暁闇─Maak me wakker─6
(五)
静かな寝息に安堵して、俺はレッグホルスターに手を伸ばした。硝子ナイフを抜き取り、目を伏せる。
アニカが長い間抱えていたものを俺は何も知らなかった。ずっと心火が盛っている。彼女を傷付け続ける父親に対して、彼女を救ったつもりになっていた己に対して、ずっと、怨憎が溢れて止まらない。
嘔吐感が喉の奥を占拠していた。気持ち悪い。彼女の受けた苦痛を想像すると、己の表皮に嫌な汗が伝う。毒を塗りつけられていくようだった。まるで自身が経験したかのように、その嫌悪感が肌を這い回る。知らない筈の感覚が、ありありと想像できて嘔吐いていた。
「っ、う……」
『メイス、落ち着け。彼女の顔色が悪い。悪夢を見始めているんだろう』
「……はい。分かっています」
唇を噛みしめて唸るアニカに、手を伸ばした。少しでも苦痛が和らぐことを祈って、そっと撫でてやる。
覚悟は出来ている。決然と硝子ナイフを掲げるなり彼女の手を取った。
「〈繋げ。空夢は現と化す〉」
明然たる青が雷発する。腕の血管が破れそうなほど膨張する錯覚。流れる魔力は硝子片さながらに尖り、見えない傷を幾筋も走らせた。
奥歯を噛み締めて交睫すれば、眼裏の闇さえも精霊の青が欺いていた。
『〈閉目せよ。我は鍵。汝は蝶。解錠の音を聴け。ほどかれた琅琅を。擦り切れぬ璆鏘を。開目の刻、籠は開かれた〉』
彼女の夢世界にどんな魔物が徘徊していようが、切り捨てるだけ。そうして夢魔を仕留める。とうに慣れた作業だ。吐き気も落ち着いていた。
光は霧消して頻闇に包まれる。深呼吸の後まなじりを決した。
確かに、開目したはずだ。今、自身は目を開けているはずだ。
真っ暗だった。なにもない。何も、見えない。ただ、窈然な黒だけが、一面を満たしていた。
「……付喪神ッ」
酸素が薄かった。呼吸が乱れていく。片手を持ち上げても、この掌理に硝子ナイフが握られているのか、定かでなかった。
付喪神の魂が青く光ることを願って、片腕が震えるほど魔力を込めた。
『メイス! 詠唱を! 引き返せ!』
「は……」
哂笑が聞こえた。壊れた楽器を出鱈目に奏でるような、不気味な音だった。黒は乱れない。見回しても色は生じない。嘲謔だけが、反響する。
『七日目の夢で会うのは初めてですね。貴方にとっては残念。私にとっては僥倖』
「何を言って……」
『頂戴しますね』
見えない烈風に押し出された。思わず目を瞑っていた。固く閉じた両目は縫い付けられて開けない。明晰夢だと分かっていても目覚められない時の苦痛に似ていた。
視野が明滅する。疼痛が全身に伝播する。耳鳴りが甲走り、余韻までもが犀利だった。
やがて許されたように目を開いた。室内光がやけに眩しい。残夢を漂う感覚に恍としてから、アニカの唸り声に息を呑む。
アニカは落ち着きなく頭を動かして、体を痙攣させていた。咄嗟に彼女を抱き起し、その肩を揺さぶった。
「アニカ」
破裂音が耳を劈く。噴き出した血紅色に瞬きも出来なかった。彼女の体温が星散し、温かにこちらの頬を染める。
現前に在ったのは、顔のない真っ赤な頭部。肉と脳の残骸がこびりついた後頭骨。彼女は噛み潰された果実みたいに、淋漓として血を流し続けていた。
取り落とした硝子ナイフが血の海に落ちた。大粒の肉片がボタボタと落剥し、わけもわからぬまま血の塊を両手で受け止めていた。彼女の顔だったものが指の隙間をすり抜け、零れ落ちていく。
「ア、ニカ……アニカ……ッ」
一掬の血液に、彼女の面影を探していた。それが無意味だと理解してしまえば息が引き攣る。余喘さえ失った首がぐらりと揺れて、血の塊が転がり落ちた。手元に落ちてきたそれを見下ろすと、菫色の虹彩が血と脂に濡れて艶めいていた。
全身の力が抜けていく。アニカの真っ白な手を両手で包み、祈るように項垂れた。痙攣する息骨で彼女の名前と謝辞ばかりを反芻していた。
どうすればいい。あの暗闇でどうすればよかった? どうすれば抗えた?
どうして今が、悪夢の中ではないんだ。
奴の笑い声の残響が、外耳道で響いていた。うるさい。わかっている。気付くのが遅すぎた。
人の記憶に巣食った夢魔は、人の頭蓋を喰らうのだ。
*
はじめに神は天と地とを創造された。
地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。
神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。
第一日である。
──引用『創世記・第一章』




