赤い筋が流れる。
指先が乾いた音を立てた。白百合がすべて黒紅に炭化した頃、弾は尽きていた。火の燐光と灰が、血の池に水没していく。
爛れた肉が喉で潰れる異音。夢魔は痙攣し、そんな余喘だけを保っていた。
銃撃に痺れているのなら都合がいい。玩具同然の空鉄砲を放り捨て、ホルスターに預けていたナイフをまた握る。
見開かれた紫水晶の虹彩が、精霊の放つ蒼光をギョロリと眇める。物言いたげな口唇は膏血をしたたらすばかり。鉄臭いあぶくが歪に笑みを奏でようとする。その笑声に耳を貸すことなく──奴の眉間を穿げのいた。




