紫苑─Ik zal je niet vergeten─3
「すみません、こんな話をして」
「いいえ、続けて」
「……連続している不審死の事件は、夢魔が原因です。先程も言ったように、その夢魔を人間に取り込ませている黒幕がいると、俺は思っています。俺が調べた限りでは、同一の事件で一番古い記事は四年前のものでした」
彼女の柳眉が寄せられていく。苦み走った童顔は蒼然と影を落とし、事件の記事に注目していた。
「つまり犯人はおよそ四年前に夢魔と出会っていて、被害者全員とは知り合いかもしれない、ということかしら」
「全員と深い仲だったのかは分かりませんが、確実に一度は接触している。顔見知り程度の仲である可能性もあります。食品が原因であれば、同じ店を利用していた等も考えられますね」
「でも、お父様は何も口にしていないはずよ。私は何も食ベさせていない」
彼女の養父は悪夢に蝕まれる前からずっと寝たきり状態の男だ。その生命は付喪神との契約で魔法によって保たれている。食事を必要としていない彼は、どういった経緯で夢魔を呑んでしまったのか。
だが、眠り続けている彼相手だからこそ、抵抗されずに毒を飲ませられる。恐らくリーセロットが不在の時に家へ忍び込み、睡眠者の口唇へ夢魔の源を注いだ者がいる。
とすれば何故。犯人はそうまでしてレイナウトを狙った?
瞬きに幻燈が伴われる。リーセロットの依頼を受け、生家を訪れた日を回視していた。点々とこぼれる街灯が夜降ちを綾取っていた道筋。叩き金を鳴らす前、すれ違った男性。シルクハットに暗された二つのレンズが、一瞥を透かしていた。
「……そういえば、アニカの担任教師、ファビアン先生とあんたはどういった関係で? 先日彼に会ったんですが、その時にあんたのことを聞かれました」
「ファビアン先生? 彼は去年、私の担任教師だったのよ。休学している私の様子を時々見に来るわ。アニカが亡くなったことも彼から訊いた。……まさか先生を疑っているの?」
「彼はよく、アニカに薬を渡していたそうです。あんたの家にも何度も上がっている。寝たきりの父親に何かを食べさせる隙くらいあったはず」
「……否定はできないわ。それにしても、薬、ね……」
「──薬がどうしたんだ?」
闖入者の声に俺達は誤魔化せないほど肩を跳ねさせていた。来客を知らせる鈴の音に気付かないほど、細思に浸っていたようだ。革靴の歩みが響いて、リーセロットはそちらを振り返る。
ミハエルが頭を傾け、「よっ」と片手を挙げて軽快な挨拶。普段白衣を羽織っている彼の黒装束は見慣れない。弔いを纏ったままの笑みは力なく見えた。口元を柔和にしならせた彼が、真剣な目色を湛えていく。
「メイス。二人だけで話せるか」
「構いませんよ。では、あちらの席で。アニ──……リーセロット、店番をお願いします」
呑み込んだ失言は硝子片さながらに鋭利だった。尖った透徹が喉を裂いて肺へ落ちる。この場にいない少女を探した虹彩を、瞼に閉じ込め一拍。炉と化した眼窩で熱せられる硝子玉。それを転がして、前を向いた。
店内の壁際に備えられているテーブル席へミハエルを先導する。棚に並ぶ硝子製品がステンドグラスのごとき七彩で、通路を淡く照らしていた。
革張りの椅子へ腰かけたミハエル。俺はキッチンで紅茶を淹れてから、彼の正面に着座した。
「どうしたんですか。喪服のままで」
「着替える気力もなくてな」
彼は溜息をティーカップに吐き出して喉を鳴らす。カップをソーサーに戻す手つきは震えていた。眼界は立ち上った湯気に白む。ぼんやりと、白く。劣化により白濁した窓景色を連想する。
恍として、彼は実体のない窓を覗き込んでいた。
「俺さ、別れた恋人のことをずっと引き摺ってたんだよ。テレシアって言うんだが……お互い話も合ったし、たまに喧嘩もするけど仲直りも早くて、ずっと仲良くやってきて。幸せだったんだ。幸せだったのに、急に別れを切り出されてな。訳がわからないまま、最後に酷いことを沢山言っちまった」
「……でも、吹っ切れた、と、俺と飲んだ時に言ってましたよね」
「ああ、その時はな。けど別れてから数ヶ月後、彼女が病気で亡くなったことを知ったんだ。不治の病で長く生きられないから俺と別れたんだって。俺は何も知らずに、捨てられたんだって思い込んでた。彼女のことを何度恨んだか分からない。そのくせ、死んじまってから罪悪感に浸って。最低だよな」
彼とは数年の付き合いだ。恋人が出来たと嬉しそうに報告してきた日も、別れたとヤケ酒をしていた姿も、覚えている。一人で思い切り怒って、気が晴れたように破顔する。喜怒哀楽の哀だけは見せなかった男だ。
その嘆きに頷いて、意味もなくティーカップの持ち手をなぞった。
「アニカの葬儀で、思い出してしまったんですか」
「いや、もっと前から思い出してたっつーか……忘れられた日なんて一度もない。最近はずっと夢に見る。同じ夢だ。テレシアに俺が酷い言葉をぶつけて、テレシアは悲しそうに笑って、最後には棺桶に入ってる。俺は彼女の葬儀に行けなかったのに、そんな夢をずっと見てる」
顔をもたげた彼は苦り笑う。その目元が隈で縁取られていることに、今更気が付いた。自身の心臓が、いびつに脈打ったのを実感していた。硬直した俺に構わず彼は語り続ける。
「だから、テレシアのことを忘れたくて新しい恋をしようと思ったんだ。アニカちゃんが真っ先に浮かんだ。いつも笑顔で、周りを明るくしてくれて。でも守ってやりたくなる雰囲気もあって。俺はこの子を幸せにしてやりたいって、そう思える相手だった。それが、こうだ」
アニカに対する思いに共感が溢れ、無言のまま相槌を打っている。幸せになって欲しかった。良い人と結ばれて、報われていく彼女を、かたわらで見守っていたかった。
乾いた口元に紅茶を押し付けた。柑橘の薫香がアニカと結びつく。彼女は紅茶を淹れるのが上手かった。とうに冷たくなってしまっていたそれを、呑み込んだ。
ゆくりなく、机が衝撃に揺れる。ミハエルは両肘を突いて項垂れていた。両手で抱えた頭をぐらりと傾けながら、彼は唸りを上げていく。
「なぁメイス。俺、呪われてんのかな? 俺が好きになる子は皆死んじまうんだ。俺のせいなのか? 俺が死神にでも憑かれてて、俺が恋した相手を皆連れてっちまうのか? なんでまた……ッ守りたいと思っても、皆、俺の手の届かないところで死んでるんだ……!」
彼の激情がこちらの胸を刺していた。心髄に至るまで、深く、針が沈んでいく。知らない場所で親しい人が亡くなっているやるせなさも、理解が出来る。目の前にいたのに救えなかった罪科が、静脈を這い回る。
ミハエルは泣き笑いの息を一つ。そうしてかわらかに空気を変えようとしていた。伏し沈んだ沈黙は明朗に塗り替えられていく。
「アニカちゃん、本当に良い子だった。演劇、すげー楽しんでくれててさ。連れてきてくれてありがとうって、嬉しそうに笑ってくれて。なんでもしてやりたかった。この子が喜ぶ顔を、もっと見ていたかった。俺、俺が思ってた以上に、アニカちゃんのこと、好きだったんだ。この店に入って、あの子の声が聞こえないのが、寂しくて堪らない」
「……分かります。俺もふとした時、店の中を見回してアニカを探してしまう」
思い出の中で、店長、と彼女が俺を手招く。キッチンを見れば、今もそこに彼女が立っている気がした。鼻歌混じりに喜色満面で食器を洗って、こちらに手を振る姿。
過ぎた幻に蓋をした。背筋を伸ばし、机上で五指を絡ませる。
「ミハエル先輩。先輩が見ているテレシアさんの夢は、毎日、全く同じ夢ですか?」
「え……ああ」
「なら、それは悪夢です。俺に狩らせてください」
眼勢で彼を射る。決してふざけてなどいない、空想を語っているわけではない。悪夢狩りが人の生死にかかわるものであることを、伝えるように。狼狽える彼の瞳孔から目を逸らさない。
ミハエルは一度だけ肩を震わせていた。戸惑いで引き攣った面差しは、嘆息とともに緩められていく。
「……悪夢を治す、仕事ってやつか。悪いがそういうの信じてねぇよ」
「信じてもらえませんか。でないと、アニカと同じように先輩も死にます」
「は?」
彼はあからさまに顰蹙した。彼からすれば俺の言動は怪しい宗教家めいたもので、警戒するのも当然だろう。だから弁舌を止めるわけにはいかなかった。
学生時代からの付き合いだ。彼は知っているはず。俺が、非現実的な冗談を口にしない人間だと。
夢魔のことを思えば、諸目はおのずと細められていく。
「カウントダウンは始まっている。連続する悪夢が特定の日数を過ぎると、頭部が潰れて食い殺されます」
「なんだ、それ……」
「連続する悪夢は、『夢魔』と呼ばれる悪魔によるものです。俺は先輩の夢に入り、その夢魔を倒し、悪夢の原因となっている記憶を取り除きます。取り除いた記憶は硝子玉になる。触れればその記憶を思い出せますが、触れていない間はその記憶を思い出せない。その硝子を砕かなければ、切り離した記憶を完全に失うことはないので、安心してください」
ミハエルは難しい顔つきで考え込んでいた。顎に手を添えて黒目を巡らせる彼。咳ばらいをしたかと思えば、彼は硝子製のティーカップを持ち上げて口付ける。揺蕩っていた水色は一口で飲み干された。
「よく分かんねぇが、つまり、悪性の腫瘍を摘出するようなものか?」
「……そう、ですね。とりあえず切除しなければならないほど深刻なのだと思って頂けると助かります。放っておいてはいけない」
医学を学んできた彼らしい比喩に苦笑してしまう。夢魔による悪夢の危険性を、少しでも理解してくれたようで胸を撫で下ろした。
なるほどと数回頷く彼。俺は壁掛け時計を窺った。針が示しているのは夕刻で、眠りにはまだ早い。
「今、睡眠薬などで眠っていただいても構いませんが、夜が良ければ夜中に先輩の家へ伺いますよ。どうしますか?」
「そうだな……今日中に片付けなきゃいけねぇ仕事が残ってるんだ。夜でいいか?」
「わかりました。ところで、先輩。悪夢を見始めた日を、正確に覚えていたら教えて頂きたいのですが」
ミハエルは床に置いていた革製の鞄を肩にかけ、瞠目していた。風邪でさえ症状の始まりを確認するものだ。何より、悪夢の仕組みを知りたい今の俺にとって、日数は必要な情報だった。
彼は手帳を開く。茶色い背表紙が艶めいて、小さな音と共に閉じられた。
「あれは、九日前だ。ちょうどテレシアの誕生日だった。だから思い出せって言うように、夢に見たのかと思ってたんだ」
鞄に手帳を仕舞い込むと、今度は手鏡を取り出す彼。悲しみに沈んだ後でさえ、身だしなみを気にする癖は変わらないらしい。使い古された色味の手鏡と向き合って、微苦笑を浮かべてから彼は退店していった。
食器を片付けるべくキッチンに立つ。リーセロットが商品棚を抜けて歩いてくるのが、横目で窺えた。蛇口をひねると肌が冷やされていく。ヒールの調べが近くで止んで、俺はその余韻に声を重ねた。
「夢魔はアニカの夢世界で、俺に『七日目の悪夢で会うのは初めて』だと言いました。ですがアニカは『今月に入ってから悪夢を見ている』と」
「今月に入ってから……もう三週間は経つわよ。アニカが亡くなったのは先週だから、悪夢を見ていたのはだいたい二週間なのかしら」
「とすると、夢魔は一週間を過ぎてからカウントダウンを始めている……? 最初の一週間は潜伏期間のようなものなのでしょうか。奴の言う『七日目』が、『悪夢を見始めてから十四日目』のことだとしたら。ミハエル先輩は、まだ猶予があります。……助けないと」
グラスに滑らせた掌が、幽かに震えた。生じては潰れる水泡を睨み据える。流水の音差しは一定で、耳に馴染んでしまえば甲高い無音と等しい。聴覚が麻痺した耳底で夢魔の嘲りを聞いていた。
唇を噛み切った痛みで意識を覚ます。水を止め、洗い終えたグラスを片付けて顔を上げた。
流し台の正面の壁は鏡になっており、鏡像の自分と図らずも見合ってしまう。やつれた表情に、薄い隈。俺は頭を振るって鏡に背を向けた。
いつのまにかリーセロットが真後ろに立っており、危うくぶつかりかけた。彼女は凛然と顎を持ち上げる。
「私も、ミハエルの夢世界に一緒に行ってもいいかしら」
「……それは危険です。危ない目に遭わせるわけにはいきません」
「あら、でもお父様の夢世界では、私がいたから助かったんじゃない? また助けてあげるから連れてってちょうだい」
悪戯っぽい笑みを前に、渋面を浮かべてしまう。確かに、前回の戦闘では彼女がいたから切り抜けられた。それでも怖い思いをさせてしまい、連れてくるべきではなかったと感じたのも事実だ。
俺の断たれた腕を見て蒼褪めていた怯弱はどこへやら。折れそうにない直視に、渋々折れたのはこちらだ。
「……なら護身用に拳銃でも持ってきてください。あんたの家のどこかにあるはずです。俺の生家なんですから」
父のことは覚えていないが、聞く話によれば両親ともに元警察官。拳銃は保管されているだろう。彼女が拳銃を扱えるかは不明であるものの、徒手で戦に赴くよりはマシなはず。
了承を得たことで満足げにコクコク点頭するリーセロット。黒い踵が高く鳴る。数歩分の隔たりは踏み抜かれていた。彼女は俺の襟を掴んで背伸びをした。首元に生温い息が触れ、反射的に身構えた体がゾクリと粟立つ。
肉体が触れない程度の接近に心音は落ち着いていった。無意識下で止めていた息を吐いていれば寒声を落とされる。
「ねぇメイス。あの男、あまり信用しない方がいいと思うわ」
「あの男……ミハエル先輩ですか?」
「ええ。一緒に演劇を見に行ったけれど、何度かアニカと二人きりになるタイミングもあった。薬剤師だからアニカの飲み物に薬を混ぜるのも簡単。それにあの男の働いている薬局の薬袋……お父様の部屋にあったのと同じものよ」
靴音と共に離れた彼女は険しい顔様で警告を訴える。
薬袋は、薬局ごとに違う印と薬局名が印刷されている。彼女の見間違いではない。レイナウトの部屋にあった薬袋と、ミハエルが俺に押し付けた薬袋は、確かに同じ百合の刻印が入っていた。
アニカが眠る前、彼女にはミハエルからもらった薬を飲んでもらった。アニカがファビアンに渡されていたという薬も、もしかすると同じ薬局のものであった可能性もある。
けれども俺はミハエルを信じていたかった。それは顔に出てしまったかもしれない。リーセロットは俺の目を見て、剣幕を開いていく。気遣いに塗れた困り顔が、開幕の下にあった。
「……ですが先輩は今まさに悪夢に悩まされている、被害者です」
「探偵小説ではね、自分の犯行だとバレそうになった犯人が、自分も被害者だって装うものなのよ。警戒はしておきなさい」
灰髪が飄揺し、馥郁とした花の香が舞い散る。「銃を探してくるわ」と言い置いて、彼女は黒と灰のフリルをはためかせていった。
鈴の金声が遠くに聞こえる。しん、と蕭寥が広がれば、気が緩んだように網膜が熱を帯びた。滲んだ情景は雨曝しになった絵画を思わせる。糸の切れた人形みたく、崩れ落ちそうになって流し台へしがみついていた。
睡魔が両足に絡みつき、全身を引きずり降ろそうとする。眩暈と吐き気に苛まれていた。
深い眠りへ沈めなくなったのは、アニカを失ってから。ミハエルに渡された睡眠薬をあの日から何度も口にしている。用量は守っており、体に害はないはず。
思うに、本能が夢を拒んでいるだけだ。転瞬の都度、夢か現か定かではない光景を垣間見る。
赤黒い夢幻が明滅し続けていた。濡れた排水溝を睨んだまま朦朧として、限界を迎えたように吐き出していた。




