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悪夢狩りの硝子工  作者: 藍染三月
第二章
13/26

暁闇─Maak me wakker─6

     (五)


 静かな寝息に安堵して、俺はレッグホルスターに手を伸ばした。硝子ナイフを抜き取り、目を伏せる。


 アニカが長い間抱えていたものを俺は何も知らなかった。ずっと心火が盛っている。彼女を傷付け続ける父親に対して、彼女を救ったつもりになっていた己に対して、ずっと、怨憎が溢れて止まらない。


 嘔吐感が喉の奥を占拠していた。気持ち悪い。彼女の受けた苦痛を想像すると、己の表皮に嫌な汗が伝う。毒を塗りつけられていくようだった。まるで自身が経験したかのように、その嫌悪感が肌を這い回る。知らない筈の感覚が、ありありと想像できて嘔吐いていた。


「っ、う……」


『メイス、落ち着け。彼女の顔色が悪い。悪夢を見始めているんだろう』


「……はい。分かっています」


 唇を噛みしめて唸るアニカに、手を伸ばした。少しでも苦痛が和らぐことを祈って、そっと撫でてやる。


 覚悟は出来ている。決然と硝子ナイフを掲げるなり彼女の手を取った。


「〈繋げ。空夢は現と化す〉」


 明然たる青が雷発する。腕の血管が破れそうなほど膨張する錯覚。流れる魔力は硝子片さながらに尖り、見えない傷を幾筋も走らせた。


 奥歯を噛み締めて交睫(こうしょう)すれば、眼裏の闇さえも精霊の青が欺いていた。


『〈閉目せよ。我は鍵。汝は蝶。解錠の音を聴け。ほどかれた琅琅を。擦り切れぬ璆鏘(きゅうそう)を。開目の刻、籠は開かれた〉』


 彼女の夢世界にどんな魔物が徘徊していようが、切り捨てるだけ。そうして夢魔を仕留める。とうに慣れた作業だ。吐き気も落ち着いていた。


 光は霧消して頻闇(しきやみ)に包まれる。深呼吸の後まなじりを決した。


 確かに、開目したはずだ。今、自身は目を開けているはずだ。


 真っ暗だった。なにもない。何も、見えない。ただ、窈然(ようぜん)な黒だけが、一面を満たしていた。


「……付喪神ッ」


 酸素が薄かった。呼吸が乱れていく。片手を持ち上げても、この掌理に硝子ナイフが握られているのか、定かでなかった。


 付喪神の魂が青く光ることを願って、片腕が震えるほど魔力を込めた。


『メイス! 詠唱を! 引き返せ!』


「は……」


 哂笑が聞こえた。壊れた楽器を出鱈目に奏でるような、不気味な音だった。黒は乱れない。見回しても色は生じない。嘲謔(ちょうぎゃく)だけが、反響する。


『七日目の夢で会うのは初めてですね。貴方にとっては残念。私にとっては僥倖』


「何を言って……」


『頂戴しますね』


 見えない烈風に押し出された。思わず目を瞑っていた。固く閉じた両目は縫い付けられて開けない。明晰夢だと分かっていても目覚められない時の苦痛に似ていた。


 視野が明滅する。疼痛が全身に伝播する。耳鳴りが甲走り、余韻までもが犀利だった。


 やがて許されたように目を開いた。室内光がやけに眩しい。残夢を漂う感覚に恍としてから、アニカの唸り声に息を呑む。


 アニカは落ち着きなく頭を動かして、体を痙攣させていた。咄嗟に彼女を抱き起し、その肩を揺さぶった。


「アニカ」


 破裂音が耳を劈く。噴き出した血紅色に瞬きも出来なかった。彼女の体温が星散し、温かにこちらの頬を染める。


 現前に在ったのは、顔のない真っ赤な頭部。肉と脳の残骸がこびりついた後頭骨。彼女は噛み潰された果実みたいに、淋漓(りんり)として血を流し続けていた。


 取り落とした硝子ナイフが血の海に落ちた。大粒の肉片がボタボタと落剥し、わけもわからぬまま血の塊を両手で受け止めていた。彼女の顔だったものが指の隙間をすり抜け、零れ落ちていく。


「ア、ニカ……アニカ……ッ」


 一掬《いっきく》の血液に、彼女の面影を探していた。それが無意味だと理解してしまえば息が引き攣る。余喘さえ失った首がぐらりと揺れて、血の塊が転がり落ちた。手元に落ちてきたそれを見下ろすと、菫色の虹彩が血と脂に濡れて艶めいていた。


 全身の力が抜けていく。アニカの真っ白な手を両手で包み、祈るように項垂れた。痙攣する息骨で彼女の名前と謝辞ばかりを反芻していた。


 どうすればいい。あの暗闇でどうすればよかった? どうすれば抗えた?


 どうして今が、悪夢の中ではないんだ。


 奴の笑い声の残響が、外耳道で響いていた。うるさい。わかっている。気付くのが遅すぎた。


 人の記憶(ゆめ)に巣食った夢魔は、人の頭蓋を喰らうのだ。


     *


 はじめに神は天と地とを創造された。


 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。


 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。


 神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。


 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。


 第一日である。


 ──引用『創世記・第一章』

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